伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

スポーツおバカ その3

2018年01月13日 | エッセー

 ドーピング・トラップなるものが起こった。日本では初めてだという。ドーピングについては16年1月に「スポーツおバカ」と題し、
「心身二元論が勝利至上主義に背中を押された時、薬物ドーピングも技術ドーピングも鎌首をもたげる」
 と述べた。キー・センテンスはタモリの名言、煙草の警告表示を捩った「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」であった。
 同年4月には「スポーツおバカ その2」として愚考を呵した。
 〈今年のスポーツ界。2月は清原のおクスリ、3月は巨人の野球賭博、4月はバドミントンの闇カジノと事件が相次いだ。例によってスポーツおバカなアナリストたちが囂しく講釈を垂れているが、どれもこれも本質を外した脳天気な与太話ばかりだ。
 核心は、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではない、という一事に尽きる。その一事を極めて解りやすい形で提示した教訓的事例である。巷間に流布せられた『スポーツ万歳』の鼻を明かした快事ともいえる。〉
 件(クダン)の箴言は「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」とマイナーチェンジした。
 そして今回である。
 嫉妬心には「ジェラシー型」と「エンビー型」があるとされる。「アイツには負けたくない」と競争心を燃やし、追いつき追い越そうするのは前者。アイツを引きずり下ろしてオレの優位を守ろうとするのが後者。明と暗、前向きと後ろ向き、成熟と未熟といえよう。S君の場合はもちろん後者のエンビー型嫉妬である。内田 樹氏は、
「競争的環境では相対的な優劣を競います。つまり、自分が優れているということと、他者が劣っていることは、結果的には同じ意味になります。であれば、自分以外の人間ができるだけ無能で愚鈍であることを願うことは避けがたい」(岩波書店「『意地悪』化する日本」)
 と語る。「競争的環境」が先鋭化したものが勝利至上主義であろう。だから、事ここに至ったのは不思議ではない。自然の成り行きといえなくもない。ドーピングを巡るルールでいけば、もはや自ら身を守るほかないらしい。油断禁物、もう練習場から水筒の管理をせねばならない。いやはや難儀で滑稽な話だ。他人(ヒト)を疑わねばスポーツは始まらない。まことに、「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」ではないか。
 フィジカルに限らず、メンタルにおいても能天気に「スポーツ万歳」とはいかない。巧拙優劣を競うものである以上、勝利至上主義が属性として付き纏う。そのことを夢寐にも忘れるわけにはいかない。そこを迂回すると、とたんに「スポーツおバカ」に成り下がる。
 大相撲にも過剰適応の挙句に勝利至上主義の毒に塗れた力士がいる。横審は彼が多用する張り差し、かち上げに注意を喚起した。それに関し先日テレビで、北野たけしが「ルールで禁じられていないのだから、文句つける方がおかしい」と反論していた。ちょっと待て、だ。意図的かどうか、たけしは「禁じ手」と混同している。禁じ手はもちろん御法度だ。ならば、禁じ手以外は許されるのか。そうではあるまい。「武士は食わねど高楊枝」である。あえて自ら横綱相撲という「高楊枝」を使ってみせるところに大相撲最高位の意地と誇りがある。横審はそういっているのではないか。張り差し、かち上げは下位挑戦者の奇襲戦法だ。かといって、ランク別に技の適否が決められているわけではない。そんなことは当たり前だ。ややっこしくていけない。子どもじゃあるまいに。だからそれは大人の判断だろ、という話ではないか。横綱は大人の中の大人だ。ウソかほんとか、ともあれそういう前提で綱を張っているはずだ。それが解らないなら綱の資格はない。たけしのロジックは稚拙というほかない。喧嘩論法で危なっかしい。
 ドーピング・トラップというエンビー型嫉妬に張り差し、かち上げの勝利至上主義。「スポーツおバカ」の跳梁跋扈に要注意だ。 □