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旧作探訪 #137 - セデック・バレ

2014-08-27 21:17:24 | 映画(映画館)
賽匇克・巴莱@K's Cinema/監督:魏徳聖(ウェイ・ダーション)/出演:林慶台(リン・チンタイ)、林源傑(リン・ユアンジエ)、ビビアン・スー、安藤政信/2011年台湾

1930年、日本統治下の台湾で起きた原住民族による武装蜂起「霧社事件」を描いた、2部構成の歴史大作。アジア各地で驚異的なヒットを記録した。

【第一部・太陽旗】原住民の少数民族・セデック族は、自分たちの文化や習慣をないがしろにされ、木材切り出しなどの労役を強いられていた。そんな中、日本人警察官とセデック族の一人が衝突したことをきっかけに不満が噴出、彼らの一部族の勇猛果敢な頭目モーナ・ルダオは最終的に負けると分かっていながらも、「祖先からの狩り場を守る」ため武装蜂起を決意する。

【第二部・虹の橋】セデック族の襲撃により、当地の日本人は女・子どもの区別なく殺された。日本軍と警察は直ちに鎮圧を開始、山岳地帯の地の利を活かして戦うセデックの前に苦戦を強いられるが、大砲・飛行機など日本軍の圧倒的な武力により、セデックの戦士たちは次々と命を落とし、女たちは投降や自決を迫られる。




しばしば見る夢。
経緯は分からないが、裸足で街を歩くうち、地面のザラザラが鋭さを増し、足裏が痛くてノロノロとしか進めなくなる。それでも歩き続ける。
みな裸足で、縦横無尽に野山を駆け抜ける、セデックの戦士たちを見ていて思い出した




先日、大卒らしき若者が、といっても30歳前後でしょうが、「ウィトゲンシュタインで威嚇してくる奴はだいたい最低」という経験値をツイートしているのが目に留まった。
舶来の思想・哲学についての教養を、武力のように用いるタイプの人。私が思うに、流ちょうな英語力をひけらかす人や、フランスかぶれの人にも、同じタイプの気持ち悪さがある。

語彙や教養で飾らないと、裸の自分では勝負できない、本来は卑屈で弱弱しい人なので、気持ち悪いと感じるのだろう。
かくいう私も、先ほどの痛い夢とは対照的に、この春見た甘美な夢。
高1時の友人で、ガリッガリに痩せた村松くんが登場する淫夢。あまりに生々しく鮮烈だったので、以来、自慰行為のおかずには圧倒的な頻度で彼を使うことに。

体育の授業で、彼と私の2人だけ、級友を肩車してスクワットするという課題がこなせず、おんぶでお茶を濁したことを思い出す。
1年後の初恋の相手・千野くんは、私にとって神様のようなもので、安易に性的に扱いたくないというのもあるが、村松くんを使っての自慰が気持ち良いというのは、おそらく痩せて弱弱しく、絶対的体力がないため兵役などは務まりそうにない自分自身を守り、正当化し、癒してくれる含みがあるからでしょう。

そして、靴とは会社員であることや労働のメタファーで、カバ丸のような生き抜く力や男性的魅力を持たないにもかかわらず、私が無職で気ままに過ごしていることへの罪悪感が、裸足で歩く痛い夢に表れているのではないかと。

ウィトゲンシュタインで武装しないとしても、普通われわれが生きていられるのは、言葉、慣習、金銭、会社といったさまざまな制度や発明品によって、集団でリスクを未然に防止し、安全保障が図られ、守られているから=文明社会ということで、一人の人間としては、野蛮人=セデック族の方が断然強いのだ。

男は狩りをし、女は布を織る
よそ者が狩り場に侵入したら、首を狩る。
死ぬと、祖先がいる家へ行く。その周りには豊かな狩り場がある。
そこへ行くには、虹の橋を渡っていくのだ。
顔に入れ墨を施した、一人前の男と女=セデック・バレ(真の人)だけが虹の橋を渡ることができる
というのが彼らの価値観である。

もちろん日本統治下では、こうした価値観は否定され、彼らはカタコトの日本語で労役に就いたり、子どもは学校へ通わされる。
日本名を名乗り、警察官になる者もいるし、日本人の中にもわりと良心的で現地に溶け込んでいる者も少なくないが、あくまで日本人が上で少数民族が下、日本人が彼らを教育・文明化してやってるんだという前提である。

日本人の側では、統治は安定期に入ったと見なしていたのだが、彼らの伝来の魂は、小さなきっかけで息を吹き返し、殺戮の火ぶたが切って落とされる。
監督は、この経緯を、どちらが上だとか悪いではなく、異文化の衝突として描くため、日本側はプロの俳優を多く、セデック側は原住民の素人を多く起用した。これが功を奏し、日本側は文明で飾った近代人で、セデックは古来の暮らしを守る素の人間という対照が鮮やかである。

中でも印象的なのは、学校で差別的な扱いを受けたと感じ、根に持っている少年バワン・ナウイが、蜂起をきっかけに戦士として覚醒し、教師や女・子どもを殺すなど、血に飢えたケダモノに還っていく様子。
斬首。首狩り。切る、切る、首を。現地の妻をめとった警官役の木村祐一も首を切られて殺される。
映像で多くの斬首が描かれた世界記録との話もあるが、この映画がアジア各地でヒットし、そして「イスラーム国」による残虐な処刑の映像が流れる今、文明の衝突という言葉に慄然とせざるをえない。




先日の記事「レゲエ・プレイリスト」で、選曲に全力を尽くしたものの、レゲエの精神的支柱となっているラスタファリ運動など、その歴史や音楽的背景について全く記述できなかったのは、当ブログの文脈から遠すぎて手に負えないので。
ラスタファリ運動は同性愛を罪悪視し、著名なレゲエのミュージシャンも差別発言を行っているのだ。
痩せた村松くんをおかずにしている身としては、どうにも困ってしまうのだが、ラスタファリ運動は同性愛の罪悪視や、男女の性役割、大麻の称揚についても、旧約聖書の記述を根拠としている。

現時点では生煮えの考えだが、ラスタファリ運動やイスラム教が、ユダヤ教の神話的・始原的な部分に重点をおいた根本主義運動で、マルクス主義や、あるいは自然科学や哲学・資本主義などが、ユダヤ教の現世的・近代的な部分を代表しているのではないかという。

『セデック・バレ』を見て、日本軍を相手にゲリラ戦で健闘するなど、描写に誇張があり、失われつつある少数民族の魂への挽歌というか、一種のファンタジーであるにせよ、現にも起こっている文明の衝突を意識せずにおれなかった。
そして、監督や登場人物の視点からは、日本人を向こうに回しているセデックの側にも、武士道、切腹、カミカゼ特攻、靖国神社といった「異文化としての日本」が濃厚に反映されており、現在の日本人は近代の側(欧米)にも復古の側(イスラーム国など)にも徹底することができず、中途半端な立ち位置のまま、文明としては駆逐されてゆこうとしているのではないかという焦慮が–



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