さて。
まずは西古堡へ向かう。
地図を見てもわかるとおり、3つの城堡の真ん中に暖泉書院があり、そこが鎮でもっともにぎやかな盛り場である。
そのほかにも、3城堡の周囲を走る街道が、昔からの商業のための往来として、
沿道に商店、キャラバン宿などが連なってにぎやかだ。
城の中は、「寝に帰るところ」という雰囲気の住宅街。金儲けの場は、城の外が中心である。
お葬式の白い花輪の名残。
やや西洋風の建物。民国時代のものだろうか。
「総合商店」の文字。
西古堡も城内より城外のほうがにぎやかである。
この地方の特産、豆腐の燻製のお店。
やたらと豆腐の燻製屋さんが多い。
ここの人たちは、昼も夜もこれを食べまくるんだろうか。。。。
出たー! 昼間から表で座り込む働き盛りの男ども。
華北の農村では、これが一番特徴的。
日がなしゃがみこんではいるが、ぼおおっとしているわけではないんですな。
ここではこつこつとまじめに働くことは、あまり価値をなさない。
まじめに働いて人に評価されたい奴は、都会にでも出稼ぎにいけばいい。
こういう巷の井戸端会議に参加し、つねに村の中の動き、ニュースにアンテナを張り、
何か金儲けのネタになることはないか、と神経を研ぎ澄ますことが大事なのである。
西古堡は、明の嘉靖年間の創建である。
城前には、牌楼がある。
「甕城」の横から入っていく。
「甕城」は、城門が敵に破られないように、城門の外をさらに「コーティング」した城壁だ。
城門をくぐっていく。
底光りした石畳。
甕城の中を入っていくと、意外と広い。
なぜか民家もあるし。
こちらが、正式な城門。
やはり石畳は、底光り。
甕城が増築されたのは、清の順治年間だという。
清代は、「満蒙一家」というように、モンゴル族を「準親戚」としてまで扱ったのに、
わざわざ防衛を強化するための甕城を作るとは、どういうことだろうか、と一瞬考えた。
しかし順治年間はまだ清の建国まもないし、あまりモンゴルとの関係も安定していない。
実際に順治帝の息子の康煕帝の時代、
モンゴルの正統血統をもつリンダン・ハーンの後裔チャハール部が反乱を起こしている。
康熙帝もそんなモンゴルに睨みを利かせるため、何度も「北巡」に出ているではないか。
モンゴルが暖泉から紫荊関を突破して、一気に北京の南に出てこられたら、確かにやばい。
西古堡は、元もと「民堡」だったという。
明代、「軍屯」の組織があったのは、北官堡であり、軍人はそこに住んでいた。
ここは民間人が住むための城堡なので、防衛がやや手薄だったため、補強したのだろう。
そういえば、甕城の屈強さ、頑丈さ、分厚さに比べ、正式な城門のひ弱さ、低さ、薄さはコントラストを成す。
確かにこれでは、甕城で補強しないと、心細かっただろうなあ、と納得いくのである。
城門をくぐりぬけ、左側を見ると、城門の上に上がるための階段がある。
城の中に入り、後ろを振り返った城門。あまりにも低く、頼りなげ。
にほんブログ村
まずは西古堡へ向かう。
地図を見てもわかるとおり、3つの城堡の真ん中に暖泉書院があり、そこが鎮でもっともにぎやかな盛り場である。
そのほかにも、3城堡の周囲を走る街道が、昔からの商業のための往来として、
沿道に商店、キャラバン宿などが連なってにぎやかだ。
城の中は、「寝に帰るところ」という雰囲気の住宅街。金儲けの場は、城の外が中心である。
お葬式の白い花輪の名残。
やや西洋風の建物。民国時代のものだろうか。
「総合商店」の文字。
西古堡も城内より城外のほうがにぎやかである。
この地方の特産、豆腐の燻製のお店。
やたらと豆腐の燻製屋さんが多い。
ここの人たちは、昼も夜もこれを食べまくるんだろうか。。。。
出たー! 昼間から表で座り込む働き盛りの男ども。
華北の農村では、これが一番特徴的。
日がなしゃがみこんではいるが、ぼおおっとしているわけではないんですな。
ここではこつこつとまじめに働くことは、あまり価値をなさない。
まじめに働いて人に評価されたい奴は、都会にでも出稼ぎにいけばいい。
こういう巷の井戸端会議に参加し、つねに村の中の動き、ニュースにアンテナを張り、
何か金儲けのネタになることはないか、と神経を研ぎ澄ますことが大事なのである。
西古堡は、明の嘉靖年間の創建である。
城前には、牌楼がある。
「甕城」の横から入っていく。
「甕城」は、城門が敵に破られないように、城門の外をさらに「コーティング」した城壁だ。
城門をくぐっていく。
底光りした石畳。
甕城の中を入っていくと、意外と広い。
なぜか民家もあるし。
こちらが、正式な城門。
やはり石畳は、底光り。
甕城が増築されたのは、清の順治年間だという。
清代は、「満蒙一家」というように、モンゴル族を「準親戚」としてまで扱ったのに、
わざわざ防衛を強化するための甕城を作るとは、どういうことだろうか、と一瞬考えた。
しかし順治年間はまだ清の建国まもないし、あまりモンゴルとの関係も安定していない。
実際に順治帝の息子の康煕帝の時代、
モンゴルの正統血統をもつリンダン・ハーンの後裔チャハール部が反乱を起こしている。
康熙帝もそんなモンゴルに睨みを利かせるため、何度も「北巡」に出ているではないか。
モンゴルが暖泉から紫荊関を突破して、一気に北京の南に出てこられたら、確かにやばい。
西古堡は、元もと「民堡」だったという。
明代、「軍屯」の組織があったのは、北官堡であり、軍人はそこに住んでいた。
ここは民間人が住むための城堡なので、防衛がやや手薄だったため、補強したのだろう。
そういえば、甕城の屈強さ、頑丈さ、分厚さに比べ、正式な城門のひ弱さ、低さ、薄さはコントラストを成す。
確かにこれでは、甕城で補強しないと、心細かっただろうなあ、と納得いくのである。
城門をくぐりぬけ、左側を見ると、城門の上に上がるための階段がある。
城の中に入り、後ろを振り返った城門。あまりにも低く、頼りなげ。
にほんブログ村
中国地図とGoogle Earthで確認しました。
今は街の中に堡があるんですね。
この辺の長城は崩れてしまっているので観光地にはならないようで。
暖泉は「仏鏡」と写真入で説明されてました。
一つ教えてください
「河北省張家口市蔚県暖泉鎮」という住所のようですが、日本の表示に直すと
「河北県張家口市蔚町字暖泉鎮」ということになるのですか?
そしてほとんどの地名表示はこの構成になっているのですか?
主に交通機関の問題ですねー。
北京からは、大型トラックが自転車よりもとろいスピードで前進して大渋滞を起こしたり、鉄道もなかったり。
この数年で、高速道路、鉄道の拡張計画があり、それが整ってしまうと、
べたべたに手垢のついた、ディズニーランドのようなテーマパークになってしまいます。
>「河北県張家口市蔚町字暖泉鎮」
「県」は、どちらかというと、日本の「郡」に近い感じです。
「鎮」が「村」や「町」に当たります。
省の下に直接、県がくる場合もあります。