伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

喧嘩両成敗

2017年12月13日 | エッセー

 中近世のわが国には世界史上まことに珍しい処罰があった。喧嘩は理非を問わず双方とも等しく処罰する。つまり、「喧嘩両成敗」である。
 中世後半、所領の境目を巡る紛争が頻発する。世は実力社会、訴訟に拠らず実力で決着をつけようとする故戦防戦(上位者に無断で私的な闘争を仕掛け、それを防ぐ戦い)が横行した。やられたらやり返す。「目には目を、歯には歯を」という同罪刑法は洋の東西を問わない。中世の人びととて同じだ。ただその先が違った。報復をしないのはルール違反、甘受や赦しは不正とされる同罪刑法と袂を分かち、なんと両成敗としたのだ。
 報復は過剰となり、果てしない連鎖を呼ぶ。理非を問い始めれば切りがなく、時日を費消するばかりだ。なにより急を要するのは秩序維持である。内輪騒動は外敵に隙をつくることになる。ここは上位者が強圧的に即決するに如くはない。それが両成敗であった。ただ肝心なのは、故戦応戦というように“戦”闘に及んだ場合の処分である。武力解決への咎めであった。だから堪忍、我慢して穏便に振る舞った者は免罪された。現代刑法とはかけ離れた法原則であるが、中近世を生きた先達の智慧ではなかったか。
 さて、日馬富士暴行事件である。早とちりしないでいただきたい。日馬富士と貴ノ岩を「両成敗」といっているのではない。そうではなく、両方とは日馬富士と貴乃花親方である。日馬富士は文字通り暴力をふるった。相撲協会という上位者に無断で私的な闘争を仕掛けた。「故戦」である。対するに貴乃花は相撲協会をネグレクトして警察に訴えた。公権力による暴力装置で「防戦」した、といえば牽強付会か荒唐無稽か。
 なぜ稿者はこんな郢書燕説に至ったのか。事態の推移を見てほしい。大相撲界は秩序維持の対極にある。揣摩憶測が乱れ飛び、カオス同然だ。メディアスクランブルも一因ではあるが、主因は貴乃花の狷介にある。「相撲道」を金看板に古風(イニシエブリ)に学ぶと公言する割には今回の対応はまるで同罪刑法ではないか。「報復をしないのはルール違反、甘受や赦しは不正」という同罪刑法の丸写しだ。奇しくも相撲の擡頭期と重なる「喧嘩両成敗」というわが国先人の智慧にどうして考え及ばないのだろう。浅識というほかない。
 もちろん相撲協会のヘゲモニーに問題なしとはいわない。それは前々稿『憐憫の情』で述べた通りだ。臭いものに蓋をせよというのでもない。隠蔽は傷を大きくするだけだ。丸く収めるのでもない。両成敗は痛み分けもいいところだ。ましてや鉄拳制裁などは西南戦争後の陸軍に始まって未だにスポーツ界に残る悪弊である。澱を除くのは当然だ。
 愚慮を巡らせると、喧嘩両成敗は抑止力としても、いやむしろそれにこそ史的意義をもったのかもしれない。協会としても学ぶべき智慧があるはずだ。
 ついでにもう一くさり。白鵬とアンバイ君とのアナロジーについてである。
 此度(コタビ)の騒動の発端は白鵬である。日馬富士が過剰に『忖度』した。森友、加計も忖度だった。
 一相撲取りの分を弁えないインタビューでの言い種や万歳、ルール無視の物言い。行政府の分に過ぎた立法府との一元化。立憲主義を無視した独裁的手法。
 両人に鮮明な一強の驕り、増上慢。横綱にあるまじき薄汚い取り口とヤジまで飛ばす宰相としての品格のなさ。
 星勘定第一主義と数の力至上主義。
 共に密かに狙うTOKYO2020での現役晴れ舞台。
 そして、衰えない人気と支持率の復調。見栄えの良さと巧みなやってる感の演出。下支えするポピュリズム……。
 酷似といってもよかろう。双方の大向うは喜劇的にナメられている。 □