伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

6 と 七

2017年03月13日 | エッセー

 3月12日の朝日新聞東日本版トップは「愛する人、悼む 東日本大震災6年」、西日本版は「6年 向き合い 前へ」という見出しであった。本文は全く同じなのに見出しが違うのはさておき、双方とも「6」という数字がある。実はさして注意も引かなかった。んー、6年か。凡愚の思案はその程度だ。読み進むうち後半に差しかかったところで、「七回忌の青空に」とのタイトルで1面全部を使った特集紙面が現れた。透き通る青空のもと海岸でたこ揚げをする親子、帰還困難区域にある散乱したままの家屋内部、川面を埋める灯籠流しなどの写真が並ぶ。
 目が漢数字「七」に釘付けになった。そこでやっと気がついた。「6年」、つまり「6周年」とは「七回忌」なのだ。死者の冥福を祈る大きな節となる年忌である。つまり「6」とは生者の時間軸であり、「七」とは死者のそれだ。主語を考えれば、すぐ解る。トップの見出しで思案がそれに至らなかった。まことに凡愚の骨頂である。恥じ入るばかりだ。
 生者の「6年」は苛酷を極めた。いや、過去形では語れない。今も、そしてこれからも続く。それは恥ずかしげもなく「フクシマはアンダーコントロール」と詭弁を弄し、愚にもつかない空疎な数字を羅列して成果を気取るノンシャラン総理には想像の外にあるにちがいない。でなければ、安全靴も持たずに豪雨被害の視察に出張る無能な政務官を任命するはずはない。ゴム長ではいけない。踏み抜きの危険があるからだ。その初歩的知識に欠ける無知と、学ぼうとしない怠慢が資質に欠けている。つまらない失言以前にまず無能なのだ。失言は解釈に幅があるが、無知はリニアに無知だ。無能を選考する有能などありはしない。双方、同等に無能でしかない。数多の配下を十全に掌握するのは無理だとの反論もあろう。だが、戦国の武将は数千人規模に及ぶ臣下の能力査定を頭に入れていたという。命がけの戦いには手持ちの人的リソースを適時適切に総動員せねばならないからだ。なにせ命と領地、末代の存亡が懸かっている。“3.11”も同じではないか。
 死者の「七」について。
 テレビニュースが墓前で手を合わせる少年を報じていた。「おばあちゃん、元気ですか」と彼は呟いた。荊妻が苦笑した。確かに変だ。未だ祖母の死を受け入れられないのであろうか。あるいは、儀礼的言辞に不慣れなゆえであろうか。いずれにせよ、笑って済ませてはあの子が可哀相だ。深読みしてやらねば、やるせない。昨年10月の拙稿「死者の声が聞けるか!?」を引く。

〈人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣を持つことで、他の霊長類と分岐した。「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。〉(内田 樹著「街場の現代思想」から縮約)
 「死者の声が聞こえる動物」とは言い得て妙だ。チンパンジーが仲間の死体を持ち去ったという特異例があるにはあるが(撤去しただけ)、人間以外の霊長類は同類の死体には見向きもしない。置き去りにする。単なる物体に過ぎない。「死者の声が聞こえる」のは人類の属性といえる。
 「『死んだ人間』がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると『感じる』ことのできる」感性。つまりは、この本性が人間の「人類学的定義」だ。

 「元気ですか」は死者の声を聞こうとした発語だ。「人間の『人類学的定義』」を再現した振る舞いだ。さらに、「人類の属性」を失いかけた者たちへの痛打だ。だから、「2万に及ぶ死者たちの慟哭に耳を澄ませよ。上辺の復興ばかりを言い募る薄っぺらな政治的言説に惑わされてはならない」という含意をくみ取ることだってできる。これが「深読み」である。もちろんあの少年にはそのような意図はなかった(たぶん、いや絶対に)。だから、苦笑に替えて意味を後付けするのだ。でなければ、やるせなかろう。
 死を忘れた生はまちがいなくその生を細らせてしまう。「人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している」からだ。先々月の愚稿「サピエンス全史」で触れたハラリのいう「認知革命」もおそらく同じ「本性」を指している。
 「6」と「七」は表裏(ヒョウリ)である。生者への言祝ぎは死者への弔いに裏打ちされる。あの少年の「元気ですか」は、期せずしてこの訓(オシエ)を想起させてくれた。 □