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2017-12-07 20:08:40 | マンガ
彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、2~3時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしていたからだ。月夜になぞ何をしているのかと行ってみたことがあったが、月を眺めながら話をしていた。

まァ優雅な生活というやつだろうか、自然のままの生活というのだろうか。ぼくはそういう土人の生活が人間本来の生活だといつも思っている。

(中略)完備した自然の冷暖房の中でまずい物を喰って、粗末なところに住み、なんの娯楽もなく(時たま踊りがあるくらい)、そんなところで満足して生活している。まあ、どこを探しても何もないのだから満足せざるを得ないのだが、この満足というのがなかなか得難いものだと思う。ま、いうなれば何もしないわけだが、ぼくはまたソレが好きなんだナ。

この娘は、いやこの娘に限らず、土人は「満足を知る」ことを知っている、めずらしい人間だと思って、今でも敬意をはらっている。 —(水木しげる 『水木しげるのラバウル戦記』 ちくま文庫・1997、原著1994)





以前、読書メーターの2回目で紹介した、「現代の戦争は必ず持久戦・経済戦となるが、日本は重要物資の8割を外国に依存し、しかも主要輸出品は外国の生活必需品ではない生糸。武力戦に勝てても持久戦・経済戦には絶対勝てない。戦争する資格がない」という旧軍人の言葉。

それでも日本人は戦争を選んだ。全面戦争で、もちろん持久戦・経済戦となり、わが国がとった手段は、将兵を消耗品として扱うことだった。南京事件も従軍慰安婦も敵国捕虜の強制労働も、この延長にあり、そしていま、わが国を蝕むいくつかの問題=ブラック企業・外国人労働者の待遇・原発や五輪・人材派遣=もまた同根なので、反省していない状況証拠として受け取られ、戦前戦中の問題がいつまでも蒸し返されることにもなるのだろう。

水木しげるさんは一兵士として、この様子を目の当りにした。私が、天の配剤だなと思うのは、彼が派遣されたのがニューギニアのラバウルで、現地人=水木さんが「土人」という言葉を使うのは、土と一体化して生きる人という意味で、差別の反対=と交流し、左腕を失ってもどうにか生き延び、さらに仲良くなって、戦争が終ると、現地除隊してそこで暮らそうか大いに迷ったほどだったことだ。

欲望に取りつかれ、人間を消耗品にして、戦って死ぬならまだしも、大勢を餓死させるような日本軍より、足るを知る現地人のほうがよほど人間らしい。この認識が、水木さんの漫画の原点にあるに違いない。「錬金術」という短編では、ねずみ男が「錬金術は金(きん)を得ることではなく、それによって金(かね)では得られない希望を得ることにある」と称して貧乏人にたかり続ける。

ブラック企業の「やりがい搾取」みたいだ。スマホ&SNSでつながりと承認欲求を煽り、煽られ、商品であると同時に次の客を呼んでくる広告も兼ねるよう仕向けられるわれわれにも同じことがいえるだろう—



水木しげるのラバウル戦記 (ちくま文庫)
水木 しげる
筑摩書房
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