12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

楊貴妃

2008年08月31日 07時38分42秒 | Weblog

 

 写真は、古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)である、楊貴妃は右端。

           

 楊貴妃(ようきひ、開元7年(719年) - 至徳元載(元年)6月16日(756年7月15日))は中国唐代の皇妃。 姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。

玄宗皇帝の寵姫。あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。

西安に華清池と呼ばれる温泉地があり、楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスの地でもあった。

           

本当かどうかは判らないが、華清池では妖艶な楊貴妃の像を見ることが出来た。

 帰りバスに乗る直前、近くのレストランを借切って結婚式が行われていた、若い参列者ばかりで熱気が溢れ、新生中国の底力を見せられたような気がした。

ビデオの方は次をクリックしてください。

http://www.veoh.com/videos/v15626047bGW98ytx

 

 


シャンソン

2008年08月30日 07時11分43秒 | Weblog

最近全く聞く機会がなくなった歌にシャンソンもある。

本来、シャンソン(chanson)は、フランス語で歌の意味である。したがって、少なくとも現代のフランス語圏においては、シャンソンは歌全般を意味し、特定ジャンルの楽曲を指すものではない。

他言語圏ではフランス語で歌われる曲という意味で使われることが多く、この場合も何らかの音楽的特徴を持つものではない。なおイタリア音楽のカンツォーネ(Canzone)とは元々の語源は同じである。

 次のような曲を聴きたいと思うのだが、現在の日本では、なかなかその機会がない。

 愛の歓び  Plaisir d'amour 19世紀の古典的なシャンソン

枯葉 Les Feuilles mortes  イヴ・モンタン  最も著名な曲の1つ。

バラ色の人生  La Vie en rose  エディット・ピアフ イヴ・モンタンとの愛を歌った曲。

愛の讃歌  Hymne à l'amour  エディット・ピアフ  マルセル・セルダンへの愛を歌った曲。

ラ・メール(海)  La mer  シャルル・トレネ

雪が降る  Tombe la neige  サルヴァトール・アダモ

オー・シャンゼリゼ  Les Champs-Elysées

メル友が教えてくれたのは、無名の演奏家達が自己の作品を公開しているサイトのようである。
(フランス語の記述が多く、良く判らない)

この種の無名の人達を紹介するようなサイトを日本では知らない。

 試しに聴いてみた。これはギターの演奏家のようであるが、結構聞けるのである。
ヨーロッパのテイストを感じたるのは小生だけだろうか。

http://www.jamendo.com/en/album/7155

 


ハンニバル

2008年08月29日 07時39分01秒 | Weblog

 BC2世紀前後と言うと、秦の始皇帝の頃である。この当時、地中海ではローマが勢力を拡大中であったが、これに正面から挑んだのが、かの有名なカルタゴの武将ハンニバルであった。

当時、カルタゴはシチリアと海を介して近接する、北アフリカの軍事大国であった。

まずスペインを攻め、続いてこの時代の重戦車である象を伴って、スペインからアルプスを越えてイタリアに攻め込み、一時はローマ陥落かと思わせるほど健闘したのが、カルタゴの天才的武将ハンニバルであった。

長年ローマに対して連戦連勝だったハンニバルを破ったのは、ローマの若き天才スキピオであった。 カルタゴ滅亡後、偶然にロードス島で出会ったとき「貴方は、最も優れた武将は誰だとおもいますか」と12歳年下のスキピオは丁重に質問した。

 ハンニバルは「第一にアレキサンダー大王、第二にエピロスの王エピロス、第三番目は問題なく私自身」と答えたのであった。

さらにスキピオは聞いた「もし、貴方が私に勝っていたとしたら?」。アレキサンダーは「勿論、私がアレキサンダー大王を越えて一番だ」と答えた。

アレキサンダーの考え出した戦術を学びそれを駆使して、師のアレキサンダーを破ったスキピオでなく、戦術を考え出したアレキサンダーを上位においているのが、ヨーロッパでの評価である。

ハンニバルの不幸は、優れた弟子スキピオが敵方に出た事であった。 さらなるハンニバルの大きな戦略上の誤りは「勝って寛容になり、敗者さえも協力者してしまうローマ人の生き方」を理解できなかったことであった。

大ローマ帝国建国の大きな力が、このローマ人の生きかたのひとつようであるが、更なる調べを進める必要があると思っている。


旅情

2008年08月27日 07時25分24秒 | Weblog

 動画公開サイトで、友人を求める知らせが時々表示される事がある。珍しいことにマルタ(地中海にある国)の人からこの要請があった。

マルタ共和国(―きょうわこく)、通称マルタは、南ヨーロッパ。首都はバレッタ地中海に浮かぶ島国で、共和国である。ミニ国家の一つ。

面白半分にOKしたら、どうもホテルの宣伝をしていると思われるビデオを公開している人のようだった。

個人的なアルバイトなのか会社が行っているか不明だが、結構上手く作られており、旅情をそそる作品であるので、ご紹介して見ることにした。

http://www.veoh.com/videos/v6271138EKYyBHkh?jsonParams=%257B%2522user%2522%253A%2522bestofmalta%2522%252C%2522veohOnly%2522%253Atrue%252C%2522order%2522%253A%2522mr%2522%257D&context=CHANNEL&viewType=user

 


空海

2008年08月26日 06時58分36秒 | Weblog

「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。

弘法大師空海については沢山の有名なお話が残っているが、西安での密教の第七祖である(唐 長安)青龍寺の恵果和尚から、「器から別の器に水を注ぐ如く」密教の奥義を会得され、第八祖となって帰国された弘法大師の事もその一つである。

 小生の西安での旅の最大の目的は、この青龍寺にお参りすることだった。納経帳に御朱印を頂き帰国した。

 <!-- 青竜寺 -->

 

おまけ:
大変良くご承知のお話であろうが、念のため記しおきます。

長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

西暦805年5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。

6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。

8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。 伝法の印信である。

阿闍梨付嘱物とは、金剛智-不空-恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。

対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。


願い事

2008年08月25日 07時08分14秒 | Weblog

 大聖堂の落書きがマスコミで大きく騒がれていた。さしたる悪意を持たずただ記念にしたかったのであろうが、この種の行為は決して褒められるものではない。

 この落書きについてマスコミの尻馬に乗りくどくど書こうと言うつもりはない。

先日、イタリアの教会で見た光景では牧師さんから蝋燭を購入し願いをする人達を見た。信者なのであろう、今の我々には真似のできない敬虔な行為のような気がする。

自分の日常を振り返って見ると、敬虔・真剣・恥などを考える事などから逃避しようとしているのである、出来るだけ負担になる事から遠ざかろうとしており、敬虔・真剣・恥などと言う事から無縁に近い生活をしているのである。

少し、気持ちを引き締める必要があるような気がするが、それもだんだん億劫になっている事も事実である。

 小生の数少ない真剣になる機会は、お参りの時である。 神社では絵馬があり、お遍路では納め札に願い事を書くという習慣が日本にはあるが、クリスチャンの世界ではあいにくと記録に残るような形での願い事をする光景は見出すことができなかった。

神社・仏閣・お遍路などでは、お賽銭やろうそく・線香を捧げるだけではなんとなく心もとなく、より一層願いがかなうようにと、この種の記録に残る行為を行うようになったのであろう。

特にお遍路の場合には、願い事を書いた木の札を釘でお寺の柱や壁に打ち付ける事から出たと言われているように、お参りをする事を「打つ」と表現する事を教えられた。これなどは落書きにまさる破壊行為のようにも思えるのである。


漓江下り

2008年08月24日 06時33分37秒 | Weblog

この写真は、画面のコピーです、ビデオを見るには、
下記URLをクリックして下さい。

桂林第一の絶景は、なんと言っても、漓江下りである。
何の説明も不要であろう。暫くの川下りを楽しんでいただきたい。

 85km 5時間の船旅を、僅か9分50秒で体験できる。
但し映像のみ、川魚中心の中華ランチまでは、食べられませんが。

http://www.veoh.com/videos/v15546048nHSNDb4F?rank=8&

注記;
イタリアばかりでは偏りそうなので、桂林・西安を旅した記録も再編集して並行して公開しましょう。

西洋に無い、東洋の良さもお感じ頂きたいものである。


カラス

2008年08月23日 06時14分43秒 | Weblog

 ローマ以外の国家では、ひとたび敗将となって帰国すると、死刑にされる場合が殆どだった。

しかし、敗将を罰しないローマ方式は、指導者が敗者復活戦に幾度も登場する事ができた。 それは「失敗を犯したから何かを学んだのに違いない」という考えだったようである。

BC2世紀頃のカルタゴは、世界に冠たる海軍国だった、そして赤子の手をひねるが如くローマ海軍(橋にも棒にもかからない、素人海軍)は惨敗した。

次の会戦では、カルタゴ海軍の優秀な操船技術を無力化するために巨大なクレーンの先端に、とびぐち「カラス」と呼ばれる道具を考案し、操船すらままならぬ自軍の軍艦をくちばしのような「カラス」の鍵で、自軍の軍艦とカルタゴの軍艦とを連結した。

これではいかに操船技術にたけたカルタゴ海軍といえども、同ザイズの巨船にさばりつかれては、ただ浮かんでいる物体と化してしまった。

敵の主戦力たる海軍力を非戦力化してしまうという戦法が成功し、あとはローマの重装歩兵が「カラス」をつたって乗り込み、海上の戦闘を陸上の戦闘に変えてしまった。

勝負はいうまでもない。

敗者が復活できる国だったことが、大ローマ建国の一つの要因のように思えるのだが・・・、歴史学者はどう言うのだろうか。


純・不純

2008年08月22日 07時19分13秒 | Weblog

 この題を原稿の段階では「針の音」としていたのだが、思いなおして「純・不純」と変更した。

それは音楽として完全無欠か否かを論ずるのは録音した音楽家達に失礼だと思ったからで、厳密には「純粋な音楽」か「多少混ざり物のある音楽」かということが主たる論旨だからである。

音楽を聞く方法は色々あるが、代表選手はCDであろう。しばしばお世話になる、たしかに音は良い、音質には不満はないが、どうも何故か疲れを感じて途中でやめる事が多い。

完全無欠というよりは純粋過ぎてどうも疲れるのである、その上聞いていてアジ(味)を感じないのである。

 レコードは既に過去の物になってしまったが、我々世代は今でも懐かしく聞くことがある。真っ黒のSPレコード(数分)であり、ドーナツ盤(数十分)であり、LP盤(1時間)まであり、音を出すには昔の電蓄と呼ばれる機械が必要となる。

小生の電蓄はそれほどよい音質のものではないし、レコード特有のシャリシャリと針の音がする。それでもCDより何故だかリラックスできるのである。

針の音があるということは、完全無欠ではないということであるが、どうも小生には完全無欠よりちょっと不完全な部分がある方が向いているようである。

レコードの最大の問題点は、盤と針の磨耗であり、また盤や針を入手できるところが殆ど無いことである。これが理由で、レコードを聞くのはどうしても特別な時に限られてしまう。

 この替わりにしているのがカセットテープで、この場合には、音源の大半がラジオである。 殆どの場合に、曲と曲との間に何らかの解説やお話が挿入されている、これも音楽から見れば不完全要素にあたるのであろうが、本来不完全な自分にはこの方が向いているようである。

もしテープでも連続して曲が流れるとCDと同様に聞き疲れるのだが、間奏にトークなどが入ると一休みでき、ゆったりと聞くことができるのである。

 小生は当分の間、レコードは極上の時を楽しむため、平常はカセット主力で過ごす予定である。そして、不純な「多少混ざり物のある音楽」を楽しもうと思っている。


建築物耐震診断

2008年08月21日 06時54分42秒 | Weblog

今朝、玉野市の広報メールに以下のような記事がありましたので、ご紹介しておきます。

 s56年以前建造の木造住宅が対象です。
ご興味のあるお方は、下記のリンクをクリックしてください。

 ●建築物耐震診断について  

この制度は建築物の「耐震診断等」に必要な費用の一部を玉野市が補助するものです。 ※現在、平成20年度ぶんの補助申請を受付しています。

http://www.city.tamano.okayama.jp/webapps/www/info/detail.jsp?id=1223

 


ピサ

2008年08月20日 06時43分05秒 | Weblog

 

まだまだローマまでの道のりは長い、そろそろフィレンツェの次に進むことにしよう。斜塔で有名なピサを探訪してみよう。

 ピサは、イタリア中部、トスカナ地方にあり、アルノ川河口から10kmほど内陸に位置するテレニア海側の町である。

海への出口が欲しい内陸のフィレンツェにとっては、のどから手が出るほど欲しい街だった。占領を試みるフィレンツェとは、何度も戦となった歴史がある。

12Cには西地中海への進出最盛期を迎え、豊かなる海洋都市国家であった。

大聖堂は11C~13Cにかけて建造され、内部には絵画や彫刻や立派な装飾など見るべきものが多かった。 斜塔だけでなくこちらも是非ご見物される事をお勧めする。

ガレリオが振り子の等時性を発見したといわれる、天井から吊り下げられたキャンドルも見る事ができる。

大聖堂の北側には、墓地カンポサントが高い回廊に囲まれてある。

この墓地に埋葬されるためには、地位と名誉とお金が必要だと聞いたのが、人の世のならいとはと、残念に思えた事だった。


睡蓮

2008年08月19日 06時44分20秒 | Weblog

小生は大変睡蓮が好きである。それを知っているメル友が送ってくれた睡蓮の写真である。

光線の具合か水が澄んでいるのか水面に柳であろうか綺麗に写っている、初めて見る幻想的な光景であるのでご紹介する。

場所はストラスブルグ、広い森林公園や幾つかの熱帯植物用の温室や冬季の寒さから植物を保護するための温室などがある広大な植物園である。

さらに綺麗な音楽をBGMに採用したスライドショーも送ってくれた。
是非一度ご覧頂きたい。

http://www.veoh.com/videos/v15593918NQKcsZ47

 

 


両眼複視再再発

2008年08月18日 06時29分38秒 | Weblog

 三度目の両眼複視発生である。口で言っても判りにくいので、写真合成をしてみた。

厳密には多少異なるが、両目で見ると、こんな感じに見えるのである。

 これでは、とても不便で危険なので、自宅では、片目を眼帯で覆い単眼で見ている。遠近感がなくなるので、物を取り落としたら倒したり、或いは、角にぶつかったりと、面倒な事が起きるようになった。

本日は、K市の病院(脳神経外科と神経内科がある)で受診する予定である。本年は小生の健康上のターニングポイントの年のようである。


夢のスマロかホンキュの街か

2008年08月17日 05時43分56秒 | Weblog
上海同窓会幹事からのメールにこんな記載があった。

「全員そろって上海ブラブラ歩き(人民公園ー南京路ー外灘ー豫園ー新天地ー元気があれば虹口まで。

石原裕次郎の「夜霧のブルース」に出てくる「夢のスマロかホンキュの街か」と
いう歌詞にあるスマロとは「四馬路」で我々が泊まる南京東路(旧名三馬路)の
隣の通り、昔は怪しい地域だったらしい。

ホンキュは「虹口」のこと。昔日本租界がありその面影や魯迅の寓居も残っておりとてもレトロな地域。サッカースタジアムも近くです。」

「夢のスマロかホンキュの街か」については、小生はむしろもっと古いディック・ミネの「上海ブルース」の方がぴんとくるのである。

涙ぐんでる 上海の
夢の四馬路の 街の灯
リラの花散る 今宵は
君を想い出す
何も言わずに
別れたね君と僕
ガーデン・ブリッジ
誰と見る青い月

甘く悲しい ブルースに
なぜか忘れぬ 面影
波よ荒れるな 波止場の
月もエトランゼ
二度とは逢えない
別れたらあの瞳
想いは乱れる
上海の月の下


あいにくとディクミネ本人の歌が無いので、男装歌手のものにした。





今日我々民衆の外国への関心は、文化的な興味や観光に関する関心が主なのだろうが、この時代には海外雄飛の言葉で表されるような、自分が広大な海外で活躍する事を多くの人達が夢見る事の出来た時代だったようである。

戦前のある時期は、今日より強い海外への憧れを国民が抱かされていたのであったろうと思う。歌も時代を代表するのである。


補足(若い人達のために);

ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手、俳優である。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(-こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画に多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。


耐震強度調査結果

2008年08月16日 07時35分44秒 | Weblog

 我が家は、昭和47年の建築になる木造住宅である。あと何年使用できるのか常に気になるようになっている。

 これから想定されている南海地震に対して、地震に強まちづくりを推奨して実施されている「岡山県木造住宅耐震診断事業」による耐震診断を7月中旬に受けた。

そして、先日(社)岡山県建築士事務所協会から「木造住宅の一般診断報告書」が届いた、実地検分に来て以来1ヶ月経っていた。

調査結果は、
倒壊しない   :1階のy方向と2階のx・yの両方向
一応倒壊しない :1階のx方向
との診断結果であり、
「現段階では特に問題は無いが、維持管理に注意するように」とあった。

 

特段の問題は無いようで、ほっとすると共に、今後の維持管理をどうすべきか、この家を建ててくれた大工さんと相談してみようと思っている。

耐震診断料4万2千円を振り込み、その領収書を市役所に持って行くと、補助金2万8千円が還付される運びである。(実質自己負担=14000円)

参考;
この診断の対象住宅は、木造2階建てまで、S56年以前に建てたもの(古い建築基準によったもの)。

また、申し込みは、市役所建築課。
予算の関係で年間10件程度、申し込み順。
ご興味のある向きは、一度Telか立ち寄って見るとよい。