我が中学校は、私が2年の時に二学校が統合されて真新しい校舎になった。
3年の梅雨時。休み時間に同級生が教師にばれないようにして、持ってきたレコードをその音楽室のステレオ装置に掛けた。
曲は「アラビアのロレンス」(モーリス・ジャール作曲)。
当時の超話題作の序曲である。その雄大な砂漠を沸々とイメージさせるこの曲に、私はすっかり痺れてしまった。
3年を卒業した春休み。
この『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督、1962年)が三番館に回ってきたので、名古屋まで観に出かけた。
70ミリ画面ではなかったけれど、それでも目一杯の大画面である。
煙草の煙がモウモウとする中、通路では一匹のネズミが右から左、左から右へと行ったり来たりしていた。
こんな環境でも、この映画は見応え十分であった。
内容は、オスマントルコに対するアラブの反乱を支援したT・E・ロレンス(1888年 - 1935年)の物語である。
冒頭、疾走するオートバイ。
オートバイは自転車を避けようとして道路から外れて転倒。
跨っていた男は死亡する。ロレンスである。
葬儀の参列者の、彼に対する評価はマチマチであった。
ロレンスとはどんな男であったか。
1916年、第一次世界大戦中のカイロ。
イギリス陸軍司令部のロレンスは、ハーシム家の王子ファイサルに接触するよう上司から指示を受けた。
理由は、オスマントルコに対するアラブ民族の情勢を知るためである。
王子を訪ねる旅に出たロレンスと案内人は、駱駝で砂漠の中を突き進む。
そして二人は、一つの井戸にたどり着き休憩する。
そこへ地平線の彼方から、水を飲む二人に向かって男が近づいて来る。
ハリス族の族長アリであった。
アリは、他部族の者が自分の水を飲んだからと言う理由で、案内人を射殺してしまう。
「アラブ民族同士なのに」と非難するロレンスは、案内を買って出たアリを断り、一人砂漠の中を行く・・・・
広大な砂漠。幾何学的模様の砂丘。風と共に舞い上がり流れる細粒砂。
砂だけの自然の美しさと、その自然の峻烈さ。
陽炎の漂う砂の大地の向う中央に、わずかに黒点が見える。
その黒点の人物アリがこちら側まで来る姿を、ずぅーと映し出しているカメラ。
岩だけの渓谷の上から俯瞰して、小さな虫が行くように進む駱駝のロレンス一行。
砂漠の中、脱落した男を救助に向かうロレンス。それを、彼を慕う青年が灼熱の太陽の下でじっと待つ姿。
それらを見事な映像として映し出す。
またこの映画は、映像としてばかりでなく内容的にも傑出している。
二人の男を殺してしまったと苦悩するロレンスが、後半、手を挙げている敵の相手を憎しみを込めて射殺する。
なぜこのようなことを、心境の変化として人はできるのか。
武器のなせる技か。
武器輸出三原則を見直した現政権は、人を殺す武器に対し真摯に考えるべきではないか。
巨大組織としての国は、利用できることは利用し、用済みとなれば捨てる。
ロレンスは、結果として一個の駒であった。
このようにして、映画は冒頭シーンの意味を探る。
『アラビアのロレンス』は名作の定義を、格好の材料として与えてくれている。
私はこれ以降、デヴィッド・リーンの新作が封切られると待ち構えるようにして観た。
勿論、ロレンス以前の『戦場にかける橋』(1957年)等の作品も観れる限り観た。
そして、どれも印象に残る名作ばかりであった。
3年の梅雨時。休み時間に同級生が教師にばれないようにして、持ってきたレコードをその音楽室のステレオ装置に掛けた。
曲は「アラビアのロレンス」(モーリス・ジャール作曲)。
当時の超話題作の序曲である。その雄大な砂漠を沸々とイメージさせるこの曲に、私はすっかり痺れてしまった。
3年を卒業した春休み。
この『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督、1962年)が三番館に回ってきたので、名古屋まで観に出かけた。
70ミリ画面ではなかったけれど、それでも目一杯の大画面である。
煙草の煙がモウモウとする中、通路では一匹のネズミが右から左、左から右へと行ったり来たりしていた。
こんな環境でも、この映画は見応え十分であった。
内容は、オスマントルコに対するアラブの反乱を支援したT・E・ロレンス(1888年 - 1935年)の物語である。
冒頭、疾走するオートバイ。
オートバイは自転車を避けようとして道路から外れて転倒。
跨っていた男は死亡する。ロレンスである。
葬儀の参列者の、彼に対する評価はマチマチであった。
ロレンスとはどんな男であったか。
1916年、第一次世界大戦中のカイロ。
イギリス陸軍司令部のロレンスは、ハーシム家の王子ファイサルに接触するよう上司から指示を受けた。
理由は、オスマントルコに対するアラブ民族の情勢を知るためである。
王子を訪ねる旅に出たロレンスと案内人は、駱駝で砂漠の中を突き進む。
そして二人は、一つの井戸にたどり着き休憩する。
そこへ地平線の彼方から、水を飲む二人に向かって男が近づいて来る。
ハリス族の族長アリであった。
アリは、他部族の者が自分の水を飲んだからと言う理由で、案内人を射殺してしまう。
「アラブ民族同士なのに」と非難するロレンスは、案内を買って出たアリを断り、一人砂漠の中を行く・・・・
広大な砂漠。幾何学的模様の砂丘。風と共に舞い上がり流れる細粒砂。
砂だけの自然の美しさと、その自然の峻烈さ。
陽炎の漂う砂の大地の向う中央に、わずかに黒点が見える。
その黒点の人物アリがこちら側まで来る姿を、ずぅーと映し出しているカメラ。
岩だけの渓谷の上から俯瞰して、小さな虫が行くように進む駱駝のロレンス一行。
砂漠の中、脱落した男を救助に向かうロレンス。それを、彼を慕う青年が灼熱の太陽の下でじっと待つ姿。
それらを見事な映像として映し出す。
またこの映画は、映像としてばかりでなく内容的にも傑出している。
二人の男を殺してしまったと苦悩するロレンスが、後半、手を挙げている敵の相手を憎しみを込めて射殺する。
なぜこのようなことを、心境の変化として人はできるのか。
武器のなせる技か。
武器輸出三原則を見直した現政権は、人を殺す武器に対し真摯に考えるべきではないか。
巨大組織としての国は、利用できることは利用し、用済みとなれば捨てる。
ロレンスは、結果として一個の駒であった。
このようにして、映画は冒頭シーンの意味を探る。
『アラビアのロレンス』は名作の定義を、格好の材料として与えてくれている。
私はこれ以降、デヴィッド・リーンの新作が封切られると待ち構えるようにして観た。
勿論、ロレンス以前の『戦場にかける橋』(1957年)等の作品も観れる限り観た。
そして、どれも印象に残る名作ばかりであった。
当人が人間として恥ずべき事をやったと恥じているのに、良くこんな映画が撮れるものです.
イギリスはインド人にも独立させてやると言って、100万人のインド兵をヨーロッパ戦線に派兵させて起きながら、約束を破りました.
この“ロレンス”についての私の感想は記事に書いたとおりですが、
rumichanさんの意見ですと、この作品を否定的に考えてみえるように読めます。
国が行う行為は、英国を例に取るまでもなく大抵の国が、人々に対して弾圧、残虐行為を行っているのではないかと考えています。
ですから、一般庶民としての私は、英雄譚などの上から目線の映画には興味がなく、
極端にいいますと嫌悪感をもよおすほどです。
これが、私の映画鑑賞の基準に近いものとなっています。