画像の「五傑そろい踏み」は、筆者が高校1年生、つまり37年前頃に流通していた、映画監督、山本嘉次紊気鵑痢崚豕食べ歩き地図」の巻末に載っていたものだ。当時、著者は札幌の高校生だったが、駿台の夏期講習を理由に上京して、食べ歩きを試みた。といっても、当時はまだまだ子供で、そんなにお金を持っている訳でもないので、コーヒーと蕎麦を中心に、あとは、うなぎやとんかつを食べたくらいのものだった。

 蕎麦は、今となっては、藪蕎麦よりも美味い店がたくさんあるような気がする。しかし、コーヒーは、好みの問題もあるが、未だにカフェ・ド・ランブルよりも美味いと思うコーヒー屋はない。とんかつ屋は、蓬莱亭や本家ぽん多は、まだまだ東京のとんかつ屋では第一線の範疇だろう。うなぎの野田岩、尾花も格付ならばAAはあっていいと思う。

 随分変わったな、と思うのはラーメンだ。全国的にラーメンに凝る文化が育まれて、東京でも様々なラーメン屋が栄えている。当時の東京のラーメンは貧しいものだった。札幌のラーメンと東京のラーメンは大差で札幌のが美味いと思っていた。だが、今は分からない。まだ札幌の方が美味いのかも知れないが、確信は全くない。東京では各種のラーメンがしのぎを削っていて、ラーメンが評論の一ジャンルとして確立された趣がある。今や、雑誌を見ると、株価や株式の銘柄よりもラーメン屋の話題の方が多いくらいだ。

 30年以上前のグルメ情報は、価格と味のバランスを取っているとの触れ込みだが、要は、著者が個人的に知っている店をリストアップしたのだろう。近年の網羅的でしばしばネットによる多くの人の意見を反映したランキングの方が、情報としては有用なのかも知れないが、一人の通人が自分の好みにまかせていい店を紹介したリストにも捨てがたい味がある。

 ブログで飲食店を紹介するのは、一つにはネガティブな意見を書きにくいことと、もう一つには食事中に食べ物の写真を撮るのが食事マナー的に冴えないことの二つの理由であまり積極的にやってこなかったが、最近は、時々ならいいのかなと思うようになった。さて、どこから紹介しようかな・・・。
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 ムン・ヒョンジン「サムスン式 仕事の流儀 〜5年で一流社員になる」(吉原育子訳、サンマーク出版)という本を読んでみた。

 日本でいうと30年前に存在した「モーレツ社員」と「ごますり男」になるための具体的な方法とそれがいかにメリットのあることなのかが、具体的且つ論理的に臆面も無く書かれている。上司との付き合い方、役員のアテンド、顧客への贈り物、飲食のマナーにドレス・コード、書類の作り方、出張の準備など、たぶん、現在45歳以上の日本のビジネスパーソンには、おなじみのことばかりだ。率直にいって、当たり前すぎて参考にはならない。知ってはいるけれども、敢えてそうはしない、というようなことも多い。

 期待する若手社員になら、「君はここに書いてあるサムスンの社員像よりも、ましな人物になってね!」といいたいところなのだが、一方で、ちょっと待てとも思う。

 今の会社の上司や先輩社員は、この本に書いてあるような内容を、親切に、事細かに、後輩に教えることはないだろう(個人的には、わざわざそれをやらなければならないレベルの組織では働きたくないとも思う)。一つには先輩の側の照れもあるだろうし、もう一つには「ウチの会社は凄いのだ!」という高揚感がほとんどの会社にないからだ。ウチの会社で評価される人間になるには、こうしなさい、と後輩に教える先輩像が想像しにくい(或いは、そんな先輩は人間として面白くない人だろうとも思う)。

 たとえば、「ごますり」にしても「モーレツ社員」にしても、その原理と基本を知っていて、そうしないのと、単に嫌いだからそうしないのとでは、行動に差が出来る。自分が与えるイメージや人間関係の作り方も含めてビジネスの能力であるという考え方は知っておいてもいい。これらについて、日本人が書いた本は妙に精神論的になる傾向があるが、この本は、直接的且つ論理的だ。

 だから、申し訳ないけれども「つまらない」と思う一方で、この本は妙に捨てにくい。もしかしたら、これから社会に出る学生には貴重な「資料」であるのかも知れない。彼らにとっては、たぶん、一読の価値があるだろう。「モーレツ社員」と「ごますり」について能率良く理解するためなら、これはいい本だ。ただし、彼らには、会社に入ってからこの本を再読するような人にはなって欲しくない。一度読んだら、考え方だけ覚えて、捨てて欲しい。学生に紹介するなら、注釈付きで紹介すべきだろう。

 さて、学生に紹介すべきだろうか。止めておくべきか。今の段階ではまだ迷っていて、この本を、捨てるか(自分のためなら躊躇なくそうする)、スキャンして保存するか(後で取り上げる可能性があればそうする)、本のまま保存するか(学生に紹介するなら本があった方がいい)、結論が出ていない。
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 村上龍さんが主宰する経済・社会系のメールマガジン「JMM」(Japan Mail Media)には、10年以上にわたってほぼ毎週寄稿していたが、今年に入ってから、執筆回数が減った。もったいないことに、TwitterやFacebookで、「山崎さんのJMMへの寄稿を楽しみにしています」というメッセージをしばしば頂くので、「JMM」について、簡単に触れてみたい。
 「JMM」に参加した切っ掛けは、「JMM」のスタート時に、林康史さん(現・立正大学教授)に紹介していただいたことだ。当時の「JMM」は対談編と村上編集長に寄稿家が答えるQ&A編の二つを中心として構成されていて、幸運にも、私は両方に参加することが出来た。
 「JMM」で特徴的だったと思うのは、「論争に決着を付ける」のではなく、「問題を提示する」ことを目的として多様な意見を吸収・発信する点だったように思う。これは、時に物足りないこともあったが、振り返ってみると、議論の無用な加熱を回避する賢い方針だった。
 私は、村上編集長の経済に関する質問に対して、「ともかく毎週答える」ことを方針として、10年以上、ほぼ皆勤で回答を書いてきた。毎週回答を書いてきたことで、多少の信用(?)にもなったと思うし、私が書いた回答を見てやって来た仕事も少なくない。これは、気のせいかも知れないが「JMM」に書き続けている人々の多くが、それなりに「世に出ている」ような気がする。村上さんの人徳だったのかも知れないが、縁起のいい媒体だ(→若者よ、「JMM」に寄稿してみませんか!)。
 回答は、その時々に自分の意見の表明としてマジメに書いてきた積もりだが、他方で、経済に関わる文章を書く練習の場だとも思っていた。村上龍さんに読まれるということだと、それなりの緊張感が伴うし、編集長は(寄稿文は全て丁寧に読まれているようだ)ときたま「書き方」について指導してくれた(何と豪華な、作文通信添削か!)。村上さんから貰った幾つかのアドバイスは、私の個人的な財産だ。
 毎週必ず回答書く方針を修正する切っ掛けは、第一に忙しくて手が回らなかったからだ。今年NHK出版から出して貰った「お金の教室」という本の仕上げの頃にいよいよ手が回らなくなったので、「毎週」を諦めることにした。考えてみると、「JMM」参加の頃と異なり、「ダイヤモンド・オンライン」(毎週)や「現代ビジネス」(隔週)など、時々の経済・社会をテーマとした原稿の執筆もある。残念ではあったが、いざ「皆勤」の縛りを解いてみると、それでホッとしたのも事実だ(つくづく私は凡人である)。だが、「お金の教室」を手に取ると、今でも少し複雑な気分になる。
 もう一つの理由としては、「JMM」で自分が書いている回答が、過去と似た内容を何度も書いていることに気付いたことだ。
 その時々の話題に寄り添ったテーマで発問されるウィークリー・メルマガの性質上、広義の「構造改革」、「財政赤字」、「デフレ」、「マーケット」、「景気」などが繰り返し登場するが、これらに対する基本的な“考え方”はそう簡単に変わるものではない。
 唯一以前と変わったのは、「デフレ」について、以前は、その弊害は認めつつも、デフレ対策の弊害の方が大きい、と思っていたものを、メリットよりも弊害の方が小さいデフレ対策は十分存在しデフレ対策の実行が重要だ、と宗旨替えしたのが変化であるが、それ以外の問題については、基本的な考え方に大きな変化はない。
 市場は不完全であるが、利益団体化した官僚が主導する設計主義的な社会運営よりも、自発的で自由な取引を重んじる方がずっとましだ、というのが私の基本的な立場だ。基本的なミクロ経済の教科書の内容を認めるなら、大体において深刻な論争の対象になるようなことは言ってこなかった積もりだ。
 もっとも、「毎週」を止めたとはいっても、「JMM」への回答執筆自体をすっかり止めようと考えている訳ではない。面白い回答が書けそうに思えるテーマで、原稿を書く時間があれば、「私もここにいるよ」と出しゃばって行きたい。
 レギュラー選手から、代打の選手になったような感じなのはガッカリだが、まだ「消える老兵」になる積もりはない。とはいえ、「JMM」の回答編には、もう少し若い活きのいい寄稿者が欲しい感じはある。我こそは、と思う方は、編集部へのメールの形で回答を書き送ってみて欲しい。読者からの回答が掲載・配信されることもあるし、何度か回答を送るうちに常連回答者に仲間入りすることもあるはずだ(過去に何人もいる)。
 以上、「JMM」の中間決算の脚注だ。「JMM」も「山崎元」もまだまだ続くはずだ。私は「JMM育ち」だ。
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 先般亡くなった原田芳雄さんの遺作である「大鹿村騒動記」を観てきた。大変出来のいい映画だと思った。
 第一に、脚本が良く、クライマックスの大鹿村の歌舞伎で原田芳雄さんが扮する景清が発する台詞「仇も、恨みも、これまで、これまで〜ぇ」に流れるように無駄なく運ばれていく。
 第二に、役者が良く、大根役者無しで撮る映画とは、こんなにいいものかと認識した。
 概ね、上記のような感想をfacebookに書いたところ、同作品のパンフレットを作った大谷隆之さんというライターさんから次のようなコメントを貰った。

「本作に登場する大鹿歌舞伎(地芝居)の演目「六千両後日文章重忠館の段」は、平家の荒武者・景清のその後を描いた後日談。いわば“敗残のヒーロー”が大暴れする一大スペクタクル劇です。今年3月、原田さんにお話をうかがった際、景清を演じる魅力について「芸能ってのは本来、敗者のためのもの。勝者の側がつくる芸術なんてロクなもんじゃないんだ」という趣旨の話をしていただいたことが忘れられません」

 原田芳雄さんが、「敗者の芸術」に対してこれほど明確な意見をお持ちだったことは初めて知った。しかし、確かに、過去の出演作を思い起こすと、原田さんからは、「何かが思うに任せない男」の気配が立ち上る。
 これはどういうことなのかと考えると、九鬼周造の「『いき』の構造」に思い至った。
 九鬼は、粋とは、媚態であり、同時に、意気地であり、諦めを伴う、つまり、理想化されていて現実には達成されない媚態だと説明している。
 原田芳雄さんは、何とも男臭いむせかえるようなフェロモンをお持ちの方だった(男のセクシーも媚態の一種と分類するなら、天然の濃い媚態をお持ちの方だった)。彼は、そのような自分を「思うままにならない男」の位置に置くことによって、単なるセクシーではなく、粋な色気を身にまとうことが出来ることを感性的に把握していたのではないか。
 その実感を芸術論として語ると、「敗者の美学」に至るということではなかろうか。
 たぶん、原田芳雄さんは、あっけらかんと勝者の立場で作ったハリウッド映画などは、人間が平板で凡そイケていない「商業プロジェクト」に過ぎない、と思っておられたのではないだろうか。
 それにしても、惜しい役者さんが亡くなった。残念、というしかない。
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 今、何かについて発言する場合、「原発をどう考えるか」について自分の立場を明確にしないと十分な意見にならないことが多いように思います。
 以下は、原発に関する私の意見を簡単にまとめたものですが、フジテレビの【コンパス】という意見収集サイトの質問を基にしています。このサイトに回答しても、番組で取り上げられることは滅多になく、回答が徒労に終わることが多いのですが、質問に回答する作業は、自分の意見の整理に役立つことがあります。

 以下にコンパスへの回答に加筆修正したものを載せます。

★問1:
日本は今後、原子力発電と、どのように向き合うべきと考えますか?

1-<即時廃止>多少の電力不足も受容し、原発を停止させる
2-<段階的廃止>電力不足に配慮し、ゆるやかに原発を停止させる
3-<現状維持>安全管理の基準を見直し、可能なかぎり既存原発を活用
4-<増やす>より安全性の高い炉の導入などで、原子力発電に取り組む
5-そのほか(設問・選択肢以外の考え方、視点)

私の回答→ 2.

 この辺が妥当な意見ではないかと思っています。

 私は、原子力環境整備促進資金管理センターの最終処分積立金の資金運用の運用委員会の委員を務めています。ある意味では、原発の存在を肯定し原発に協力している面がありますが、原発は日本に既に存在し(日本の原子力発電は「トイレ無きマンション」などと呼ばれることもあります)、核廃棄物の処分は必要なのでこの処分費用の積立金運用に協力することと、上記の回答は矛盾していないというのが、自分なりの整理です。
 尚、この積立金の運用には、小さからぬ反省点があると感じています。この点については、別の機会に整理してご報告したいと思っています。

★問2:
問1の選択の理由、日本の原子力発電の今後の在り方、原子力発電を取り巻く
今の国内の議論について、ご意見をお聞かせください。

原発のリスクのマイナス面に注目すると、以下の点が指摘できます。

(1)原子力という技術そのものを安全か危険かと決めつけることは不毛です。実際にリスクとして認識しなければならないのは「原子力」そのものよりも、それを運営・管理する「人間」でしょう。基本的に、人間を完全に信じることができないことが、原子力そのもののリスクと混同されていることが、原子力問題を難しくしている根本原因でしょう。

(2)原子力のリスクを評価する上では、今回の「フクシマ」の事故のようなケースの「コスト」をどのように見積もるかという問題があります。
 評価に関しては、たった1ケースについても最低数十年の期間を必要とする現実があり、「科学的に」有効な結論を出すことには困難がありそうです。たぶん、上下に10倍以上の開きのあるコストを前提に賛成派と反対派とが議論をするので、議論は噛み合うことがありません。
 ツイッターなどを見ていると、原子力は経済的で事故の可能性を考えてもコストが安いという意見もあれば、原子力のコストは莫大だと決めつけた議論の両方があり、お互いに議論の前提が噛み合わないまま罵り合うことが多いように思います。

(3)現実的にいえるのは、姿が見えないし、悪影響が表れるまでに何十年も掛かる放射能に対する「心理的コスト」が非常に大きいということであるように思えます。原子力は自分の利害で判断すべき問題ではありませんが、私個人は、電気料金がもっと高くても(現在よりも五割高くても)、それで原子力発電なしで済むならまあいいのではないかと思っています。

(4)上記の(1)〜(3)を綜合していえそうなことは、「できれば」、同じコストの下なら原発を使わずに済む方が、国民の満足度は明らかに高い、ということです。

 この段階で、もう一つ考慮すべきは「技術」の前提でしょう。

(5)現在の技術を将来も所与のものとして、発電のコストを考えてはいけないように思います。原発も、それ以外の発電も、開発と投資に資源を振り向けると、効率(安全性も含めて)を改善することができるのではないでしょうか。
 この点に関しては楽観的に過ぎるのかも知れませんが、将来の技術について確かなことが言えない中で、私個人としては、技術進歩の可能性に期待してもいいのではないかと思っているということです。

(6)また、節電(家庭レベルでは、白熱電球→LEDライト、エアコンや冷蔵庫の技術進歩など)技術の進歩や、蓄電、電力マネジメントの技術進歩は、発電力の増強と同様の効果を持ちます。

 すると、次のような期待を持つことが出来るのではないでしょうか。

(7)「原子力発電を段階的に廃止する」という大方針を明確にして、他の発電技術と節電技術に投資を行うなら、将来的、コスト的に見て原発の代替が可能になる可能性は小さく無い。

(8)付け加えると、上記のような、原発を不要とする発電技術の開発は、ビジネス的にも極めて大きな価値を持つことが予想できます。日本以外の国でも、この種の技術に対しては、大きなニーズがあるように思います。この技術開発への投資は投資それ自体として魅力的なものである可能性が(かなり)ありそうに思います。

 一方、現実問題として、次のような問題があります。

(9)技術の改善とその実現には時間が掛かります。現在稼働している原発を全て直ちに止めることのショックは大きい。従って、安全管理に現在以上に留意しながら、徐々に原発を減らしていくことが、現実的な選択になるように思います。

 最後に補足として。

(10) 原発廃止で電力コストが上がり、日本の競争力(←曖昧で使い物にならない概念です!)が損なわれるという議論がありますが、そもそも、石油もウランも輸入するような国がエネルギー集約的な製造業にウェイトを置くこと自体が非合理的です。
 あくまでも、個々の企業なり個人なりの意思決定の集積で決まることですが、電力コスト云々の問題以前から労賃もエネルギーコストも(アジアの中では相対的に)高い日本でこれらに依存するところの大きな「ものづくり」に注力することが賢くありません。
 脱原発をある程度の時間を掛けつつ確実に進めながら、日本の産業構造も変わって行くことが、望ましい将来の展開ではないかと考えています。

★問3:
今後、原子力発電に替わる電力の供給が必要になってくると考えられます。
再生可能エネルギー(自然エネルギー)を実現してゆくために
どのような施策、政策、枠組みを用意すべきでしょうか。

下記の選択肢をお選びいただき、
ご意見をお聞かせください。
1-「実現のための施策、政策、枠組み」への意見
2-回答を控える

もちろん1です。

 先ず、環境への負荷やリスクが相対的に小さい新技術に基づく発電電力一単位当たりのコストとして、どれだけ追加的なコスト投資していいかを考えて、国からの補助金を設定するべきでしょう。この補助金は、新技術への投資に対する奨励金であり、間接的な形ではありますが、国としての再生可能エネルギーへの「投資」の意味を持ちます。
 既存の電力会社がそれぞれの地域で強力すぎる独占企業であることを考えると、新しい発電に取り組む事業者に対して国が補助的な投資を行うことは悪くないと思います(補助金は金額・時間共に限定的な者である必要があると思いますが)。
 具体的には、送電会社と発電会社を分離した上で、送電設備を持つ電力会社に再生可能エネルギーによる電力を(強制的に)買い取らせて、割安な既存電力の価格に上乗せされる奨励金に相当する差額部分を国が負担するような仕組みを作るといいのではないでしょうか。これによって、新技術の進歩を促すといいでしょう。
 基本的には、現在検討されている再生可能エネルギーの買い取り法案に近い考え方を支持します。
 但し、どのようなエネルギーをどのような条件で誰が買い取るか、価格をどうするか、そもそも送電・発電の分離をどう実現するかについては、それなりに慎重に考える必要がありそうです(そのためには、東京電力を法的にフェアに、たとえば会社更生法で整理して、新しい枠組みの発電会社とこれとは別の送電会社に再編することは有意義であるように思います)。

 最後に、この問題は「死に体」の菅内閣の下で検討すべき問題ではないことを強調しておきたいと思います。

(※ 上記の拙文は、一ヶ月ほど前にfacebookに投稿した文章がもとになっています。原発については、賛否何れのサイドにも、冷静な議論にならない人がいるので、コメント者が実名で読み手が限定されるfacebookに意見を書くことにしたものです。
 当ブログのコメント書き込みについては、特に制限を設けませんが、「品のいいやりとり」を期待しています。
 尚、今後、賛否が分かれるようなデリケートなテーマについては、なるべくfacebookで議論しようと思っています。ご興味のある方は、facebookで「友達」の申請をして頂けると助かります。原則として、所属を明かした実名で、顔写真のはっきりしているリクエストを承認する方針にしています)
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 先般、ある勉強会的な集まりでFacebookの効用と可能性について聞き囓り、「やってみないと、いけないなあ」と思うに至った。私は、少なくともIT分野にあって先進的な消費者・ユーザーではない。ブログもツイッターも私が「やった方がいいかなあ」と思ったのは、流行がかなりはっきりしてからだった。今回のFacebookも既に十分流行っている。しかし、Facebookの場合、これをどのように使ったらいいのかが分からなかったので、取り敢えず、Facebookの解説本、いわば「顔本」を数冊買ってきた。
 Facebookは実名でのコミュニケーションであり、直接的な交際に近く、「深い関わり」を持つことが可能な環境ないしツールであるとの印象を持った。
「速く、浅い」ツイッターよりも、Facebookは「やや遅く、深い」。一方、ブログは対象が広いが匿名性が許容される分内容が雑多になる(これは、これで長所でもある)。という具合に考えると、私の仕事や日常にとって、Facebook取り入れるのは悪くなさそうに思えた。当面は、実名で顔写真付きの方と少しずつ交流させて貰うことにする。
 Facebookの感想は、しばらく触ってみて、またご報告する。今回の本題は、Facebookではない。

 Facebookのプロフィールのページはかなり詳細に自分を紹介できるようになっている。趣味やスポーツの好みなどの他に、政治信条(「優しい自由主義者です」と書いた)、さらに「尊敬する人物は?」という設定項目がある。

 「尊敬する自分物は誰ですか?」というのは、人によっては答えに準備の必要な質問かも知れない。私も、しばし考え込んでしまった。
 一つには、私は、他人を、「凄い!」とか、「立派だ!」とか、「羨ましい!」と思うことは多々あるが、全面的に「信じる」ことはしないようにしようと考えている。
 だから、人物の行動や業績に対して高評価することはあっても、それが、個々の行為に対する感心にはなるが、人物そのものに対する「敬意」には転化しにくい。
 従って、具体的な人物名が、「実感を伴って直ちには」出て来ない。

 小考の後、Facebookのプロフィール欄における「尊敬する人物は?」という質問に、自分の実感を以て答えようとすること自体が不適切なのだと気がついた。
 この質問は、実質的には「あなたは、どんな価値観を持っているのか、具体的な人物名を挙げて示してみて下さい」ということだろうし、さらに「どんな価値観を持っている人物だと他人から思われたいのですか?」という質問だと考えるべきだろう。
 単純な実感正直主義がいかに場の文脈を弁えないことがあるかについては、かつて、民主党の岡田現幹事長が「愛読書は何ですか?」という質問に対して「同じ本は二度読まない」と答えた事例が余すところ無く伝えているように思う(何度思い出してもスゴい回答だ!)。この場合、彼は、「あなたはどんな本を愛読書とする人として人々に理解されたいか」という質問に答えるべきだったのだと、私は思う。

 さて、それでは、世界一偉い人は誰だと思うか?と自問した時に答えを出すことは簡単ではないし、身近なところで「父」などと答えるのも(誰にでも知られているような父親でない限り)、文脈オンチの範疇だろう。

 頭の中の検索には数秒の時間が掛かった。
 申し訳ないが、政治家はとても対象になりそうもない。
 学者や哲学者はどうか。彼らは、著作や論文を通じた業績に感嘆する対象ではあっても、個人としての人柄を云々するほど身近な対象ではない場合が多いし、業績と人柄はまた別であると考えることが適切な場合が多いように思う。
 「資本主義と自由」は人生の進路にも影響を与えてくれた好きな本だが、著者であるミルトン・フリードマン氏が尊敬の対象として紹介したいような人物であるとは、とても自信が持てない。ショーペンハウアーの考察や皮肉の切れ味には大いに感心するのだが、こちらも、私にとって尊敬できる人物というイメージの人ではない。
 経営者はどうか。世の中を動かし、多くの人を雇用し、自分の目的を達成する人という意味で、尊敬すべき人の必要条件を満たしているような気がするのだが、具体名が挙がりにくい。
 成功した経営者は、
(1) 多くの場合、「威張る」し、
(2) 訊きもしないのに自分のこと(自社の経営方針とか、人材育成とか、最近の勉強内容とか・・・)ばかりまくし立てるような(自己中心的な)人物だし、
(3) 聞いていてくたびれるようなポジティブシンキングに他人を付き合わせる(「ポジティブ・シンキング・バカ」、略称「PTB」と呼ぶことにしている)ハイテンションの持ち主だ(こちらは、劣等感の裏返しであることが多いようだが)。
 これらを一概に悪いとは言いにくいのだが、彼らは既に十分経済的に恵まれており、さらに尊敬して褒めるには及ばないような気がする。
 ちなみに、経営者の書いた本ではジャック・ウェルチの「ウィニング 勝利の経営」(日本経済新聞社)が好きだが、その理由の半分は、彼が大らかに本音を書いていて内容が参考になるからであり、残り半分は「経営者って人種は仕方がないなあ」と時々苦笑できるからだ。欲望の塊のような人物だった経営者が、坊主のような説教を垂れることが多い、日本の経営者本の多くは読んでも面白くない。

 それで、尊敬する人物はどうなったか? この種の問題の答えは、諦めかけた頃にふとやって来る。
 私の答えは、小倉昌男さんだ。ご存じない方はWikipediaでも見て欲しいが(http://ja.wikipedia.org/wiki/小倉昌男)、ヤマト運輸の経営者だった方だ。
 私は、残念ながら直接お目に掛かったことはないのだが、著作「小倉昌男 経営学」は読ませて貰ったことがある。
 勝手な印象であり、私の誤解かも知れないが、彼は「威張らない」、稀有な成功経営者だった。これだけでも、凄い。
 ビジネスでは、旧運輸省、旧郵政省の規制と戦い、横暴な取引先とも妥協しなかった(Wikiには三越との事例が書かれている)。一方、審議会の委員として採算性の乏しい高速道路に賛成したことなどについては事後に反省を述べるような率直さも持ち合わせていた。加えて、晩年は、現実的なビジネスを通じて障害者の経済的な自立を支援することに取り組んだ。
 素晴らしい人柄であり、人生だと思う。

 「尊敬する人は?」という質問への私の答えは、今後変化することがあるかも知れないが、小倉昌男氏を尊敬することは変わらないだろう。
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 東日本大震災が起こった時、私は自宅にいた。仕事の合間にたまたま戻っていた。拙宅はマンションの低層階(2階)なので、物的被害は、本棚に置いてあったモルト・グラスが一個割れただけだった。
 揺れ(おそらくはタテ揺れ)を感じてから横揺れに移るまでの時間が長かったので、「震源は遠いな。まあ大丈夫だろう(東京の直下型ではないから)」と思っていたが、横揺れの時間が長いので、揺れの終盤は幾らか心配な気持ちにはなった。
 割れたグラスを片付けて、急いで次の仕事に向かおうとした。しかし、近所の大通りには多くの人が歩いていて、タクシーに空車はなく、地下鉄もJRも動いていないので、自宅に戻った。結果的に、「帰宅難民」にならずに済んだ。
 拙宅は、新宿区にあるので、目下、東京電力の「計画停電」の対象外だ(一方でありがたいが、他方で不公平なので申し訳なく思う)。
 総合的にみて、私は、この震災に関して、東京都民としては恵まれた状況にあると思う。



 震災発生の直前、石原慎太郎都知事は都知事選への不出馬を表明していた。しかし、その後に、大きな揺れが東京にも伝わった。
 その後の津波の被害を見た石原知事が、これを日本人への「天罰」と語って問題になった。彼の人間性がよく表れた無神経な発言というしかないが、その後に陳謝して発言を撤回、さらに消防団員を激励に訪れるという一連の動きを見ると、石原氏といえども選挙を気にする普通の政治家に過ぎないことが分かる。
「政治家になるのは止めたほうがいい。選挙区に帰ったら犬にまで頭を下げるのだから」とよく私に言っていた母の言葉を思い出す。
 石原発言に関しては、「『天罰』なんてない。ご本人があの年まで何もないのだから」とツイートしていた人がいて、これは気が利いていると感心した。
 雑誌を読んでいたら、なぜか石原氏には甘い評論家の福田和也氏が、石原氏はオカルト的なものを信じる傾向があると語っていた。ご本人の世界の中では、彼の意に沿わない日本人に天罰が下った、というような実感がきっとあったのだろう。誰が言っても不適切な発言だったが、彼が政治家であったことが不都合だった。自由に発言できない不向きな職業を長々続ける巡り合わせは、ご本人にも、東京都民にも不幸だろう。



 東京電力の福島第一原子力発電所の事故が収束しない。収束しないばかりか、まだまだ影響が拡大する可能性がある。
 数日前の北風と雨に運ばれて、放射性物質は東京の水源までやって来た。飲料水汚染のニュースが出る一週間くらい前からメディア関係の知人の中には、出来れば子供は東京から離した方がいいと勧める人が出始めていた。子供を疎開させるかどうか、正直なところ毎日考えているが、今のところ子供の飲食物に気をつけながら東京で暮らす方針だ。



 原発に関しては、さまざまな情報があって何を信じたらいいのか判断が難しい。東京電力や政府が積極的に嘘をついているとも思えないが、彼らが持っている情報を素直に出しているとも思えない。
 「原発は大丈夫か」、「東京に居ても安全か」と東電や政府に訊くのは、「この投信は大丈夫ですか」と証券会社のセールスマン(この頃は銀行員でも同じ)に訊くようなものだろう。
 では誰の情報なら信用できるか、というと判断が難しい。敢えて考えるなら、アメリカ大使館の職員が家族を変わらず東京に置いているのか、彼らがどんな水を使ってメシを作っているか、ということが知りたい。彼らの子供が東京を離れる時は「危ない」ということだろう。



 東京電力という会社がどうなるのかは興味深い問題だ。
 原発事故の今後、農業・漁業などの被害も含めた補償を要する被害額(土壌汚染を考えると莫大だろう)、東電の責任がどの程度あるかに関する法的判断、政府が東電をどうするか、という何れも不確定要素の大きな問題があって、簡単には結論が出ない。
 企業体力の範囲内で一過性の事故なら、株価が下がった(正確には「下げすぎた」)ところで買っておくのが災害時の投資のセオリーだが、東電の場合は簡単ではない。
 「コストが掛かっても、どうせ将来の電気料金で穴埋めできる」という判断から、「補償が巨額の場合、設備は残っても会社としてはいったん潰して再建するのがスジだろう」という考え方までいろいろな可能性がある。
 電力政策を考えると、この際東電の発電部門と送電部門を分離して、発電に関してフェアな競争が行える形にして、安全でクリーンな発電業者を育成すると良さそうだ。既存の原発をどうするかは難しい問題だ。民間会社には無理だから政府の管理下に置け、とも言いたくなるが、よく考えてみると、これは一層の無責任と不透明をもたらす道のような気がする。事故を起こせば損が出てボーナスが減る人々を信用する方がましか。
 東電の場合、株式もさることながら、東電債がどうなるかという問題もある。格付け会社の動きも含めて興味は尽きない。
 ただし、東電は広告の大スポンサーなので、大手メディアから正確な情報や厳しい批判が出てくる見込みは薄いと考えるべきだろう。



 先日名古屋に日帰りで行ってきたが、名古屋に較べて、東京は街も建物の中も暗い。日頃が明るすぎたのだという意見にも一理あるが、明るい方が消費を誘発できるから明るくしていたのだろうと考えると、誘蛾灯的な明かりといえども消えているのは経済的損失だ。
 それにしても、計画停電の対象地域は生活にも生産にも不便だ。電気料金を上げると東電の収入になってしまうから、「電力利用税」でも新設して節電を促す一方、必要な人や会社はいつでも電力を利用できる形にするといいのではないか。もちろん、サマータイムなどのピーク電力の分散策も実施すべきだろう。私は早起きが苦手だが、生活が不規則なので、適応できるような気がする。



 大問題の発生は、相対的に中小の問題の存在感を薄めるが、大中小それぞれの問題が消える訳ではない。解決しない限りそのまま残っている。
 震災の陰に隠れた問題を挙げると、菅首相の政治資金問題、国会の予算審議、名古屋の市議選、リビアの内戦(と欧米の介入)、大相撲の八百長問題、みずほ銀行のシステムトラブルなど、震災と原発事故がなければ大きなニュースになっていたはずの問題がいくつもある。
 菅首相は震災への対応でも精彩を欠く。原発問題にあっては東京電力を信じたためか、初動の対応を誤ったのではないかとの疑いもある。通常は、政治休戦が妥当だが、震災による人命救助最優先の時期が過ぎた今、彼が留任して、原発問題や被災地の復興を指揮するのは、国民にとって不幸なことではないかと私は思っている。
 もちろん、そう思わない人がいても構わないが、「大災害だから、挙国一致で」というヒステリー状態は(もし、そういう人が居ればだが)早く脱する方がいい。原発問題も復興も時間の掛かる問題だ。皆さんは、本当に菅さんが首相でいいのだろうか。



 停電、水汚染、それに自粛ムードが加わって、首都圏(ざっとGDPの4割)の経済活動が停滞する心配がある。現に停滞しているし、長引きそうだ。
 もちろん、電力の問題もあるし、食料・飲料の安全性の問題もある。停電の可能性がある中、遠くで飲み食いするのは心配あるいは億劫だし、外食では何を食べさせられているか分からないという問題もある。消費の停滞にはそれなりの理由がある。
 もちろん、行動は個人の勝手だが、経済活動の縮小は好ましくない。原発問題が流動的な中で新学期・新年度はきっかけにならないかも知れないが、ゴールデンウィークくらいまでにはムードを変える工夫が欲しい。
 「自粛」は別段正義ではない。他人が楽しんだり、無駄遣いをしたりすることにケチを付けるのは愚かで有害だ。
 他方、経済活性化が正義だと消費を勧めるのは押しつけがましいし、豪遊を誇るのは無粋だ。
 「愚かで、有害」と「押しつけがましくて、無粋」はどちらも嫌いだが、より避けるべきは、たぶん前者だろう。
 不格好でなく、気分良く消費に気持ちが向かうように、商売をされている方々や広告クリエーターの皆様方の手腕の発揮に期待したい。



 震災からの復興に関しては、被災地域の基礎的なインフラへの投資と速やかな都市計画が必要だとして、それ以外は、被災者への現金給付(災害復興版のベーシックインカムか)、今後振興したい地域での特別減税による企業誘致、規制緩和を伴う大規模な「特区」の活用など、個人及び企業の自由な行動を優先する振興策を推進して貰いたい。
 アイデアマンが官僚・政治家・関連業界を巻き込んで地域開発にカネを使うような形は望ましくない。マニフェストを破りまくっている民主党政権には、せめて震災復興では「コンクリートから人へ」の方針を思い出して欲しい。



 原発問題は解決まで長く掛かりそうだ。
 一日に何度かニュースを確認して、風向きや雨を気にする生活は気疲れするが、被災地のことを気に掛けつつも、消費や趣味も楽しみながら、幾らか余裕を残し気味のスケジュールを心掛けて生活しようと思っている。
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 大相撲に八百長があることは「大人の常識」だったと思うので、今更「ほら、やっぱり!」と言おうとは思わないが、八百長が大問題になっている。
 相撲協会は、大阪場所を中止し、新公益法人認定の申請スケジュールも白紙化して、先ずは、八百長問題の徹底解明に努めるとして、現在、関取全員に対するヒアリングを進めている。トラブルシューティングとして、ここまではこれ以外にやりようのない対応だったと思うが、さて、これからどうなるのか。

 インタビューに応じた、横綱白鵬が、記者の質問に対してなかなか興味深い答えを返した。
 以下のやりとりは、ネットのスポニチ「Sponichi・Annex」の記事からの抜粋だ。(http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/02/09/kiji/K20110209000214530.html)

==========================
―八百長や無気力相撲が取り沙汰されている。


「無気力相撲と八百長を一緒にしてはいけない。体調不良の日もある。(関与した)力士自身の問題でもある。何とも言えない」

 
 
―自身の八百長関与や他に見聞きしたことは。

「ないということしか言えないじゃないですか」
==========================

 先ず、白鵬は、「無気力相撲」は存在すると考えているようだ。八百長との区別の基準については語っていないが、金銭の授受や取り組み前の約束が立証されなければ、「八百長」にはならない、とでも考えることにしたのだろう。
 次の発言は、もっと味わい深い。少し考えてみると、「ないということしか言えない」のは、記者に対してだけではなく、調査委員会や協会幹部に対しても同様だ。つまり、協会が現在やっている調査は意味があるものとは思えない。警察に把握された物証があるわけでなければ、「本人たちは、やっていないという」という説明で、いつでも調査の幕引きが可能だ。当面、どこまで表沙汰になる可能性があるのか、世間の批判がどの程度か、を見極めるために時間が必要だが、どの段階で調査が完了したかは、調査委員会(つまり協会)が決めるしかない。「徹底的な調査」という言葉に、実質的な内容は無い。今回の徹底調査は、それ自体が八百長だと言わないまでも、取り組みの終わりも、勝ち負けも、決まり手も自分で宣言するような「独り相撲」にすぎない。
 経済的な損得を考えると、協会としても、文科省としても、あるいはNHKや、相撲で商売をしている多くの人達にとっても、相撲協会は新しい公益法人にする以外に現実的な道はないように思われる。公益法人認定を得られず、国技館を失い、NHKの放映権料無くなる、ということでは、たぶん、大相撲はやっていけない。
 第三者の立場から見ると、現在の大相撲のしくみでは八百長があることの方が合理的だし、大相撲自体はプロレスのようなショー的な興業なのだから、株式会社でやればいいではないか、と思うわけだが、相撲が観光資源になっていることもあるし、近年、優勝者に総理大臣杯を渡す以外に活躍の場がない首相ばかりであることなども踏まえると、「ほとぼりが冷めたら、元の鞘に収まる」と考えるのが、妥当な「予想」だろう。

 一つ計算外のファクターがあるとすると、どうして、今の時点で警察は相撲の八百長をリークしたのか、その意図が掴みきれない。警察が情報を出したにせよ、文科省が情報を出したにせよ、本来、公務員がその守秘義務を全うしていれば、今回の問題は、世間に知れ渡ること自体がおかしい問題だ。
 たぶん、警察が情報を出したのだと推測するが、この意図として、たとえば相撲に絡む反社会的勢力を一掃しようとしている、といった別の大きな構図があれば、大相撲の存続形態にも影響するかも知れない。ただ、その場合でも、相撲を丸ごと取りつぶすようなことはしないのではないか。

 大相撲は、どうせ元のように再開するのだろう、と割り切るとして、敢えて、改善点を提案すると、審判部をもっと強化する必要があるだろう。部屋の親方が同時に審判部を務める現行制度では、白鵬の言うように「無気力相撲」があっても、公平で厳しい処分ができまい。競馬でいうと、調教師が持ち回りでレースを審査する裁決委員をやっているようなものだ。
 弟子を持たずに、相撲技術の指導や啓蒙、さらに競技の公正の維持にあたる親方がいてもいいのではないか。外資系企業では、しばしば、コンプライアンス部門のトップは会社のナンバー2か3であることが多く、しかも、社長から独立したレポートラインに属している。
 今度こそ、理事長は外部からスタッフ付きで人を迎えて、元力士の最高ポストは審判部門担当の副理事長(部屋は持たない)、というくらいでいいのではないか。加えて、理事会は外部理事を多数とする。
 また、親方株は、全て協会に返納し、いったんリセットすべきだろうし、現役力士の報酬制度もすっかり作り替える必要があるだろう。
 スポーツの体裁で興業を行おうとするなら、この程度の改革は行う必要がある。

 ところで、以下は私の個人的な印象だが、白鵬は「相手が無気力相撲を取ってくれた経験」を持っていると思う。以前にも書いたことがあるが、そう思う理由は、彼が横綱昇進を実質的に決めた(2回連続の優勝を決定した)千代大海戦の相撲が不自然だったからだ。(白鵬は土俵上で千代大海を吊り上げたが、吊り落としにせずに、千代大海を土俵上に降ろした。しかし、千代大海は簡単に寄り切られて、その後に薄ら笑いを浮かべていた。おそらく「おいおい、この相撲で吊り落としは勘弁してくれよ。白鵬は力が入りすぎだよ」とでも思っていたのではないか)
 また、かつて「週刊現代」にも、白鵬サイドが星を買った疑惑が、当時の白鵬の部屋の親方のテープ音声付き(ネットにアップされていた)で報じられていたことがある。
 しかし、事前の八百長合意や金銭の授受については、協会のためにも、自分のためにもしらばっくれることにするのだろう。そうだとすれば、立場があるとしても、悲しい職業だ。
 但し、白鵬は相当に強いと思う。付け加えると、朝青龍も強かったはずだ。時々八百長があるとしても、また、八百長が可能な環境ならばなおのこと、彼らは余程強くなければ、大関、横綱になれなかっただろう。彼らは、歴史的に見ても優秀な相撲取りであることは間違いないと思う。

 このように考えると、今後大相撲が始まったとして、これまでと相撲の見方が変わるわけではない。これは、注射か、ガチンコか、と推理を働かせながら、個々の力士の本当の力を推測するというのは、なかなか高級な楽しみ方かも知れない(NHKの解説者にも、この辺りの機微を解説して欲しいものだ)。「無気力でない、充実した八百長相撲」もきっと見られるだろう。
 今後は、時に八百長があっても怒るのは野暮だろう。その代わり、相撲協会も「過去には一切無い」というような見え透いた嘘をついて、開き直ったりしないことが大事だ。当事者も、バレたら、潔く認めようではないか。相撲の場合、ファンは馬券を買っているわけではない。作られた盛り上がりも、時に漂うインチキ臭さも、全て丸ごと大相撲の世界を楽しめばいい。

 ところで、中学、高校、大学、それに社会人など、アマチュアの世界には相撲を純粋なスポーツとして楽しむ人がいる。彼らのために、大相撲とは別に、八百長なしの純粋な競技としての日本選手権、ひいては世界選手権を催し、これには、大相撲の力士も参加可能という形にしてはどうだろうか(本当は、興業としての大相撲と切り離して、競技相撲の方を伝統的な国技として継承したいところだか)。

 純粋なスポーツとしての相撲も最高レベルの競技を見ることができるようにしてくれると嬉しい。
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 他人に対してネガティブな感情を持ったとき、読者は何と叫ぶだろうか。もちろん、良き社会人は、面と向かって他人を罵ったりしないだろうから、心の中で叫ぶ。その声を聞いてみて欲しい。
「バカ!」、「屑!」、「嘘つき!」、「畜生!」、「ブタ!」、「悪党!」、その他、いろいろな言葉があるが、人間は、褒めたり、喜んだり、する場合よりも、怒ったり、軽蔑したりする感情を抱いたときにこそ自分の価値観を正直に表すのではないか。

 正直に言おう。筆者の場合は心の底で「百姓!」と叫んでいることが多い。頭の中だけで怒る時に「バカ」と罵っていることがよくあるが、「腹を立てて」感情が波立った時に心の中に湧いて出る単語は「百姓!」だ。意味としては「田舎者」を指して使っているように思う。もちろん、百回中99回は心の中に思い浮かべるだけで、実際に口に出したりはしない。
 筆者自身は北海道の出身であり(生まれは旭川市、育ちは札幌市)、現在住んでいる東京にあっては、相対的には相当の「田舎者」だ。筆者自身もこの点は自覚している。
 一方、価値観の上では、少なくとも表面的には、都会でなく田舎の出身であることを悪いこと、恥ずかしいことだとは思っていない。いわゆる「江戸っ子」を羨ましく思うことがないわけではないが(勇ましくて、さっぱりしているのはいいイメージだ)、道産子の、去る者は追わず、来る者は拒まない「しつこくない人懐っこさ」も誇るに値する美質だと思っている。自分のプロフィールに「北海道出身」と書く時には、毎回少し嬉しい気分になる。
 また、農業に従事する人を他の職業人よりも低く見る考えは断じてない。侮蔑の言葉として「百姓!」が倫理的・社会的に不適切であることは十分分かっているつもりなのだが、筆者の意識の中に「百姓!」という言葉が悪口として埋め込まれている。しかし、説明の付く理由が見当たらない。

 ところで、「三つ子の魂百までも」という諺があるが、筆者の「百姓!」の起源は三つ子以前に遡る。
 一歳半の冬(注;筆者は5月生まれ)、筆者は旭川に居た。母方の曾祖父は、旭川市の開拓に貢献した人物で、同市で大規模に農業を営んでいた。名を善吉さんという。仕事はもう引退していたが、当時、この人物がまだ元気で、ひ孫である筆者を見に来てくれたことがある。
 氷点下10度以下が珍しくない旭川の冬だ。筆者は、分厚いコートの中で母親の背に負われていた。善吉さんは、コートの襟をかき分けて赤ん坊である筆者の顔をのぞき込んだ。すると、筆者は善吉さんに向かって「どんびゃくしょう。どんびゃくしょう」と何度も繰り返したのだという。困ったことに、善吉さんは、間違いなくお百姓さんなのである。
 人格円満な善吉さんなので、それで怒り出したわけではなかったのだが、「ほう、そんなこと言うんか」とずいぶん意外そうだったという。
 困ったのは、筆者の両親で、赤ん坊にそのような言葉を教えた覚えもないし、なぜ息子が繰り返し「どんびゃくしょう」と言っているのか、理由が分からなくて、善吉さんに対して平身低頭して恐縮したという。一歳の赤ん坊だ。状況的には、親が教えて言わせていると解されてもおかしくない。
 今の筆者にその時の記憶はないので、以上は、両親から(何度も)聞いたエピソードだ。
 たぶん、その頃かその少し後には、水原弘の「黒い花びら」の歌詞をそらんじていたというから、筆者は、言葉の覚えは早い子供だった。しかし、なぜ「どんびゃくしょう」という悪い言葉を覚えて、しかもそれを実際のお百姓さんを見分けて使うことができたのかは全く不明である。
 ともかく、筆者にとって「百姓」という言葉は、他の言葉よりも根源的な、印象の深い言葉であるらしい。

 それでは、近時、どんな相手に対して「百姓!」と(心中で)呟いているか。
 最も典型的なのは、無意味な権威を振りかざす人物に対してだろうか。
 たとえば、日本には、外国(この頃は「欧米」だけにとどまらない)の権威に弱い人の一群がいる。「外国のエリートは進んでいるが、日本の大衆は全く遅れている。海外情勢に精通し、彼らと対等に付き合えるこのワタシが、日本の遅れた大衆に知識を授けてやろう」と言わんばかりの物言いをする評論家・コンサルタント・政治家などに出会うと、「この、どんびゃくしょう!」と叫びたい気持ちになる。
 お金の運用の世界だと、欧米人は運用が上手いと真顔で言ったり、「欧米でやっているから」、プライベート・バンクに「特別にいい運用ノウハウ」があると本気で思っていたり、国家ファンドがいいものだと思っているような人物が、私から見ると、かなり深刻な「百姓」である。
 尚、この種の思い込みに、手数料稼ぎなど、自分の商売が絡む人物は、「百姓+悪党」だ。このように百姓と悪党を使い分けたい気分を思うと、私は、「百姓」という言葉を「悪い人」という意味で使っているのではない。
 その他、サラリーマンによくいる群れをなして他人を威圧する人物や、静かなバーで大声でしゃべる人物なども、しばしば「百姓」に分類される。
 しかし、軽蔑していることは確かなのだが、彼らをなぜ他の言葉でなくて「百姓!」と罵りたいのかの理由は相変わらず謎のままだ。
 敢えて、考えると、「田舎者(的)」の反対が「都会的」だとすると、筆者にあって「都会的」を構成する要素は、個人が独立していて、他の個人に対して押しつけがましくない、といったイメージだ。したがって、この逆に、物事に無理解な他人の押しつけがましさに遭遇すると、これに腹を立てて、「百姓!」という言葉が湧いてくるのか。
 それとも、筆者は、自分が田舎者であることに対して、自分でも気付かないくらい深いコンプレックスがあるのだろうか?

 何はともあれ、お百姓さん、ごめんなさい!

(※ 作業員さま、moto金田浩さま、及び、関係者の皆様  「よろしかったら、このエントリーのコメント欄にお引っ越しされませんか」)
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 年始にNHK教育で、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生の授業をTV番組化した番組の再放送を見た。全て見たわけではないが(見てない回が気になるので、その後、DVDを買った)、授業として実に素晴らしいと思った。
 サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」は昨年読んでいた。率直にいって、彼の正義論には賛成できない点があるのだが、授業は実にいい。サンデル先生個人の印象もまた悪くない。付き合ってみると感じの言い方ではないだろうか(もっとも、ああ見えて変な癖がある人物だ、ということなら、それはそれで人間として興味深い!)。
 聴衆はそこそこ以上に優秀な学生なのだろうし、グループ分けして指導者を付けて予習をさせた後で授業に出席させているらしいから、どこの大学、どの先生でも真似できるというものではないだろうが、模範的な授業だと思う。
 サンデル先生に「賛成できない点がある」などと書くと、暇で且つ気の立った人が文句を言ってくるかも知れないので、私見を簡単に述べておく。
 サンデル先生の授業の話の順序はとてもよくできているが、私としては、特に、カントの解釈に違和感がある。
 サンデル先生は、殺人鬼に追われた友達を自宅にかくまった人物が、自宅を訪ねた殺人鬼の「アイツはこの家にいるか?」という問いに対して、かくまった人物はカント式の定言命法に従うと「彼はこの家にいませんよ」という嘘をつけないことをかなり重大な難点だとして指摘しているが、これはいかがなものか。
 カント式の定言命法の倫理で、�嘘は言えない、�人は殺せない、という原則を導くことが出来ることについては、サンデル先生も同意されている。
 そこでだが、そもそも友達をかくまった時点で、問題の人物と友達との間には、実質的に「殺人鬼の追跡からあなたを守る」という約束が成立していると考えるのが妥当ではないか。殺人鬼を誤魔化すことに対して最善を尽くさないのは実質的に嘘をついているのと変わらない。
 嘘の重大性に程度の問題があるかどうかはさておくとして、(仮に)友達に対する実質的な嘘と、殺人鬼に対する嘘とが仮に何れも好ましくないこととして共に嘘一つづつとして相殺できるとすると(後者の嘘の方がより重大だと判断できる根拠がなければ、以下のように考えていいだろう)、残るのは、自分が中途半端な態度を取ったり、まして友人の隠れ場所を教えたりすると、殺人が起こりかねないという状況に対する判断だ。
 カント自身が倫理からの離反について「程度の問題」が存在することを考慮に入れていたのかは、まだ十分カントを読んでいないので、私にはよく分からないが、矛盾した目的に直面した場合の判断原理として「程度の問題」を考えることはごく常識的だ。
 この殺人鬼のケースを、カントの普遍的な倫理がはらむ深刻な難点とすることについては、どうにも賛成しがたい。
 まして、サンデル先生が仰るように、殺人鬼を誤魔化すことの出来る嘘でない事実を伝えるのがいい(道徳の原理に敬意を払ったことになるかららしいが)、という話は、本質から逸れているように思える。この他人を誤魔化そうとする行動は、他人を手段として扱っているし、正解に気付かないことを予期している点で相手をバカにしている。凡そ定言命法の精神に合致するとは思えない。
 思うに、「正義」という言葉はもともと普遍性の文脈において用いられており、(特定のコミュニティーによって)負荷を負った自己を正当化する価値観を正義と呼ぶことは、言葉の誤用なのではないか(ギルバート・ライルの「カテゴリー・ミステイク」みたいな感じ)。
「彼は国籍が違うから、同胞とは扱いを変えても仕方がないでしょう」という発言に対して、これが自然な感情だと思い、現実として発話者の感情を理解する人はいても、これが正義にかなうとは思人は少ないのではないか。普遍的フェアネスの価値観の下に自己を反省し、私的な感情を相対化しつつ行動することこそが、正義の本質ではないだろうか。
 溺れつつある二人の子供のうち、自分の子供から助けるのは、それが正義だからではなくて、ただそうしたいからだと理解するほうがいい。
 ついでに、ロールズについては彼の正義の原理は、コミュニティーや生活の条件が異なる多くの人が概ね普遍的に合意できそうな内容を厳密ではないけれども上手にまとめた、優れた要約ではないかと考える。程度はともかくとして、できれば弱者を助けようというのは、人間がもともと持つ(多少かも知れないが)仲間へ利他性の観点からも、また社会における一種の保険としても、割合同意しやすい原則だと思う。「無知のヴェール」的な状況が現実に存在したかどうかは、どうでもいいことだ。
 もう一つ言いたいのは、個人が特定のコミュニティーに属しているとしても、この人が、このコミュニティーから離脱したかったり、このコミュニティーの価値観を大きく変更したいと思ったときに、正義をどう考えたらいいのか。こうした自由には責任も伴うはずだが、この自由を認めないことが「正義」という言葉にふさわしいとはとても思えない。
 人間の意思が100%本人にとって自由なものかという点については、現実問題として大いに疑問があるが、人間には考え直す自由がないとするなら、「正義」の主要な含意の一つである「責任」が意味を持つことが難しくなる。
 また、功利主義に関しても、現代の功利主義者(経済学者は多かれ少なかれ)なら、異なる人間の効用を単純に足し合わせることが出来るような単純な効用関数で全てを説明せずに、全員の効用をより高める可能性はないのか、その後に、どのような意思決定ルールについて合意できるか、といった手順でモノを考えるのではないだろうか。
 サンデル先生は、功利主義も、カント&ロールズも、批判したい側面をはっきりさせるために、いささか単純化しすぎたのではないだろうか。
 もっとも、教育的にはこれくらい簡単な図式で説明する方がいいのかも知れない。
 あれこれ文句を並べた後に繰り返すのは気が引けるが、一つの授業のサンプルとしては、サンデル先生の授業はあまりに輝かしくて、直視するのが眩しいくらいだ。折に触れて勉強し直すことにしようと思う。
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 新年向きの話ではないが、葬式とお墓について私の考えを述べたい。
 私は、結婚式、葬式などの「式」には出席しないことを基本方針としている。時間が惜しいからということもあるが、パーティーや飲み会は好きだしよく出る方なので、要は「式」の部分が気に入らないのだ。
 たいていは、お祝いなり、香典なりを金一封送って、式は欠席させて貰う。

 結婚式は過去20年くらい出た記憶がない。記憶にある最後は、会社の友人の二回目の結婚披露パーティーだったと思うが、それ以来出席していない。
 私は現在52歳だから、同年代の友人が結婚することは少ないし、まだ子供が結婚する年でもない。そんなこともあって、ここしばらくお祝いも送っていない。
 私自身も結婚式はやっていない。
「結婚する」と北海道にいる父親に言ったところ、彼が東京にやって来て、「親戚への挨拶ということもあるから、結婚式くらいはやれ」と言った。
 私は、「いいや、式はやらない。神社も教会も嫌いだし、だいいち他人をたくさん呼んで、面白くもないパーティーに時間を使わせるのは、社会的罪悪だ。出席者の分も含めて、機会費用を計算するとたいへんな額になる。加えて、あのような下らないセレモニーに何百万円の掛けるということが、カネの使い方として納得しがたい」と言った。
 父は、「カネは俺が出す」と言う。
 しかし、「誰がカネを出すかではなく、結婚式自体がカネに値しないと言っている。あんなものが本当にいいことかどうか、一日頭を冷やして考えてくれ」と言い返した。
 翌日、父がまた現れた。「俺もよく考えた。お前の言うことはよく分かった。ならば、結婚式用にとおもっていたカネだけやるから、好きに使え」と言う。柔軟に意見を修正することのできる点は、我が父ながら、感心だ。数日後、本当に結婚式費用程度のお金が振り込まれていた。当時、ほとんど貯金を持っていなかったから、これは本当に助かった。
 仮に、私が、政治家や俳優、あるいは相撲取りででもあれば、仕事の一部として結婚式をやるだろうが、かつて、或いは今の仕事なら、結婚式はしない方がずっと合理的だと思っている。後輩や、学生にも、結婚式はできればしないほうがいい、と勧めている。

 葬式にも、基本的に出ない。そう決めているのだが、方針を貫ききれない場合もある。昨年、今年と、一回ずつ親戚筋のお葬式に出た。どちらの葬式についても、主催者に不満があるわけではないのだが、出席していて、違和感を覚えた。二つとも、仏教形式の葬式なのだが(宗派は異なる)、端的にいって、私は仏教を信仰していない。それなのに、仏教のセレモニーに従って式に参加している自分が不愉快だ。そして、信仰心なしで葬式を眺めると、奇妙な出で立ちで経を唱え、さらには下手な話の説教までする坊主と、あれこれいちいちカネを取る葬儀屋のサービス業としての姿勢と価格設定に納得が行かない。
 そして、葬式に出ながら考えた。
「これから、自分の結婚式をすることは(たぶん)無いだろう。問題は、葬式であり、墓だ」

 幸い、私の両親は札幌で二人とも健在だ。碁(アマ4段くらい)を打ち、絵を描く85歳の父と、ゴルフ三昧(調子がいいと80台)の76歳の母だ。彼らが元気なうちに方針を決めておきたいし、もちろん、万一自分が先に死んだ場合の問題もある。

 問題の概要は以下の通りだ。

(1) 葬儀。 私は自分の葬儀はして欲しくない。死んでから「偲ぶ会」なんてやって貰うよりも、生きているうちに一緒に酒でも飲む方がずっといい。目下、父は自分の葬儀は簡単にやって貰いたいというくらいに思っている公算が大きいが(改めて聞いてみないと分からないが、近年、軟化してきたようだ)、私は、できれば父の代から葬式抜きの形を確立したい。

(2) お墓。 現在、山崎家の墓は、北海道の某寺にあり、この外に永代供養納骨堂のスペースが「一箱」ある。後者は、寺のセールスに負けて、かつて父が百万円以上出して買ってしまったらしい。何れについても、年間数万円の維持費が掛かる。父は、自分の場合、寺の一般向けの納骨スペースに入れて貰ってもいいと最近言い出しているらしいが、この点も本人の意向は改めて聞いてみないと分からない。母と妹は、自分たちは父と同じスペースに入りたいといっている。私は、子供たちが望むなら同じ場所でもいいが、出来れば散骨して貰うか、あるいは共同で無名の人の骨が収容されているところに入りたい。

(3) 寺。 母から過去の経緯を聞いて判断するに、現在の寺が不愉快である。一軒家(墓)にすむ住人に、もう一つマンション(永大供養ボックス)を売るがごときセールスも不愉快だし、坊主の人格もよろしいとはいえない。しかも、近年商売っ気を強めており、頼みもしないのに彼岸に仏壇を拝みに来て、短時間でカネをまきあげていくようになった。この寺とは、即刻絶縁したい。しかし、先祖の骨を質に取られているし、墓には「原状回復費用」が発生するのかも知れない。もちろん、これまでこの寺と付き合いがあり、多大な出費をしてきた父との話し合いもある。

 私は、自分の死後の処置に関する「遺志」は、古くから割合はっきりしている。高校3年生の時に、母方の祖父の葬式に出て以来、葬式は下らないもので、商売としての坊主は賤しいものだと思っており(純粋に宗教者としての坊主には敬意を持たないでもない)、自分の葬式は絶対にやって欲しくない。
 骨の始末は遺族が考えればいい。敢えて「夢」を述べてみると、フィリピン沖のニホンウナギが産卵するらしい海域にでも散骨してくれると、ウナギを食って、ウナギに食われて、人生が美しく完成するような気がするが、こういう余計な希望は言わないのが、残されるも家族への思いやりだろう。
 自分の家の代々の納骨スペースに納まるか、どこの馬の骨か分からぬ無名の人々と一緒に共同の納骨スペースに納まるかに関しては、ほぼどちらでも良いが、敢えて選べば後者だ。死後に魂があって(そんなもの信じていないが)骨の近くにいるとした場合、家族とはいえ同じ人と四六時中顔を突き合わせているよりも、賑やかな居酒屋のように、いろいろな人の中にいる方がいい。子供たちも、同じように、開放的に考えてくれるといい。
 なお、百歩以上譲って、死後に魂があるとした場合、自分の墓だの骨だのにこだわるようなツマラナイ魂なら、生きているうちから心配してやる価値もない。

 結局、残された問題が三つある。

(A)最も簡素で坊主も神父も関与しないサッパリした死体の始末にはどのような方法があるのか。費用は幾らか。誰に連絡したらいいのか。

(B)寺にある墓を「解約」する手続きと費用。加えて、その後の骨の始末場所にはどのような選択肢があるか。

(C)関係者の説得と合意作り。

 確か、昨年の週刊ダイヤモンドでこの種の特集を組んだ号があったと思ったが、あいにく先日の引っ越しの際に捨ててしまった。これから、自分で調べてみようと思っている。
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 カタカナ名前の不動産屋が「我々が大家になりました」と現れたのは10月だった。11月にドタバタと自宅を引っ越した。
 経緯の詳細は「週刊ダイヤモンド」や獨協大学の授業でも取り上げたが、この不動産屋は、中古マンションを買って、リフォームして再版するビジネスを手がける業者で、最初は「住んでいる人が買うと得だから、買わないか」と言ってきた。しかし、買うには価格が高過ぎることを指摘して断ると、「では、引っ越しに関わる費用を全額こちらが持つので、近隣の同等物件に引っ越しませんか」と持ちかけてきた。そこで、この話に乗ったのだった。
 考えてみると、ここ4年ほど、転職も引っ越しもしていなかった。満足の行く候補物件が他の客にきまらないうちに引っ越しを決めたいと思ったので、せわしい引っ越しになったが、今や何とか落ち着いた。
 ブログを更新したい、と思う余裕が生じた。
 さて、この引っ越しに際して、自分の部屋が少し狭くなるので、自分が使う本棚を三つから一つに減らすことにした。そのため、本棚一つの三分の一程度の本をスキャンしてPDF化し、三分の二の本は捨てた。本を捨てるに際して、はじめはもったいないと思い、相当数を自分の会社に持って行こうかと思ったが、そもそも手元にあって読まないものを会社に置くのは無駄なのだと思い直して捨てることにした。
 過去、古本屋に本を売ったこともあるし、「捨てる本がまとまったら、ブックオフを呼んで、持って行って貰うのが、一番手間が掛からなくていい」というアドバイスを同僚から貰ってもいたが、本を換金するのは、どうも気が進まなかった。そして、本を自分の手で本を捨ててみると、なぜか、少しいい気分になった。
 世間では、「断捨離」がミニブームだ。これは、かつて「捨てる技術」が流行ったことに続く、「第二次“捨てる”ブーム」であるらしい。
 なので、せっかくの機会だから、断捨離本を二冊ほど読んでみた。体言止め連発の、浮かれた新聞記者のような文体は(好きな人は、好きなのだろうが)、私にとっては苦痛だったが、書かれている内容は首肯できるものだった。真に使うモノを有効且つ大切に使うためには、使わないモノが占めている場所を空ける方がいい。
 「モノを買うことは、自己表現の一形態でもあり、社会にとってもいいことだ」というかつての消費推奨的な思想は現在力を失いつつある。「デフレ消費」、「嫌消費」などという言葉もあり、「余計なモノを持たない方が、格好がいい」という気分を持つ消費者(というよりも生活者)が明らかに増えている。そして、これは悪いことではない。「マーケティング」とかいう小賢しい技術によって、我々は、これまで随分余計なものを買っていたのだ。
 もっとも、他人よりも旺盛な私の物欲がすっかりしぼむとは思えないが、今回の引っ越しを機に、自分の周囲のモノを減らすことを継続的に試みようと思っている。
 理想と現実が一致する見込みはほぼないが、私があこがれる「住まい」は、最小限の必要で好きなモノだけを置いたホテルのスイートルームのような部屋での暮らしだ(モノさえ減らせば、ファミリータイプのマンションはホテルのスイートに匹敵する空間があるのだが・・・)。大きな家や、庭などには、全く興味がない。最も好都合で面白いと思える場所に、スッキリと住むのが夢だ(たぶん、生涯達成できない夢だろうが)。
 さて、モノの他に、現在もう一つ減らそうとしているのが「体重」だ。
 私の体重は大学卒業以来、2年で1キロずつ一次関数的に単調増加してきたのだが、ここ一、二年、その傾きが急になりつつあって、自分で自分のことを少々重苦しいと思い始めていた。
 そう思いながら、本棚を整理していたら、十年以上前に友人が使った「デンマーク式ダイエット」と題するダイエットのレシピのコピーが出てきた。
 油と炭水化物を減らしてカロリーを落とすメニューが基本のようだが、これを参考にしながら自分流にアレンジ(アルコール・ゼロなんて無理だし・・・)して、ここ3ヶ月ほど、月に2キロ程度のペースを目処に体重を落としている。能書きによれば、パスタのどか食いや、夜中のラーメンのようなものが大変良くないらしい。
 現在、ピークと比較すると7キロ程度体重が落ちた。
 なにぶんもともとの体重の分母が大きいので、見かけ上、大きな変化はまだないが、いくらか体が軽くなったような気がする。あと5、6キロ落としたいと思っている。ただし、12月は忘年会シーズンなので「増えなければいい」と決めて小休止している。
 10歳から20歳くらい上の人々の姿を見ると、加齢して痩せると、急に老けて且つ不景気な感じがする場合が多い。老境は、やや太りながら迎える方が「見かけ上は」いいように思う。
 しかし、もともと太っているのでは、それ以上太る余裕が、健康上も、容姿上もない、ということになりかねないので、今のうちに一度体重を落として老境をむかえることにしようという「長期戦略」を持つことにした。
 戦略が実行できるか否かは、もちろん、今後の自己コントロールに掛かっているが、順調であれば、来年の3月くらいに目標を達成する予定だ。
 モノ減らしと体重減らしに加える課題は、理想的には、夜型の生活を改造することと、ちょうど良い分量に仕事を調整することだろう。
 但し、これらはおそらく簡単ではない。
 まあ、過剰なものがあったり、不足なものがあったりするのが人生なのだろうから、無理はするまい、と思っている(あきらめるわけではないのだが)。
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 「ほったらかし投資術」(水瀬ケンイチ、山崎元著。朝日新書)が12月10日に発売された。当ブログでは、自著の宣伝はやったりやらなかったりなのだが、共著者の水瀬ケンイチさんのブログの販売への貢献が非常に大きいので、私としても、何も告知しないのは肩身が狭い。
 内容は、個人投資家向けのインデックス投資ガイドブックで、水瀬さんの投資体験記、私の理論編、インデックスファンドの商品ガイド、インデックスファンドのファンドマネジャーへのインタビューなど盛りだくさんなものになっていると思う。
 水瀬さんは既に有名な方だが、人気の投資ブログ「梅屋敷商店街のランダムウォーカー」の管理者で、ご自身がインデックス投資家でもある(本職は堅い会社の会社員で愛妻家だ)。
 水瀬さんとは、過去3、4度お会いしたことがあるだけだったが、ブログを読んで、(1)情報提供が正確で且つ対象に対する敬意がにじみ出ていること、(2)文章が上品であること、などに好感を持ち、是非共著でお願いしたいと私から頼んだ。印税の配分は50%ずつ折半でお願いした(水瀬さんの方が文章量が多いが、快諾してくれた)。おかげで、幅広い読者にとって、読みやすい本になったのではないだろうか。
 ありがたいことに、12月14日に5千部ほどの増刷が決まった。増刷が決まると、著者としては責任を果たしたような気分になって(出版社に損をさせなかったという程度の意味ですが)、ほっとする。
 唯一の心残りは、こうして本が出来上がってみると、帯にある「賢者の運用術」の方がいいタイトルなのではないかという気がすることだ。毎度のことながら、本のタイトルは難しい。
 以下に「前書き」を掲げる。当ブログは、アフィリエイトに体操していないので、本書をネットで購入されたい方は、できたら、水瀬さんのブログ、「梅屋敷商店街のランダムウォーカー」(http://randomwalker.blog19.fc2.com/)経由でご購入下さい。

★「ほったらかし投資術」の前書き

 この本の目的は、手間いらずで、同時に合理的なお金の運用方法を「運用が仕事でも趣味でもない普通の人」に広く伝えることだ。
 これは、私(山崎)の前著『超簡単お金の運用術』(朝日新書)と同じだが、結論を「強く」伝えることに重きを置いた前著に対して、本書は「やさしく、丁寧に、惜しみなく」伝えることを目指した。
 お伝えしたい運用方法はインデックスファンドへの投資であり、これは前著も同じなのだが、読者がより納得・安心してインデックス投資を行うことができるように、インデックス投資をテーマとするブログを運営されている水瀬ケンイチさんを共著者にお迎えした。水瀬さんのブログは運用・証券業界も注目する人気ブログだが、丁寧で正確な情報提供と、ソフトで率直な語り口が特色だ。加えて、水瀬さんご自身がインデックス投資を実践されているので、理論や方法だけでなく、インデックス投資家の「気持ち」をお伝えすることができる。本書では、内外の株式に、インデックスファンドを組み合わせて投資することをお勧めしているが、著者も組み合わせの効果を目指すことにした。
 この作戦は成功したと思う。本音を言うと、水瀬さんが共著を引き受けてくれた時点で、私は「しめた!」と思ったのだった。たとえば、インデックス投資の実際をガイドしている第三章(水瀬さん執筆)を見て欲しい。これだけ具体的でかつすっきりと分かるインデックス投資の手引きは、少なくとも書籍としてはこれまでどこにもないはずだ。
 良き共著者を得たことで、私は、安心してインデックス投資に関する持論を展開することができた。詳しくは、第二章で述べたが、「市場が効率的だから、インデックス運用がいい」のではない。「市場が効率的であってもなくても、インデックス運用は有利」なのだ。
 加えて、インデックス運用の最前線をお伝えするために、現役のインデックスファンド運用者である相川雅弘さんにインタビューでご登場頂いた。また、具体的な商品も実名をあげて評価しつつご紹介しているので、読者は、どのファンドを買ったらいいのか迷わずにすむはずだ。
 結果として、新書サイズながら、盛りだくさんな内容の本になった。もちろん、価格は新書価格だ。インデックスファンドは、幅広い分散投資をローコストに(安い手数料で)提供するところに本領があるが、本書も同じ路線を目指している。

   二〇一〇年一一月吉日
     山崎 元

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<読者へ>

 早速で恐縮ですが、以下、訂正です。増刷の機会に可能な限り訂正する予定です。

(1) 68ページの2行目「1口9万円弱」となっていますが、1306の最低購入代金は10株の9千円前後です。(最小単位は十分小さいのですが、ETFであるため、少額投資の場合売買手数料の比率が高くなるので、やはり、積み立て投資には向かないと思います)

(2)p.93の相関係数の図に関するp.95の説明文で外国債券の説明文の記述の数字が間違っています。正しくは、外国債券と国内株式の相関係数が0.3、外国株式と先進国株式、新興国株式の相関係数が0.4です。

(3)152ページ、東証の乖離率ページのURLは、http://www.tse.or.jp/rules/etf/etfinfo.html に変更されています。大証の乖離率ページのURLは、http://www.ose.or.jp/market/trading_data/etf に変更されています。

(4)72ページ、(誤)「鴨が漁師の」→(正)「鴨が猟師の」、です。

 以上の誤りに関するご指摘は、何れも、読者から、ツイッターないしはブログに対する連絡で頂いたものです。ご指摘に感謝します。(12月14日)


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 たまには経済学っぽい話もしてみよう。

 ダイヤモンド・オンラインに「低生産・高コスト構造を自覚せよ」と題する斉藤誠一橋大学大学院経済学研究科教授へのインタビューが載っている(http://diamond.jp/articles/-/9740)。斎藤氏は「実質国内総生産(GDP)も物価水準も為替レートも、主な経済指標は『長期均衡水準』にある、と思う。長期均衡水準とは、さまざまな歪みが調整された後の実力値のことだ。日本経済は今、実力どおりの水準に落ち着いている」と述べている。
 これに対して、飯田泰之氏がtwitterで「日本経済は長期均衡水準らしい……現状を非自発失業がない状態だと考えられる人はよほどにおめでたいと思う→ 【齊藤 誠 低生産性・高コスト構造を自覚せよ】 」と批判した。
 これを受けて、斎藤氏が、〃从儚惻圓匹Δ靴覆里世ら公共の場で「おめでたい」などと乱暴に批判せずに直接話をして欲しかった、◆嵌鷦発的失業」という用語は厳密な議論に耐えるものではないし、先端のマクロ経済学を踏まえた上で議論をしてほしい(要約は山崎)、という趣旨の反論をして、対して、飯田氏がブログで再び反論した。この間の事情は、飯田氏のブログの記事を参照していただきたい(http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20101021)。

 お二人の間には、批判や論争の「作法」について隔たりがあるようだ。公共の場での発言に対して公共の場で批判されたことに対して文句を言う斎藤氏がひ弱なのか、飯田氏の批判が同業者として無礼なのかについては、私は、同業者ではないのでコメントできない。お二人の間の問題だし、飯田氏は若いがよく気のつく礼儀正しい青年なので、うまくやるだろうと思う。
 気になるのは、どうしてお二人の議論がすれちがっているかだ。

 第三者から見て、日本の現状は「長期均衡水準」であるか、「非自発的失業」は存在するか、の2点が論点だ。
 これは、「長期均衡」と「非自発的失業」の二つの単語の定義をはっきりさせないと決着の着かない問題だろう。
 長期均衡は明らかに前提とするモデルに依存する。どのような諸力が働いて出来たバランスを「均衡」と呼ぶのか、それが「長期」の均衡と呼べるための条件は何なのかをはっきりさせないと何ともいえない。
 現状を「不均衡」と呼ぶとすれば、それは何らかのモデルが示すあるべき状態から現状が乖離しているということだし、しかし、そもそも現状を上手く説明できないモデルは経済を決定づける要素を正しく取り込んでいないということだから、あるモデルから見て現状が「不均衡」と呼ばれるとすると、悪いのは現状ではなくモデルの方だと解釈することもできる。
 「非自発的失業」という言葉も扱いが難しい。健康で働く意思を持った人が、奴隷でも就職を制度的に禁じられているのでもなければ、現在その人にとって存在する条件で働かないというのは、概ね「自発的」選択によって働かないのだと考えることが出来る。他方、自分と同じような労働者が働く機会を持っているのに自分にはその機会がない状態とか、正しい政策が実行されていれば働けるはずなのに摩擦的失業以上の失業者がいる状態については、これを「非自発的失業」と呼びたい「実感」が存在する。

 率直にいうと、私は、「不均衡」と「非自発的」が、学生時代からよく分からなかった。今でもスッキリとは分からない。

 「均衡」あるいは「長期均衡」は、結局のところ、モデルの作り方、経済の説明の仕方のスタイルの問題だろう。(A)現状≒モデル(但し、諸々の要素全てを盛り込んだもの)+取るに足らない残差、と説明するか、(B)現状=あるべきモデルの均衡状態+均衡からの解消しづらい乖離(→不均衡)と説明するかの、趣味の問題だろう。
 論理の問題としては、昔も今も、(A)なら分かるが(B)には釈然としない。
 しかし、現実的に(A)を十分に満足させるモデルを作るのは難しそうだから、納得的な論理的前提から組み立てられたモデルを規範として、これと乖離した状態として現実の経済を説明したいと思う(B)の路線は、それなりに現実的であり、その方向への誘惑も分かる気がする。但し、(B)の場合に、不均衡に意味があるとすれば、あるモデルの均衡から、経済が何が要因でどのように乖離しているのかを説明するサブ・モデルがないと意味がないように思える(難しそうだけれども、それがキモだろうし)。

 「非自発的失業」という言葉に関しては、これは現在のマクロ経済研究者の議論に耐える言葉ではないという斎藤氏の意見に一票入れたい気持ちになる。
 摩擦的失業と非自発的失業、あるいは自発的な失業と非自発的失業は、両者を客観的に区別することが困難だ。であるなら、経済について議論する場合に、「非自発的失業」という言葉を使わない方がいいのではないか。就業していない人を表す単語として、「非就業者(率)」とか「求職者(率)」を使えばそれで十分であり、「非自発的失業」という単語を使わない方が議論に誤解やすれ違いが無くていいのではないか、と思える。

 しかし、他方で、「非自発的」と呼びたくなる失業は「多くの人に共通の実感」として存在するようだ。この実感に対して、何らかの単語を割り当てることがコミュニケーション上好都合なのではないかという気もする。うまく言えないけれども、「それ」はある、と言いたい気分だ。

 「非自発的失業」という言葉はどのように使用されているか。または、どのように使われるのが適当であるように思われるか。なるべく(完全になんてできっこないから、「なるべく」)先入観を捨てて考えてみると、いずれもマクロのレベルで、(顱防垳平な失業か、(髻棒策が正しければ存在しない失業が存在しているときに、どちらか、又は両方に対して、「非自発的失業」という言葉が充てられているように思われる。
 (顱暴業者と較べて同等あるいはそれ以上の能力があるのに雇われていない求職者が相当数いるとすれば、本来雇われているべき求職者なのに就業できていないのだから、自発的でなく無業でかつアンフェアに扱われている失業者として「非自発的失業者」と呼んでいいだろうか。
 しかし、能力の判断は主観的なものだし、普通並以上に優れている労働者を企業が既存の労働者並の賃金で雇えていないのだとすれば、それは、労働市場に於けるコーディネーションの失敗であり、概念的には「摩擦的失業」に近いものだろう。
 マクロ経済の文脈では、(髻棒気靴ぅ泪ロ政策が採られていれば存在しないはずの失業が問題であり、この失業には何らかの名前を付ける実用上の価値があるのではないか。

 たとえば、斎藤氏はダイヤモンド・オンラインのインタビューの中で−1.1%のデフレに対して「確かにデフレは続いているが、年率1.1%程度の軽微なものだ」、「日本経済に惨禍をもたらすようなデフレは、データにいっさい認められない」と述べているが、この水準のデフレも実質金利水準を押し上げているし、これが長く続いたことが、投資にも消費にもネガティブな要因として働いているのではないか。
 浜田宏一先生の言葉を借りると「そもそも、不換紙幣(を中心とするシステム)は人工的に作り出されたものなのだから、その価値を調節できないというのはおかしい」。根強いデフレ期待と「ブタ積み」の問題を超えて物価をインフレに調整するのは、「簡単ではないが、まだまだ手段はあるし、究極的に不可能ではない」ということではないか。
 たとえば、現状で−1.1%ではなくて、+2%の物価上昇率があるのだとすると、現在の失業率はもっと違ったものになるのではないか、という可能性は大いに考えられるし、そうした思考を巡らせることも必要だ。
 この点に関しては、現状の政策に大きな問題があるのではないか、という認識を前提として、現状を「長期の均衡」として諦めることを拒否する、飯田氏の現実感覚を支持したい。

 業界・企業といった単位で見ると、日本の産業の現状は、確かに、決して立派なものには見えない。この点は、斎藤氏の意見に同意する。しかし、立派ではないなりにも、デフレでなくマイルドなインフレであれば、経済の状況はもう少しましで、企業も現状を改善するための余裕を持つことも出来るだろうし、デフレでなくなれば、円安にもなりやすかろう。

 結局のところ、問題なのは、政策が改善されれば就業できない求職者が減るのか否かであり、その場合に改善できると考えられる雇用の数をどう想定するかということだろう。そう考えると、この意味での失業者は「非自発的失業者」と呼ぶよりは、たとえば「政策的失業者」とでも呼ぶ方が、誤解が少ないのではないか。
 
 勉強熱心ではなかった経済学部生だった私は、「非自発的失業」という言葉はケインズが発明したと思っているのだが(初出はどの論文・著作なのだろうか?)、だとすれば、ケインズは、不正確なのに感情には訴える、後に迷惑な言葉を発明したと思わざるを得ない。もっとも、その曖昧さが、後の研究の呼び水になったのだとすれば、悪いとばかりは言えないのが、ケインズの奥の深いところだ。
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 主に新聞とテレビを念頭に置いて言うが、大手メディアには「事件報道」と「政治談義」の二つ以外に文脈と文体がない。日頃から感じていることなのだが、原稿を書いているうちにまた思い出したので、メモ代わりに書いておく。

 振興銀行の件でいうと、木村剛氏の刑事事件について報道が集中し、たとえば木村氏がどれくらい悪くて酷かったのか、という報じ方になる。預金カットを含む処理が決まると、テレビであれば、NHKの午後7時のニュースでも、「被害者」である大口預金者を捜してきて、この人が「どう感じているか」を伝えようとする。
 木村氏はまるで押尾学被告のように報じられるし、預金者は死亡した女性の友人のような感想を求められる。
 ちなみに、民放の情報バラエティなら、コメンテーターはプレゼンを聞くかVTRを見るかした後に、「まさか銀行が潰れるとは、ふつうの人は思いませんよね。ヒドイですね」等々何らかの「感想」を言えばそれでいい。事件の内容は与えられるもので、視聴者は感想を持てばよく、テレビはそのための伝達とムード作りをするサービス業だ。
 感情を込めて感想を表現するコメンテーターは、お茶の間の受けがいい(らしい)し、番組を作る側も反応が想定範囲で使いやすい(だろう)。「振興銀行の問題は、難しくて私には分からないので、コメントできません」と言う方が適切なコメンテーターがたくさんいるはずだが、そうはしない。何か「感想」を言って場をつなぐ(注1)。番組の文脈を一人で壊すわけにはいかない。

 同じく振興銀行の件では、同行の認可に関わった竹中平蔵氏の責任とか、小泉・竹中路線の是非、といった政治的な文脈での報道もある。
 また、ある番組で、9月15日に久しぶりに行われた日本の為替介入について「その前までは、民主党代表選で政治が不在の状況だったのです」と一番最初にコメントした解説者がいたのには、ちょっと驚いた。いくら何でも、それが一番重要なポイントではあるまい。
 何がテーマでも、それを政治的な文脈に置き換えるときには、多くのディテールが失われる。菅か小沢かというのは、少なくとも為替レートを語る上では最重要の視点ではない。
 また、結論として、政府が何をしなければならないかを持ってくる議論が多い。お上に不満を訴え、これこれを願う、という筋立ては、納まりが良いのだろう。
 しかし、政府の雇用対策も重要だが、どのみち対策は遅いだろうし効果が小さいだろう。それを待っているわけにも行かない現実がある。その場合に、失業者はどうしたらいいのか、ということの方を知りたい読者・視聴者も多いのではないか。政府はあてにならないし、あてにすると却って悪いことをしかねないのだとすれば、ダメな政府を前提として個人や会社が何をするかの議論がもっとあっていい。
 新聞社では政治に関係の深い人が偉くなる場合が多いせいか、あるいは、誰でも考えやすい文脈だからか、政治(家)の意図で原因を推測して、政府が何をすべきだ、という結論の文脈で記事が書かれることが多い。
 政治になど解決を期待していない問題や、今の政治家には無理な問題の場合にこれをやられると、見ていて(読んでいても)ひどくくたびれる。解決策の実現性もないから、問題への関心はかえって薄れてしまう(注2)。

 経済の問題を上記の二つの文脈だけで処理しようとすると、真に面白い部分が欠落したり、報道が奇妙に変更したりしやすくなる。
 振興銀行の問題なら、最も興味深く、且つ将来に向けて考える価値のあるテーマは、振興銀行のビジネス・モデルが、なぜ上手く行かなかったのかという点だろう。
 この場合、いい・悪いではなく、物事がどんな仕組みになっていたのかが大事だ。
 例えば、振興銀行は預金保険の信用力を利用して1000万円までの預金を約6000億円も集めることが出来た。これは、預金保険制度の性質(はっきり言って弱点)を巧妙に利用した、ビジネスとしては悪くない発想法だった。
 定期預金オンリーの預金受け入れには、大きなコスト削減効果もあった。しかし、決済口座を持たないことで取引先企業の状況把握が通常の銀行より劣るといった弱点もあった。
 そして、当初の看板であった中小企業向けのミドルリスクマネーの供給が融資残高の上でも捗らなかったのは、結局、中小企業向けの金融市場で振興銀行が競争力(審査の情報でも、融資先の開拓でも)を持っていなかったからだろう。
 こうした事が分かれば、もともとのビジネス・プランに問題があったことが分かる。
 また、中小企業融資が思ったように伸びない状況で振興銀行が打った手は、ノンバンク債権の買い取りへの傾斜だが、これが適切な手だったのかどうかということも興味深い(05年5月の取締役会で方針転換が決まった)。
 SFCGのような手強い相手と取引して儲けようというのは全く甘かったと見ることも出来るし、投資ファンドのような不良債権の買い取りだから、景気によっては儲かったかも知れず、崖っぷちの賭としては幾らか可能性のある妥当な戦略だったと見る人もいるだろう。ビジネスマンとしては、自分ならどうするかを考える価値もありそうだ。
 あるいは、リーマンショックとの関係はどうだったのか。振興銀行は、設立の趣意書の中で、中小企業融資のためには「不良債権を持たない新しい銀行」が適していると述べているのだが、潰れたのは、不良債権を持つ既存の銀行ではなくて、振興銀行の方だった。最善を尽くしたが、不況が原因で潰れたという整理は違うだろう。一方、好景気が数年続けば、何とかなった可能性はある。ダメなビジネスが必ず潰れるとも限らない。
 識者・経験者もいたはずの取締役会がなぜ機能しなかったのかということも、木村氏のワンマン経営で木村氏が悪かったというところで思考停止せずに、役員のインセンティブまで踏み込むと、「作家である現社長や現職の国会議員を含む責任免除契約を結んだ社外取締役が、人事権、報酬決定権、1億円以上の融資実行にかかる決定権限をもつという『いびつ』な組織」(「週刊 金融財政事情」9月20日号、p14、「新銀行設立には大義があった」と題する設立メンバーの寄稿記事より)といった事実が分かる。なるほど、責任免除契約などという、いい加減なものがあったのか。これでは、適切なガバナンスなど働きようがない。
 或いは、視点を変えて、木村氏は創業時になぜあのようなメンバーと組んだのか(後に直ぐに仲間割れした)、とか、なぜあそこまで焦ったのか、とか、彼個人の財産保全についていつから何をしているか、といったことも興味深い。これらが分かると、別のことももっとよく分かるようになるはずだ。
 振興銀行のケースには、まだまだ興味深いテーマがあるが、「木村氏が悪い」と決めつけるにしても、あるいは「検察の無理筋捜査だ」と考えようとするにしても、立場を先決めすると、事実を見落としがちになるし、物事の仕組みが分からない。
 敢えていえば、善悪を棚上げして、一つのケースを巡るもろもろの仕組みの解明を楽しむような視点が、経済報道には必要だ。「善悪」や「誰かの影響」、さらには「政府はどうすべきだ」という安易な結論を、いわば括弧に入れて、全体を多角的に眺め回すことが重要だろう。

 経済以外にも大手メディアの二つの文脈だけでは語ることができない問題がたくさんあるだろう。


(注1)他人の事ばかりも言えない。私も事実関係のよく分からない事件について、「事実はこれから分かることでしょうが」とか「報道の通りだとすれば」とか前置きしてではあっても、その時点の報道を前提に「感想」を言うことがある。
 番組は概ね警察・検察が与えた情報に沿って作られるから、警察・検察が間違えた場合(それはあり得る)、私のコメントが、間違いの側に加担した印象操作への協力になる可能性は十分ある。
 たとえば厚労省の村木局長のようなケースで、報道の初期にテレビ番組でコメントを求められたとすると、事実について断定せずに、官僚批判の一般論でも言えば無難だが、印象という点については、「村木氏が悪い」という印象作りにすっかり協力する結果になっただろう。

(注2)ここでも反省しておこう。私も、凡そ実現しないだろうと思いながらも、政策がこうあるべきだという文脈で原稿を書くことがよくある。何といっても、それが楽だからだ。経済の話では、「政府」を暗黙の主語にするのが一番ありふれた文脈であり、内容的にも、たいていの話題について参照できる賛成論・反対論が多々ある。
 失業でも為替レートでも、時には当事者の立場に立って考え(当事者の立場で「ただ感じる」のではなく「考える」が大事だが)、時には敢えて皮肉屋の傍観者の立場に立ち、時には理屈だけで考えて、といった具合に、「政府がどうだから何がが起こっていて・・・、政府はこうするべきだ!」という文脈を離れて語る方が、物事がよく分かることがあるはずだ。ただ、既存の文脈・文体に慣れきった読者が「不真面目だ」と怒るリスクはある。
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