12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

電話

2006年09月30日 05時25分39秒 | Weblog

個人的な連絡は、電話中心の時代がしばらく続いたが。

最近では、これにメールが、これにとって変わっている。

したがって、電話は、受信専用となった感が強い。

どうゆう訳か

午前中は10時前後、
午後は4時前後、
夕方は5時過ぎと7時過ぎに

セールス電話が毎日掛かってくるようになった。

とにかく煩わしいのである、
“迷惑”電話なのである。

色々対策を考案したが、
番号表示機能を持たない旧式の電話のため、

やむなく24時間「留守電モード」
に設定して今日に到っている。

知人友人から、
苦情をしばしば頂く羽目になっている。

「お前の家に電話しても何時も留守ではないか」

とお叱りがあるが、
事情を説明して、
ご理解を頂いているのが現状である。

便利になればそれなりに
不都合なことも増えるのであろうが、

何とかならないものだろうか。


名作

2006年09月29日 05時48分05秒 | Weblog

ある女性読者から、映画「哀愁」の思い出をコメントいただいた。

これを契機に、懐かしい名作映画について、
思い出など書き連ねることも、お題とすることにした。

名作とは?  
いつもの癖が始まる。映画はもとより、
音楽・絵画・書道・小説・詩・・・・数え上げだしたらきりが無い、
どんなものを名作というのだろう?

名作度 = {感動の深さ}x{感動(客)の数} と仮定してみよう。

A;感動は深いが、数は多くない     = 収入 少

B;感動・数ともかなり         = 収入 中 

C;感動は、ほどほどながら、著しい数  = 収入 大

D;深い感動、著しい数         = 収入 極大  

間違いなく、Dは、名作と評価されるようである。

しかし、Aも名作と呼ばれても良いように思えるのだが・・・。

インターネットの普及とともに、AがDに変身する社会が近づいていると感じている。

またまた、「変身」の賛辞となってしまった。

お金という尺度は、身近で判り易い、
ついつい「お金の多寡(たか)」でものを評価するが、
本物を見極める目も持ちたいものである。

先日、非常に見たかった映画のDVDを、借りることができた。

この作品は、小生の分類で言うと、[D]に該当する。

たまたま忙しい時期にあったため、見損ねたものであった。

その題名は、「ALWAYS 三丁目の夕日」であった。

約50年前の東京タワー建設たけなわの頃、
その近くの下町に住む人達の物語であった。

夢と希望にあふれ、懸命に生きていた時代のことである。

同年代の人達には、
自己の思い出とダブって、
何とも言えない郷愁と感動をおぼえるであろう。

若い人達には、
夢と希望にあふれた時代の在ったことを、
羨ましく思わせることであろう。


切り口

2006年09月27日 05時43分20秒 | Weblog

吉川 英治原作の「宮本武蔵」の映画であったように思う。

 柳生石舟斉だったか柳生但馬守だったか、はっきりしないが、芍薬の小枝の切り口を武蔵への返事として送った映像を記憶している。

この切り口を、武蔵が一目見て、芍薬の送り主が、いかなる名人であるかを悟るという場面であった。

その日も、小生は、3種類の献立のうち、何時ものように一番難しい献立に手を上げた。

コロッケであった。

3人ずつ2組で同じ献立を担当する、自然と他の組と競争のような感じになる。

いつもの事ながら、ジャガイモの皮むきで遅れをとり、たまねぎのみじんきりでまたまた遅れをとった。

先生が、これは問題と認識したのであろう。

直ちに、師範代に助け舟を指示、先に完成した料理が冷めることも無く、試食が開始できた。

皆やれやれの面持ちであった。

師範代の助力の一つに、キャベツの千切りがあった。

その切り口の美しいこと、仕上がりは僅かの寸法誤差も無く、整然と仕上がっているではないか!

さすが、師範代である。
同年代ながら、息を呑むのであった。

精進すればできる人(師範代)あり、精進してもできない人(小生)もあり。この世は様々である。


写真俳句

2006年09月26日 04時51分02秒 | Weblog

某国営放送TVで、珍しい番組を見た。

本邦初公開番組(写真句会・フォト五七五)という。

「写真俳句」の番組であった。

出演者は、森村誠一氏(小説家)、浅井愼平(写真家)、女流俳人(名前を忘れた)、落語家(木久蔵師匠)、美人タレント(名前を忘れた)、女性アナなどだった。

森村誠一氏は、以前、自分の俳句と自分で撮影した写真とを組み合わせて「写真俳句」の本を出版していた。 

数ヶ月前、この本を図書館で借りて読んだことがある。

「省略の文学」と教わった俳句は、読み慣れないと、結構難解である。

作るのは、もっと難しい。

以前にも「I love you」の項で書いたように、なんでもかんでも詳細に説明をしてしまうと、
「説明句・文」となり、余韻・情緒・情感の薄い作品になってしまう。

かといって、省略の度が過ぎると、分かりにくくなる。

それゆえ作句は難しく、又句意を読み取ることも、難解である。

俳句の表現を写真で補い「作句の難しさを和らげ」、
写真で補足して「理解を助ける」ことを意図して生まれたのが、「写真俳句」のようである。

ご本人たちが楽しければ、それはそれでよいのではないか。

マスコミの力は大きいと思う、今後、一つの潮流に育って欲しいものである。

ビデオを始めて、「季語の散歩道」というシリーズ物を、こつこつと制作している。

動画に俳句を重ねて表現しているものである これも写真俳句と似た手法である。

がしかし、どうも、教育用の解説ビデオ風になってしまう。

もっと、ひねらねばと思うが、いまだ解決のめどはたっていない。

我々の趣味は、自己満足を目的としているが、他人様にそれなりにご評価いただくことも、大きな自己満足の要因である。 

多少ご面倒でも、作品にお付き合いいただき、思ったままのご評価・ご批判を頂きたいものである。


りんご

2006年09月25日 01時49分46秒 | Weblog

りんごといえば、
ニュートンが万有引力を発見した故事を思い出す。

自然の本来の法則を、理論付け公式化した人を、
発見者と呼び尊ばれる。

しかし、引力そのものは、
ニュートン以前と以降とで何の変化も無い、
ただあるようにあるだけなのである。

現在、機械設計の公式を教えている。

これらは経験則と呼ばれる方法で作られているが、やはり、自然の法則を数式化したものなのである。

公式を使用すると、誰でも早く容易に同じような結果を得ることができる。

大変便利であり、また一定以上の品質を確保できることになる。

自然の法則が根底にある場合には、それなりに公式化ができることが多い。
(まだまだ判らないことが沢山あるが)

あらゆる事は、まず自然という実際が存在し、
たまたま理論化・公式化などができたもののみ、人の目に触れることになる。

“原子”から“素粒子”に物質の最小単位を呼び変えても、そんな理論や公式にお構いなく、
自然は、粛々として存在しているのである。

現在、自然の法則以外に人間が独自に考え出した理論や法則があるように感じている。

判りやすい例を挙げるならば、“法律”である。

自然の法則と異なる点は、
無視すること・違反すること・変更すること、いずれも可能である点である。

ここに様々な問題が生じているのである。

人間の頭や心で創造した“芸術”は、
自然法則のように公式化ができるのであろうか、
こんなことを考えさせられる質問を頂いた。

「俳句を上手に創れる公式は?」と。

小生もぜひともその種の公式が欲しいのである。

音楽家・画家・小説家・随筆家・・・あらゆる人が欲しがることであろう。

そうなれば、いずれコンピュータが、
あらゆる芸術を、創造することも可能になるかもしれない。

正確無比、一点の非の打ち所ない完全無欠の“公式的な”“芸術”が完成する。

人間は、本来、曖昧模糊・不完全・欠陥・矛盾に富んだ生き物である。

それでこそ、
漠とした人としての味を楽しむことができるのである。

完全無欠などはどうでもよい、
心のままに曖昧模糊・不完全・欠陥・矛盾に富んだ思いを楽しみたいのである。

理論や公式よりも、
一つのりんごを食べる方が良いのである。


保証人

2006年09月24日 03時44分57秒 | Weblog

家族が、入院することになった、五日間の入院予定であった。

 「入院証書」の提出を求められた。

この入院証書という「誓約書」の目的は、
治療費未払い防止、医療機関に対する何らかの訴訟対策、
院内でのトラブル防止などのためと思われる。

裏返してみれば、極まれであろうが、

「治療費を払わない人」、
「医療機関に対して訴訟を起こす人」、
「院内でトラブルを起こす人」などが、

居るということである。

極一部の人の為に、厄介な文書の提出を求められている。

入院証書には、保証人(同一世帯でないことと、注意書きがある)の署名捺印も必要である。

近所に親戚・親兄弟はいない、さてさて、困ったことになった。
誰にこれをお願いするか、これが問題。

やむなく、ご近所を煩わせてしまった。

住宅ローンなどの場合には、
「保証協会」なるものがあって、
一定の料金を支払うと、保証人を代行してくれる制度がある。

核家族化・高齢化・独居老人化などによって、
ご近所との連携はもちろんであるが、

この種の制度が、これからは必要ではないかと感じた。


回想法

2006年09月23日 05時45分06秒 | Weblog

敬老の日の新聞記事からの、受け売りである。

 「回想法」とは、1960年代に米国で開発された「認知症対策」なのだそうである。

最近、日本でも緩やかに、このセラピーの普及が始まっている。

「昭和三十年代の町並みを、簡略化し疑似的に再現、この環境で、過去を語ったり・聞いたり・共感する」ことなどにより、

認知症の進行を緩やかにしようという、試みがあると報じていた。

小生が、ブログに過去のことを時々書いてきたが、これは単に自然に生じた思いつきに基づくものであった。

過去を語ることになる自分自身にとっては、それなりに回想法の効果があると思う。

また、この記事を読まれる読者にとっても、聞いたり・共感したりすると、認知症緩和効果が生じることになる。

なんとなく、昔のことを書くことに抵抗を感じていたが、これからは、胸を張って認知症対策だと信じて、

堂々と古きよき時代について書こうと思っている。


ふみ

2006年09月22日 07時07分37秒 | Weblog

手紙を書き始めると、すぐに辞書が必要になる、
漢字が出てこないのである。

そこで、ついついワープロやメールに頼ってしまい、
手書きの手紙は皆無となっている。

メールでは、
なんとなくお邪魔になるようで、気おくれする。

昨今は、こんな状態で、
とんと「文通」による外部との個人的な音信・交流が減少してしまった。

つれづれ草 十三段に、

「ひとり、灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、

見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」

という、一節がある。

最近でこそ、郵便は一日程度で、全国に届けられる便利な時代となったが、
古き時代にあっては、一通の手紙といえども、旅する知人・友人に託したり、
飛脚に頼んだりした大変貴重なものだったのであろう。

一通の「ふみ」をあだやおろそかに出来ない時代が長かった。

一方的ではあるが、かといって、それほどメールのように、
無理やり割り込むわけでもない、ブログで交信を試みている。

数百年後の「新つれづれ草」には、

「ひとり、“パソコン”のもと、“ブログ”をひろげて、

見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」

という一節が、

“いにしえ”の名文として、国語の教科書にでも載っているかもしれない。

ブログとは、こうした効能があるようである。


高齢期

2006年09月20日 05時23分26秒 | Weblog

六十、七十は、鼻たれ小僧と田中翁は、言っている。

先日、ブログのコメントでも、同じ事を言われ、激励された。

前期高齢期 = 65歳から74歳
後期高齢期 = 75歳以上

また、有名な日野原先生は、75歳以上を新老人と呼び、
「新老人運動」を提唱しておられる。

60歳で定年したとすると、
15年をかけて、現役時代のしがらみと決別、
完全なフリーの立場を得るのだそうである。 

この15年を、「真の自由人になる準備期間」と言っておられる。

そして、75歳から新しいことを始めるのだそうである、
これを称して、新老人運動と呼ぶ。

等のことが、新聞に書いてあった。

2030年頃(小生90歳弱)には、
平均寿命が100歳前後になるような、予測もある。

現在、平均寿命75年で、人生設計をしている。

困ったことになった。

100歳まで生きるとすると・・・;

食事、三度三度摂るとして、38,325食。
睡眠、12、775回。
ブログ発行、310回/年として、10,850回。

心臓の鼓動、xxxxx計算ができない。

 
自動車やTV、15年使用として、あと、各3台。
バイク、10年乗るとして、あと、4台。
パソコン、5年毎に更新するとして、あと7台。


旅行、年4回とすると、140回分。

こうなると、家も新築しなくてはならない。

なにやかやと物入りである。

勝手に平均寿命を延ばすなんて、
とんでもないことである、
計画変更をどうしよう。

さてさて、キリギリスにとって、頭の痛いことになった。

しかし、大したことではない、
「明日は明日の風が吹く、ケ・セラ・セラである」。

こんな調子では、またまた寿命が延びてしまうのであろう。


男の夢

2006年09月19日 00時49分50秒 | Weblog

 “ころ”さんからコメントを頂いた。
 本当に嬉しいことである。

スリーサイズに関して、リフォームをしたとの、“自白”であった。

なんと、けな気な可愛らしい行為であろうか!

もっともっと、リフォームに励んでいただきたい。

綺麗に髪や眉を成形し、美しくメイクし、そこはかとない良い香りをふりまき、
はたまた、超一流のファッションを身に付け、金銀あや錦の宝石装飾品で飾る。

これもリフォームの代表的な姿といえよう。

結果、男性諸氏はくらくらと魅了される、こんなリフォーム大賛成である。

たとえ、不倫疑惑で家庭崩壊が生じようとも、ぜひぜひ実行していただきたいのである。

自分についても、書かねばならない。

「男は、夢を食う獏(バク)のよう、未知の狩人」という人がいた。

その通りである、幾つになっても、いつまでも、好奇心旺盛である。

しかし、夢は覚めたら、それまでである。

あれもしたい、これもしたい、次々と手を出すが、どれもこれもすべて中途半端である。

これからも夢を追い続けて、
覚めたら、「はい それまーでよ!」を続けることであろう。


連句・連歌

2006年09月18日 03時05分33秒 | Weblog

五・七・五を「発句」とし、七・七を延々と続けて、楽しむ句のことを、連句・連歌(れんが)というのだそうである。

ご興味があれば、インターネットで、詳細を、お調べいただきたい。

あるお方が、インターネット上で、連歌をなさっている。

その傑作なものに、下記の一句がある。

上の句:  メル友に 写真送った その日から

下の句:  ぴたりと止まる メールの返事

なんとなんと、言いえて妙というか、うまいものである。

見えないからこそ、“クレオパトラ”や“楊貴妃”になれるのである。

ましてや、写真などという無味乾燥な最新技術で、正確無比に“あり姿”を送るなど、もってのほかである。

何でもかんでも分かってしまうと、誠に味気ないものである。

綺麗に装い、化粧をして、本来の姿を悟られないことこそ、夢を膨らます原動力になる。

男・女いずれにあっても、この基本的な、マナーを忘れてはならないのである。

“チラリズム”こそ、夢を継続する原動力である。


2006年09月17日 06時31分16秒 | Weblog

「女は、過去のリフォームが、得意・・・」と、
ある本に書いてあった。

何ヶ月も、この意味を考えているが、どうにも分からない。

 「過去をリフォーム」することを、
例えば、次のこととしてみると;

1) 振られた過去を、振ったことにする

2) 玉の輿に乗れなかった過去を、玉の輿に乗ったことにする

3) 美人でなかった過去を、美人だったことにする

4) スリーサイズが理想的でなかった過去を、理想だったことにする

5) お嬢さん育ちでなかった過去を、お嬢さん育ちだったことにする

きりがない、
疲れたので、以下省略。

この種のことを、“リフォーム”と言うのだろうか?

こんな解釈で、いいのだろうか?

こんなことなら、男デモしている。

特に、“女性が得意”というのは、
何故だろう?

あの本は、なんと言う本だったのか、
そこから思い出して、
再度読んでみなくては・・・。


幽黙

2006年09月16日 03時23分08秒 | Weblog

睡眠薬は、酒と本という人が多いように感じている。
かくゆう、小生も例外ではない。

睡眠薬の一方が切れたので、図書館に出向いた。

本の選択は、単純明快である。

著者毎に整理された本棚の前に立ち、お気に入りの著者の本を、棚の端から順番に借りてくるのみである。  

モノグサなので、「片っ端読書」を励行している。

(とはいっても、気に入りそうでないものは、パスして借りるのである)

今回は、手が滑ったのであろう、思いもかけない一冊が、混入していた。

仕方が無いので、睡眠薬にはなるだろうと、読んだ。
100年ちょっと前に生まれた中国作家の著書である。

 「幽黙」に関する作品集である。

(解説:“幽黙”を中国読みにすると、“ユーモア”となる)

ユーモア = 機智に富む笑い 
= 滑稽 + 風刺 + 気晴らし + ・・・ であると、

序文に書いてあった。 

これに異論は無い。

出まかせ半分・本音半分ながら、
それでいて、滑稽・風刺・気晴らし・・・、最後に笑い。

これこそユーモアなのだろうと、改めて、認識した。

わがブログも、かくありたいものである。

(おまけ)
この本から、一文を引用する。

「・・・悲観的であることは、よいことが一つある。
それは物事を、全て軽く見ることができる。
やる気が出なくて、積極的になれない。・・・」
以下省略

自分のことを含めて、周りのこと、全世界のあらゆる事を、
悲観的に見ることができるようになると、

“あらゆる事が、何でもない、どうでもよいこと”に見えてくる。

 このように全てを達観できれば、人生気楽なものである。

ユーモアというベールで反骨精神を隠し、

権力・権威・おごり・流行・・・などを茶化し・揶揄し・笑い飛ばして風刺する達人のように思えた。

なるほど、こうゆう生き方もあるのかと、感心したが、
無欲聖人・悲観君子でないので、できそうにもない。


渋滞

2006年09月15日 00時55分06秒 | Weblog

木曜日は、早朝6時半に出発する。
岡山市内の出勤渋滞を避けるためである。

8時少し前に、53号線から左の脇道に入り、
運転免許センターに着く。

ここは、ねむの木の大木が沢山ある。
春は、花が綺麗である。

煙草休憩・トイレ休憩・周囲遠望・読書などで、
十数分時間をつぶす。

目的は、この先の通勤渋滞をかわすためである。

8時過ぎ、羽田便上空通過を見上げて、
おもむろに53号線に引き返す。

30km先の道の駅まで、ノンストップ、ここで、煙草休憩、十数分時間をつぶす。

目的は、津山市内の出勤渋滞をかわすことにある。

必要があれば、農協の売店で、
帰路購入する花・野菜などを物色しておく。

9時半目的地に到着。90km、
ちょうど3時間のドライブである。

家内のお墓は、
自宅と目的地のほぼ中間地点にある。

帰路、暑いときは毎週、涼しくなって花の持ちが良くなると、
2~3週間に一度くらい、
途中から旭川沿いに迂回して、墓参りをする。

また、墓参りをしないときは、
県北の観光地・温泉・美術館などに寄り道して、
楽しんでいる。

これから良い時候になる、
寄り道の楽しみが待っている。

(おまけ)
秋の長雨も一休み、今日一日珍しく晴天だった。

朝の霧は、ややひどかったが、早く晴れ、
久しぶりに朝日を拝んだ。

あまり珍しい番号の車には会わなかった。
幾つか、記憶に残ったものを、羅列してみよう。

3396:散々クロー
0103:お父さん
8789:華やぐ
1059:天国

あまり、この語呂合わせに熱中すると、
自分が天国に行きかねない。

ほどほどにしなくては・・・。

先日、小生の車と4桁同じ番号の車に出くわした。

これには、なぜかドキッとさせられた。
どうしてだろう?

(愛車の番号は、偶然ながら、
常々行きたいと思っている“地上の楽園”に
ピタリ語呂合わせの出来るもの
 
= さて
読者には,お分かりであろうか)


せみしぐれ

2006年09月13日 02時16分10秒 | Weblog

先日のブログ 「幸齢者」 に対する、
コメントを頂いた。

とても貴重なご意見と感じたので、
以下に、引用させていただく。

「私から年齢を
奪わないでください。
これは、
私が年月をかけて作った 
財産なのですから」

ピオーネさんのホームページで
見た言葉なのですが、

とても素敵な言葉で

時々自分に言い聞かせています・・・
決して、年齢を重ねることは
悪いことではないはずです。


誠に、その通りである。

しかるべき人生経験を経ずしては、
理解できないことが沢山ある。

例えば、藤沢周平氏の作品が、その一つの例である。

同氏の作品は、小生の波長に合うものが多い。

中でも、ここ数年繰り返し、様々な媒体を通し、
読み・見・聞きした作品に「せみしぐれ」がある。 

噛めば噛むほど、味がある作品である。

この作品を、数種類の媒体で鑑賞するという、
珍しい経験をした。 

(番号は、小生が、感銘を受けた順とした) 

1.ラジオの有名アナウンサーによる朗読 (八十数回に分けて放送)     

2.原作小説そのもの     

3.某国営放送のTV連続ドラマ (数回に分けて放映・延べ十数時間)     

4.映画 (2時間程度に短縮されたもの)

幼き日、やまかがしに噛まれ、
指を吸ってもらった“おふくさん”のときから、
藩主の側室となり、
いよいよ尼寺に入る日まで、
のことが綴られている。

人の半生に渡る恋の物語である。

ここに描かれた人の心機微は、
若い人には、理解しにくいものがあろう。

ひと歳とってこそ、深い本当のところが分かるのである。

これぞ、“幸齢者”の醍醐味である。