ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『マダムと泥棒』を観て

2018年02月23日 | 1950年代映画(外国)

イギリス映画、『マダムと泥棒』(アレクサンダー・マッケンドリック監督、1955年)を観た。

舞台は、ロンドンのキングス・クロス駅付近。
三羽のオウムと暮らす老未亡人のウィルバーフォース夫人は、二階の部屋を貸そうと広告を出している。
そこへ現れたマーカス教授と名乗る男。
部屋を、友人たちと弦楽五重奏団の練習場にしたいと言って借りる。

翌日、早速やって来たほかの4人。
練習は名ばかりで、レコードを掛けながら現金輸送車を襲う計画を練る。
二階から聞こえてくる演奏にうっとりする夫人は、5人にお茶を持っていったりして、何かと親切にして・・・

これを観たのが、二十歳前でテレビでの鑑賞。
当時テレビは白黒だったので、今回観直して、この作品がカラーだったのにはビックリした。
イメージとしては、すごく面白かったと、当時のモノクロの画面で頭に焼き付いてしまっている。

まず、この映画の最大の面白さは、老未亡人のウィルバーフォース夫人。
真面目で人のいい善良な夫人に、悪人たちもトホホと大弱り。
それでも犯罪は決行され、そこに、何も知らない夫人が加担させられる。
大金が入ったトランクを家まで持ち帰る夫人の、途中での行動に、悪人たちのヒヤヒヤドキドキが面白い。

個々の場面場面の、微妙な感覚の面白さが笑える。
そしてまだ、話は続く。
犯行が成功した後での、ことの成り行き。
のろまなワンラウンドがつまらぬドジをしなければ、夫人に怪しまれずに、事は大成功だったはず。
だがドジッたその後の、彼ら一人ずつの、かわいそうな悲劇。

俳優は、マーカス教授が『戦場にかける橋』(デヴィッド・リーン監督、1957年)の、あのアレック・ギネス。
そればかりかピーター・セラーズが、新人として、5人の悪人の1人として出演している。
この作品の面白さは、正直に言って、観てみなければわからないのでないか。
と思うほどの、私にとっては、上質な内容の最高のコメディ。

大好きな、コーエン兄弟が『レディ・キラーズ』(2004年)のタイトルでリメイクしても、私が未だに観ていないのは、
大げさに言えば、この『マダムと泥棒』のイメージを大事にしたいと、どうしても観るのをためらう気持ちがあるからである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ギャバンの帽子、アルヌールのコート』を読んで

2018年02月21日 | 本(小説ほか)

『ギャバンの帽子、アルヌールのコート』(川本三郎著、春秋社、2013年)を読んだ。

題名が『ヘッドライト』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1955年)を連想して洒落ているし、
副題も「懐かしのヨーロッパ映画」だから、何はともあれ、これは読まずにいられないと手に取った。

内容的には、著者自身の十代のころの映画体験を基にした、1950年代から60年代のヨーロッパ映画の作品が中心となっている。
その数は32作品。その中で、フランス映画が17本。
監督としてはジュリアン・デュヴィヴィエ、アンドレ・カイヤットの作品が4本ずつある。

国別で、次に多いのがイギリスで、ただその数はグッと少なくなって6本。
それも『第三の男』の監督、キャロル・リード作品が3本も占めている。

じゃ、お前はどれだけ観ているかと問われると、やはりちょっと心細い。
その数、わずか13本である。
そして、『バラ色の人生』(ジャン・フォレ監督、1948年)、『謎の要人・悠々逃亡!』(ケン・アナキン監督、1960年)に至っては、初めて聞く題名であったりする。

でも、この本を読んでみて嬉しいのは、フランソワーズ・アルヌールに関する作品が3本も紹介されているところ。
アルヌールに対する想いがなければ、『禁断の木の実』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1952年)、『ヘッドライト』、『女猫』(アンリ・ドコアン監督、1958年)と、
3本も紹介されるはずはない。
やはり、アルヌールに対する想いは、私一人ではないと心強くなる。

いずれにしてもこれらの作品に対する、著者川本三郎氏の熱い想いが文章の行間に表れていて、見逃している作品をどうにかして観たいと、流行る気持ちを抑えられなくなる。
映画好きと言うことも絡んでか、これは、読むことを夢中にさせる本であった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン・ルノワール・5〜『ゲームの規則』

2018年02月20日 | 戦前・戦中映画(外国)

『ゲームの規則』(ジャン・ルノワール監督、1939年)を観る。

大西洋単独横断飛行を23時間でし、パリ郊外の空港に降りたったアンドレ・ジュリューは、熱狂する群衆や親友のオクターブに迎えられる。
アンドレにとってこの飛行は、侯爵ロベール・ラ・シュネイの妻クリスティーヌのためだったのに、彼女が出迎えに来ていないので落胆する。
片や、クリスティーヌはパリの邸で、小間使いのリゼットに着替えを手伝わせながら、ラジオの実況放送を聞いていた。

アンドレとクリスティーヌの仲は、夫のロベールも含め社交界で周知の事実だった。
またロベールの方も、知り合いの貴族夫人ジュヌビエーブと秘かな関係が続いていた。
クリスティーヌの幼なじみのオクターブは、ロベールの領地コリニエールで催される集いに、アンドレも招待客のひとりとする約束を取りつける・・・

ここに描かれているのは、ざっくばらんに言うと、何やかやと言っても、登場人物たちのとどのつまりは恋愛駆け引き。
アンドレはクリスティーヌに夢中。
でもクリスティーヌは、アンドレ程のぼせているとは思えないし、夫ロベールとのバランスも保っている。
そのロベールはクリスティーヌのために、ジュヌビエーブとの間を清算しようとするが、それはジュヌビエーブが許さない。

恋愛のルール。
それは、相手の家庭を壊さないこと。
単純に言えば、退屈しのぎの不倫遊びといったところか。

と言うのは、小間使いのリゼットだって、あまり夫シュマシェールを好いていなくって、クリスティーヌの世話を口実に夫から離れていようとする。
そこへ、使用人に雇われたマルソーが現れてリゼットと意気投合するから、話がややこしくなる。

その後での、名士たちが大勢集るパーティでの、シュマシェールとマルソーの追っかけのドタバタ。
一方、ロベールとアンドレの、クリスティーヌに絡んだ争い。

でもこの映画が楽しいのは、ロベールとアンドレも相手のことを納得するし、
騒動を起こしクビになったシュマシェールとマルソーも、これからどうするかと相手の気を遣う。
そればかりか、クリスティーヌとジュヌビエーブだって、まさしく友達同士。
そんな雰囲気がとても心地よい。

このように、敵対する者たちの様子が和やかなのに、それでもラストに悲劇が起きる。
と言っても悲劇なのに、悲惨な雰囲気ではない不思議なイメージが与えられる。

この作品は、幻の名画として日本では1982年にやっと公開された。
当時、観に行こうかと随分迷いながらも、古い作品は面白くないだろうとスルーしてしまったまま時が過ぎ、やっと観たことになる。

ウサギ、キジの狩りのシーンといい、
重要な位置を占めるオクターブが、ジャン・ルノワール自身によって演じられていることが非常に興味深く、また感銘を覚える作品であった。

オクターブ役のジャン・ルノワール

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン・ルノワール・4〜『大いなる幻影』

2018年02月04日 | 戦前・戦中映画(外国)

『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール監督、1937年)をまた観る。

時は、第一次世界大戦のさなか。
フランスのマレシャル中尉とボアルデュー大尉が乗る敵情偵察の飛行機は、ドイツ軍に撃ち落とされてしまう。
ドイツ貴族である隊長のラウフェンシュタイン大尉は、敬意を表して捕虜になった将校の二人を丁重に扱い、食事に招く。

捕虜のマレシャルとボアルデューの収容所先には、裕福なユダヤ人で、いろいろな慰問物資が送られてくるロザンタール中尉のような人物もいる。
そして、捕虜仲間たちの部屋では、トンネルを掘って脱走する計画が着々と進められていた。
しかし皮肉なことに、トンネルが成功する間際になって、彼らはスイス国境に近い古城の収容所に移転されてしまう。

その収容所でマレシャルたちを迎えた所長は、偶然にも、負傷痕跡の残るラウフェンシュタイン大尉だった・・・

ジャン・ルノワールの代表作と言えば、当然この作品だとなる周知の映画。

ドイツ軍のラウフェンシュタイン大尉の、フランス軍のボアルデュー大尉への貴族同士としての対応。
第一次世界大戦の時代が、まだ、悲惨などん底に陥っていなかった状況なのか、それともルノワールの思い描く世界感なのかはよくわからないが、
敵対する相手に一目置く紳士的な態度が目にひく。
だから、マレシャルとロザンタールを脱獄させるために、ボアルデューが囮になり犠牲となる場面の、相手方ラウフェンシュタインに銃を引かせる瞬間が痛々しい。

この映画で疑問に思うのは、前半のトンネル堀りの意義はこの作品自体にどのような意味があるのかと、ふと思うこと。
しかし後半の、マレシャルとロザンタールが、ドイツ軍から逃げおおせるために疲労困憊しながらスイスに向かう場面になると、俄然目が離せなくなる。

人里離れた、わびしげな山の一軒家。
そこの、子持ちで戦争未亡人のエルザに見つかるマレシャルとロザンタールのふたり。
つかの間の、この生活の侘しさにいたたまれないエルザと恋に落ちるマレシャル。
しかし、ふたりは敵対する国籍の人間である。
そのことを十分に分りあっている二人。

この作品の戦争状況は、今からすればまだ紳士的であったとしても、人間はなぜ戦争をするのかということ。
その無意味な愚かな行為から、何を学ぼうとしているかということ。

ジャン・ルノワールは、悲惨な戦闘行為を描かずに静かに反戦を訴える。

そして我々は、マレシャルとエルザが、近い将来に再び会えて、生の喜びを分かち合える日を祈りたい。
そのように思う、感動の作品である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れ得ぬ作品・8〜『忘れられた人々』

2018年02月01日 | 1950年代映画(外国)

『忘れられた人々』(ルイス・ブニュエル監督、1950年)について書いておきたい。

大都会メキシコの中で、取り残された貧しい人々の中の子供たち。

子供たちの溜まり場に、感化院を脱走したハイボが帰ってくる。
元々ここのリーダーであったハイボは、早速少年たちと、盲目の大道芸人カルメロの金入れを盗もうと策略するが、失敗する。
その腹いせに、お礼参りとしてカルメロを待伏せし惨々な目にあわせる。

ハイボは、自分が感化院の送られたのは、仲間のフリアンの密告のせいだと思っている。
そのフリアンを懲らしめるため、ハイボは少年ペドロと共に、フリアンの仕事場に向かう。
フリアンは否定するが、思い余ったハイボは、石と棒でフリアンを殴り倒してしまう。
後で、フリアンが死んでしまったことを知らされたハイボは、このことをペドロに口外しないよう約束させる・・・

この辺りから物語は、徐々にペドロを中心として動いていく。

幼い弟妹がいるペドロは、母親から、不良とつき合っているばかりだと邪慳にされる。
それでもペドロは、母親から愛されたいと希う。
そして、フリアンの死が絡んだ夢を見る。
悪夢を見るペドロの心情を表したイメージがシュールで、この場面が私には忘れられない。

思い出してみると、メキシコ時代のブニュエルの作品群は、今はなくなった劇場が、特集を組んでくれたりしてある程度は観ている。
だがこの作品は、それ以前に、どこかの映研サークルが催してくれた時に観ている。
ビデオもない時代だから、この頃自主上映は、どうしても観たい作品を観る方法としてとても貴重だった。
だからブニュエル作品は、それ以前の『アンダルシアの犬』(1929年)、『黄金時代』(1930年)、『糧なき土地』(1933年)もそのような形で鑑賞した。

でも、この『忘れられた人々』を観た時は、やはり強烈過ぎるほどの印象だった。

弱者が弱者をいたぶり、金を巻き上げる。
それを、盲人だけでなく下半身のない台車に乗っている人にも、子供たちは容赦なく、する。
この少年たちも、金がなければ生活に困り生きていけないのである。
それをブニュエルは、冷徹に映し出す。
この映画を観る者が安易な道徳観を振りかざしても意味を持たないだろうと、観ていてそのことに衝撃を受ける。

もともと善良なペドロが、入れられた更生施設で、所長から“希望と信頼”を得、未来に向かって一歩を踏み出す、その救いの場面。
皮肉なことに、そこに偶然に現れるハイボ。

その結果としての、ペドロとハイボの死。

殺風景なゴミ捨て場に、無機物な存在として捨てられるペドロ。
生まれてきて、ここまで生きてきたペドロの存在とは、一体なんだったのか。
彼が殺されても、時は、単に余計者がいなくなっただけの話として過ぎていく。
そのことをブニュエルは、この社会を批判も肯定もせずに、在るがままに映し出す。

この作品を観てしまったことによって、いつまでも忘れられない鮮明な映像として、ふっと今でも思い出すことがたまにある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする