〓〓評論家の吉本隆明さん死去 戦後思想に大きな影響
戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者たち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。葬儀は近親者のみで行う。喪主は未定。漫画家ハルノ宵子さんは長女、作家よしもとばななさんは次女。
大学に足場を置くことはほとんどなく、在野の立場から国家や言語について根源的に考察する思想家として知られた。
東京生まれ。戦時中に米沢高等工業学校(山形県)から東京工業大へ進み、在学中に敗戦を迎えた。卒業後、働きながら詩作を進め、詩集「転位のための十篇」などを発表。1954年に荒地詩人賞を受けた。労働運動で会社を追われた経験もある。
戦時中に軍国主義に染まっていた自身の経験をバネに、50年代半ば以降は評論でも頭角を現す。戦争協力した文化人の責任を追及した「文学者の戦争責任」(共著)、共産党幹部が獄中で思想的転向を拒み続けた姿勢を“転向の一型態(けいたい)”と断じた「転向論」で反響を呼ぶ。
60年安保闘争では、抗議する若者たちを支持。既成の革新勢力を批判する「擬制の終焉(しゅうえん)」を発表し、丸山真男ら進歩派知識人への批判者として脚光を浴びた。
続けて60年代には「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」で、国家や家族、言語などを原理的に考察した。欧米からの輸入品ではない思想を自立的に展開。切れ味鋭い言葉で権威に切り込み、68年の全共闘運動に携わった若者を始め、言論や表現にかかわる人々に強い影響を残した。
大衆消費社会への批判が高まった80年代には、消費資本主義の持つプラスの可能性を提唱。漫画などのサブカルチャーや広告などにも分析の目を向けた。市井の生活者としての「大衆」の意味を問い直し続けることで、敗戦から経済成長、成熟へと移り変わった日本社会での、ユニークな問題提起者であり続けた。
近年は、糸井重里氏との対談を含めた新著の発刊や時事的なテーマについての発言は続けていた。今年1月に肺炎で倒れ、入院していた。〓〓(asahi.com)
巨星落つ、であろうか。澎彭たるスチューデントパワーの渦中にあった団塊の世代にとって、氏は巨星であった。中身に理解が届かなくとも、その名を口にし、その著作を手挟むことがなによりのステータスだった。
幾十かの星霜を経て、微かに一点瞬いていた灯台の明かりがついに闇に呑まれ、陸(オカ)が等し並みの黒一色に塗り込められてしまった。……突飛な言い方だが、これで青春が消えた。
氏は野武士であり、そして古武士でもあった。軸足は常に衆庶にあったし、思想的堅牢さにおいても隔絶していた。権威に真っ向斬り込み、問題を根底から問うた。
私たちは「リュウメイ」と呼び、「たかあき」とは言わなかった。常に「よしもと リュウメイ」であった。音読みの硬質に自分たちの若気を預け、一種のジャーゴンが醸す連帯感を共有しようとしていたのかもしれない。おそらく氏の本意ではなかろうが、それほどに氏はわれらが青春の荒野(アレノ)に屹立していた。向かうにせよ、離れるにせよ、または迂回するにせよ、等閑できない闡明なグランドマークであった。
昨年の夏、氏の「老いの幸福論」(青春新書)を読んだ。なお健在な語り口に安堵し、同時に一抹の不安も過った。吉事の予感に比して、その逆はよく当たる。
今や世代は替わり、リュウメイは知らずとも、ばななは著名だ。リュウメイの子ではなく、ばななの父と称されるようになった。その愛嬢が「最高のお父さんでした」と呟いたそうだ。百万言の悔やみも、この隻語には適わない。羨むほどの幸せな旅立ちといえよう。翻ってわが胸に手を当て、しばし自戒する。
もういちど言おう。氏との惜別とともに、わが青春は消えた。
この期に、氏の哲理や箴言を引いても詮ない。いまはただ、じっと送るだけだ。 □