いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

暖泉6、地蔵寺の二階

2012年04月11日 15時01分36秒 | 河北・蔚県と暖泉
地蔵寺は、甕城の構造をうまく活用した、変化に富んだ間取りになっており、
それもなかなか渋いただずまいだ。

    

ちいさくて急な階段を上っていく。


二階に出ると、視界が開ける。





二階のお堂の中。







中国全土、どこでもそうなのだが、このけばけばしい、改革解放後に作ったばかりのはりぼて塑像は、いただけない。

しかし後ろの壁画は本物ですぞ。
年代は確認していないが、おそらく明代のもの。
この辺りは、軽く明代のものがごろごろ転がっているから、恐れ入る。

    


色が真っ赤なのは、窓に赤い布が張ってあり、部屋が怪しく赤くなっているからだ。
そりゃあまあ。直射日光で当てたら、明代の壁画もとんでもない損傷になりますからな。





寺の反対側にまわり、上からメインストリートを眺める。




さっき下で見た、城門の横に入り口のあった家が見える。
どうやら空き家になっているようですな。もったいないー。
でもこの位置じゃあ、毎日観光客に家の中覗かれて、生活が丸見えー。
しかし数年後に来たら、おされなカフェに変身している予感が大。




さっき通ってきた劇台が見える。




寺には甕城の端のほうに展望台もある。




    


    


    


甕城の外は、見渡す限りの畑ー。




上から見た、城内の別の四合院。こじんまりしたたたずまいが童話的。




ところで今では、すっかり変貌してしまった北京城には、
四合院が碁盤の目に規則正しく並んでいる様子は、なくなってしまったが、
この西古堡には、まだほぼ完全な形で残っている。

よそのサイトからの借用写真。







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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
仏教寺院 (~弥勒~)
2012-07-07 17:24:13
これ、仏教寺院ですね。

本堂の中には本尊のお地蔵さん。
壁画は閻魔様を始めとする十王図・地獄絵図ですね。
仏教では唐末以降閻魔様=お地蔵さんだからですが。

これ、日本にあったら有名寺院になります。
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弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-07-07 17:57:39
えー。そうなんですか。それはどうして?
弥勒さんにいろいろとつっこまれるからと思って、ちゃんと細部も撮るように意識してきましたよー。
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ありがとうございます (~弥勒~)
2012-07-07 19:48:46
いろいろとお気遣いありがとうございます。かゆいところに手が届くようで(笑)。

昔中国で道教が「人が死んだら生前の罪を裁く10人の王の前に行く。それぞれの王に罪ありと判断されると『血の池地獄』とか、いろんな地獄で苦しめられる。」と決めました。仏教もそれを真似ることにしたのですが、仏教の場合『王』は居ませんので、それぞれの王に対応する『仏様』を設定しました。
道教の『閻魔王』を『地蔵菩薩』だとしたのです。
それで両者を適当に配置するお寺を造りました。
その一つの形が地蔵菩薩を本尊に、十王図(地獄絵図)を壁面に配置するお寺になりました。
日本では地獄絵を配置しているお寺はごく僅かです。
ってなことなんです。
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弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-07-07 21:06:21
なるほどー。

こちらこそ、いろいろ勉強になりますー。
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疑問のみです (~弥勒~)
2012-07-08 14:22:23
昨晩考えました。地蔵寺の壁画が明の時代に書かれたといーちんたんさんが推定されていますが、その時期に外長城と内長城の間の多数の鎮が武装解除していたのだろうか?と思ったのであります。もともと軍事施設として建設されたところが寺院になるということは軍事施設が不要になったためと考えられます。そしてそれが現存しているということはそこではほとんど戦闘がなかったということになります。
「西古堡は、明の嘉靖年間(1522-1566)の創建である。」そしてこれはドラマ「大明王朝」にあるように対モンゴルとして建設されたのですね(「大明王朝」DVD見はじめました)。モンゴルの脅威(その後モンゴルが後金に降ったので、後金の脅威は続きます)は明の末までありましたから、その時期に軍事施設の廃止は無いのでないだろうか。

ちょいと年表にしてみます。

後金国の独立(1616)
農民反乱・李自成の乱(1628-1644)
後金が山海関より北を征服
明山海関の守将袁崇煥を処刑(1630)
後金が南モンゴル(外、内蒙古)を組み入れ(1635)
清の建国(1636)
崇禎帝の自殺による明の滅亡(1644)
明山海関の守将呉三桂が清に投降する(1644)
清が北京に遷都(1644)

ということで、地蔵寺は清の時代に出来たのではないだろうか?

単に疑問が湧いただけでありまして、ご回答は不要であります。
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弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-07-08 14:47:01
鋭い質問をありがとうございますー。

軍事施設だからといって、寺院が建てられない、という構造には、ならないのではないでしょうか。

蔚県でも城壁の上にお寺があったわけですから。
守りながら、同時にお祈りもする、という。。。

またこの建物は嘉靖年間に建てられていますが、アルタンハーンとの和睦が成立する「隆慶の和議」の後、モンゴルとの戦争状態は終了し、平和時代が訪れます。
ですから隆慶年間以後、明末まではモンゴルとは平和な時代がずっと続き、明の滅亡は直接的にはモンゴルとは関係ないところで起こっているわけです。

ただその後も町が発展を続け、清代にも新たな寺院が作られる可能性もありますね。
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いやぁ~ (~弥勒~)
2012-07-08 17:11:52
ご回答ありがとうございます。

明代のものとした場合一番可能性の高いのがおっしゃる通り「隆慶年間以後、明末まではモンゴルとは平和な時代がずっと続き」ということではないかと思っているんです。
そして清が李自成を攻めたときにはモンゴルはそこを通過したでしょうが、多くの鎮は抵抗能力がなかった。ということではないかと思うのですが。

中国の歴史遺産は沢山有るからまた見に行きたいですね。
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