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世界の覚書

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朝鮮の恨とは何か

2007年02月12日 | 歴史・伝統
「恨」について、↓最も合点がいったので紹介。

月見櫓:「恨」について
「恨」、よく語られているわりによくわからないものです。
(中略)
朝鮮人は、「自分の望みは常に十全に満たされるべき」と考えています。その十全に満たされるべき望みが実現されなかった時、「恨」が発生するようです。
実際問題として、望みが常に十全に満たされることなどあり得ません。むしろ叶わないのが普通で当然です。しかしそれを「当然」と受け入れらず、否定的に抱え込むと、それが「恨」となります。
(中略)
「自分の望みは常に十全に満たされるべき」と考えるということは、このように、ひとつの望みが叶えられても、すぐにより一段階上の願望が発生し、それが叶えられればまたひとつ上の願望が生じるということの繰り返しとなります。
果てしない願望が常に果てしなく叶え続けられるなどということは、絶対にあり得ません。つまり、そう願う者の望みも結局永遠に叶えられません。こうして満たされることのない願望が「恨」の発生源になります。
(中略)
要するに「恨」とは、「果てしなく生じる願望に対する果てしない追求に応じ切れない現実世界に対する不満から生じる負の感情」と考えれば、だいたい間違っていないのではないかと思います。
(Wikipediaに頼って悪いが)「恨」はもともと仏教の煩悩のひとつ(「恨を心に持つ人は,これを押さえつけることができない。 このような人は平常心を持つことができず、常に煩悶たる生活を送る」)。

少なくとも「植民地時代の記憶」と結びつけるのは、あんまりであるが、日本では定説かのように辞書にも載っているらしい(教えて!goo 韓国の恨について)。広辞苑第4版には
ハン【han・恨】
(朝鮮語) 韓国民衆の被抑圧の歴史が培った苦難・孤立・絶望の集合的感情。同時に、課せられた不当な仕打ち、不正義への奥深い正当な怒りの感情。
「正当な怒り」とは、ずいぶん美化されている。被抑圧の歴史といえば、大半は中国になるが、それはどうでもいい。不当な仕打ちなら、反発するのは当然だが、朝鮮・韓国の恨はそういう話ではないらしい。つまり、広辞苑の説明は肝心のことを説明していない。

『アジア神学講義』(創文社、2004)にこうある(孫引恐縮
「恨は苦痛の底知れぬ経験である。それには、行動的と非行動的の二面がある。行動的な恨は、攻撃的な情動に近いのに対して、非行動的な恨は黙従する精神に近い。そのうち、非行動的な恨の方が人の経験の中で一般的である」(p.15)。
パクは、恨をいろいろと定義しようとしています。例えば、「不正な身心的抑圧や、社会的、政治的、経済的、文化的圧迫による心の致命的な傷」(p.10)とされています。第1章では、「恨の定義」をいくつか挙げていますが、実際にはそこに挙げられているのは、定義というよりは、その性格付けのようなものです。
・挫折した希望
・苦痛の崩壊的な感情
・統制を失った感情の放出
・うらみプラス辛さ
・傷ついた心
これでも本質は説明されていない気がする。たとえば「諦観」なら、アジア的ともいうが、世界中どこにでもある気がする。むしろ「統制を失った感情の放出」こそ本質だと言われた方が納得できる。

そこで思い出すのが、朝鮮人の暴食癖。朝鮮人は食える時にはたらふく食うことを、ほとんど本能として行うようだ。

シャルル・ダレ『朝鮮事情』(孫引恐縮
「朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持ちも、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 朝鮮人は、常に食べる準備をしている。機会があれば手あたり次第に食うが、それで十分だとは決して言わない。
tsujimoto blog: 朝鮮人の暴食

もちろん、食べられない期間は腹をすかして生きるしかない。食えないか、大食いするかのどちらかなのだ。恨のひとつの特徴は、どうも建設的、計画的、理性的でないことだろうか。たとえば、抑圧的状況があるとして、改革や変革するなり、建設する方向があるはずだ。そういうエートスが皆無とは思えないが、恨は感情であり、もっぱら情動の領域に属するのだろうか。

「恨」は美化されすぎのようだ。本来は煩悩のはずだが、実際は病理現象だ。もっと本質を言えば、欠乏感(WANT)や羨望感(ENVY)に満ちた、生き様とでも言うか... 満たされることはなく、常に人のものを欲しがる。

ここで思い出されるのが、渦巻論。『朝鮮の政治社会』(グレゴリー・ヘンダーソン 1968)だ。欠乏感や羨望感は、手段を問わない上昇志向の渦巻き(VORTEX)を生みだす。やり方が汚いとか綺麗とか、それは重視されない。上昇の渦巻きは、同時にダウンバーストも産み出すから、自分が巻き込まれないことで、せいいっぱいである。

「足るを知る」という日本の和の心とは、まさに対極にあるのが「恨(han)」のようだ。

#ただ、歴史的経緯が関係している可能性は高いと思う。特に「朝鮮王国」はいかん。国が国でなかった。古代王国ですらなく、政治の究極の堕落があったように思われる。そこでは、「恨」以外の生き様は存在しえなかった可能性がある。

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