worldNote

世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。

セニヨボス史学とランケ史学

2014年02月10日 | 歴史・伝統
日本は実証史学が当たり前であるようだが、韓国は民族史学を標榜している。そんな韓国史学の源流は申采浩らしい。申采浩の歴史学について資料リンク。

申采浩WEBPAGE
彼の「朝鮮上古史」緒論は構成において梁啓超の「歴史研究法」の強い影響を受け、また梁啓超を通じてフランスのセニヨボスの歴史学を継承しており、この点で日本の歴史学がリース以来ドイツのランケ史学をもっぱら継承したのとは大きな違いがある。
申采浩の歴史学について基本文献は下記のようだ。

s3731127306の資料室:資料紹介:梶村秀樹「近代朝鮮史学史論ノート」
「申采浩の歴史学 近代朝鮮史学史論ノート」より引用。この論文は雑誌「思想」537号(1969年3月)に掲載された後、「梶村秀樹著作集第2巻:朝鮮史の方法」に収録された。(中略)

朝鮮の歴史は国風思想対漢学思想、独立思想対事大思想、進取思想対保守思想の闘争過程である。前者は三国時代には新羅花郎に代表されるように健全・旺盛であり、仏教徒もこの国風派と連合ないし合流していた。しかし三国中葉に入った儒教をかかげる事大派は高麗光宗朝以後しだいに王宮に勢力を占め、割地売国の挙・懦弱の風をひろめ、尹瓘北伐の功を九城放棄によって無にするほどの勢であった。そのような状況を一転させようと平壌に拠点をおいて郎仏両家連合が、金富軾に指導さる宮廷儒家勢力に一大政治決戦を挑んだのが西京戦役=妙清の乱である。しかし、挙兵に当って指導者妙清の戦術があまりに軽率・唐突であったため力量が出しきれずに敗北したばかりか、かえって郎仏派の尹彦頤らは戦わずして窮地に陥る破目になった。勝利した金富軾は、宮廷内の国風勢力を根滅し、以後千年の儒家独裁・事大卑小精神の基礎を完成した。同時に金富軾は過去の国風派の痕跡をいん滅するために仙史古記の類をやき、中国史料を中軸に儒家のイデオロギー的偏見にみちた『三国史記』を編纂して、唯一の史書として後世に残した。李朝の史家は金富軾の設定した歴史観の枠組を基本的にこえる意図をもたず、また断片的にいん滅され残った部分を通じて真実の「民族史」を復元することもできなかった。したがって金富軾の『三国史記』編纂こそ、最も糾弾さるべき反民族行為であり、
『三国史記』編纂の背景を初めて知った。セニョボスについては下記。

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS:セニョボスの別の顔
セニョボスによれば、歴史教育の目的とは、生徒に社会を教えること、社会に生きる人間の出来事を教えることであると言います。(中略)

セニョボスによれば、歴史教育の目的とは、生徒に社会を教えること、社会に生きる人間の出来事を教えることであると言います。(中略)

生徒は、物語られたことを吟味もせずに受け入れる傾向と闘争する。迷信から抜け出るし、印刷物崇拝も無い。歴史的教養の無い文人を乗り越えられる。方法的懐疑の基本たる疑う資質を獲得できる。
意外でもないかもしれないが、かなり客観主義志向であり、批判精神を養う事が重視されている。とても現代の韓国では通用しそうもない。ランケについては下記。

ランケの歴史学
<過去のそれぞれの時代を、あるがままに知る>との思想は、そのまま<事実はどうであったか>の綿密な検証、すなわち実証性の重視へとつながることになる。これが近代歴史学のそもそもの始まりである。
人気ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。