マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

チャッピー

2015-10-01 19:29:19 | 映画(映画館)
CHAPPiE@早稲田松竹/監督・脚本:ニール・ブロムカンプ/出演:シャールト・コプリー、デーヴ・パテル、ニンジャ and ヨーランディ・ヴィッサー、シガニー・ウィーヴァー、ヒュー・ジャックマン/2015年アメリカ

チャッピー…それは、余命5日間の人間になりたかったAI

犯罪が多発する2016年の南アフリカ・ヨハネスブルグ。警察は兵器メーカーのテトラヴァール社から高性能のロボットを購入し、取り締まりにあたらせ、効果を挙げていた。が、エンジニアのディオンが極秘で製作したAI(人工知能)搭載の戦闘用ロボットが、ギャングに奪われてしまう。ロボットは“チャッピー”と名付けられ、幼児のような意識が芽生えたのち、ギャングのニンジャとヨーランディを父母、ディオンを創造者と認識して、人間のように成長してゆく。ところがディオンを妬み、自らが手がけた脳波でコントロールする大型ロボットを治安に採用させようと企むテトラヴァール社の同僚ムーアもこの事実を嗅ぎつけ…。

『第9地区』のニール・ブロムカンプ監督最新作! AIは人類にとって是か?非か? 人間以上に人間らしさを備えたチャッピーが衝撃のラストでその答えを突きつける、恐ろしくも切ないSFアクション!




いま『伊賀野カバ丸』を読み返し中。私の人生でも一二を争う面白さのマンガ。
しかし、荒唐無稽な設定など、年をとって、気になることも。

高いところから飛び降りて、フワリと衝撃なく着地できる。
マラソン大会に飛び入り参加し、有名選手を大きく引き離し30キロまでトップ独走。
体格の優る数人を一瞬で叩きのめす。高校生としては読み書きが十分にできないにもかかわらず、漢文がスラスラ読める。複雑骨折の接骨ができる。
枚挙にいとまがない、これらはすべて「代々伊賀忍者だった家に生まれ、厳しく育てられたから」で一挙解決。

忍者を現代社会によみがえらせると、誰しも分かりやすいスーパーヒーローを作ることができる。他のマンガでもお目にかかる、一種の「お約束」といえよう。
そして、この種のお約束によって、最も時間節約して多数の共通顧客を獲得しているのが、「人間の形をしたロボット」ではないだろうか。

青木雄二さんは手塚治虫文化賞を受けるにあたり、「ロボットがしゃべるんでっせ(笑)」と、自ら手塚さんの影響を受けておらず、むしろ軽侮しているかのような発言をした。
手塚さんを尊敬する私も、『鉄腕アトム』が代表作であるというのは、もう一つ納得しかねるところがある。

機械が「意識を持つ。意思を持って人間のように行動する」ことがありうるだろうか。
『2001年宇宙の旅』では宇宙船のコンピューターが人間に反逆し、『わたしは真悟』では町工場の工業用ロボットに意識が芽生えて、ある少年と少女を親だと認識する。
これらは優れたSF作品である一方、現在、NASAやグーグルのスパコンが、あるいはフォルクスワーゲンの車の不正なソフトウェアが、まかり間違っても意識を持つなどということはありえないと悟らせる反面教師でもある。

AIを組み込んだロボットならどうか。
ホーキング博士などは、人類の未来がロボットに奪われると警鐘を鳴らしている。が、『チャッピー』を見れば、その心配は無用だ。
AIが意識を持ち、人間、いや生きもののように学習して成長する、この重要なくだりを人型ロボットというお約束に乗じ、人の姿をしているから人の子どものように振る舞っても不思議ではないと観客に錯覚させ、メンドウな説明を省いて序盤のアッという間に片付けてしまうのだ。
これは逆に、途方もない時間と資源を注がなければ、いや注いでも不可能なことだと証明しているに等しい。




ヒュー・ジャックマン、見事な悪役ぶり。
これは娯楽作品なのである。娯楽としては完璧。でもそれは、人型ロボの他にも、さまざまな既存のお約束に則って作られ、過去の莫大な叡智がもたらしたもので、そうした意味で人の血が通った、生き生きとした娯楽作品になっている。
また特に私にそれを感じさせたのは、「チャッピーの両親」として芸名と同じ役名で出演する男女のヒップホップ・ユニット、ダイ・アントワードだ。

乳幼児の、記憶は空白でも、彼らの脳に、全身の隅々まで、それまでの何億年もの生命の歴史が息づいている。その情報量はとてつもない。
すべての人間がそれを持っているが、人の意思としての表れ方は、天才科学者もいれば犯罪者もいれば千差万別。人工知能がそれに追い付けるとは思わない。せいぜい囲碁将棋とか、ある目的に特化した場合のみだろう。いま各社がしのぎを削って開発している「自動運転車」のシステムも、この映画の後半を見ていると、本当に大丈夫なのか、原発(やおそらくマイナンバー制度)のような無残な結果を招くのではないかと疑心暗鬼に駆られるくらいで、社会派の要素を併せ持つSFアクション映画として推奨いたします―
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6才のボクが、大人になるまで。

2015-09-17 19:00:58 | 映画(映画館)
Boyhood@早稲田松竹/監督・脚本:リチャード・リンクレイター/出演:エラー・コルトレーン、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク、ローレライ・リンクレイター/2014年アメリカ

すべての瞬間に、「大切」が宿ってる。

テキサス州に住む、6才の少年メイソンは、母と姉と共にヒューストンへ引っ越し、多感な思春期を過ごす。たまに訪ねてくる父、母の再婚、義父の暴力、写真への興味、高校生活とアルバイトや恋愛。彼は静かに子供時代を卒業していく…。リチャード・リンクレイター最新作! 6才の少年とその家族の成長と変化を、12年間に渡って同じ主要キャストで撮り続けた画期的な人生エピック。数々の映画賞に輝いた、リンクレイターのマスターピース。




子どもはどうやって育つのか。何が重要なのか。親か、学校か、遊びか、勉強か、地域か、あるいはもっと誰もが知るTVや政治家か。
6才のメイソン・ジュニアを取り巻くすべてを、彼に成長と変化をうながす要素として絵巻物のように配置し、実際の時間の経過とリンクさせて撮影することで、現代のアメリカで、子どもとは、教育とはどのような位置付けなのかをリアルに映し出す。

多趣味だがなかなか定職に就けず、離婚して子どもと離れて暮らす父親のイーサン・ホークが、大切にメンテナンスしてきたビンテージカーを高値で売ることに成功し、安い新車にメイソンを乗せて自慢する。するとメイソンは「16才になったらボクに(その車を)くれるって言ったじゃないか」と不機嫌に。
父は「そんなこと言うわけがない」と否定するも、やがて「言ったとしたら、悪かった。いずれ自分の金で良い車を買え」と。

この実父は経済的にはダメ男ながら、要所要所で子どもたちの前に現れ、遊びや趣味を通じて彼らに好印象を残す。
一方、母が再婚した大学教授の継父は、堂々とした風采と話術で邸宅に住むが、子どもたちへの差別待遇、過度の飲酒、ネチネチ絡む、しまいには物を投げつけるなど、一貫して病的な人格の偏りを示すけれども、それさえこの映画の中では反面教師としてメイソンと姉の成長に貢献している趣き。

ほか、ビデオゲーム、同時多発テロ、イラク戦争、オバマのブーム、携帯電話~やがてスマホの普及、フェイスブック等のソーシャル・メディアと、彼らを取り巻くアメリカの世相もまた、彼らの感受性を育み、その成長に微妙な影響を与える因子として、脚本というよりは新聞や年鑑のように映画が織り成される。

そうした意味では、わが国の映画やドラマというのは、「作ろう、作ろう」とし過ぎて隘路に入り込んでいる印象を受ける。良い映画、あるいは音楽は、おのずと生まれる部分こそ人の心を打つのではないか。もったいぶった起承転結を、さあ、これから演技しますよ(ウソをつきますよ)というテイで見せられても、食傷するだけだ。




私は一人っ子で、親から甘やかされて育ち、特におもちゃを潤沢に買い与えられたため、苦労して成果を得ること、お金や労働という自体を蔑むように育ってしまい、失敗人生につながった面が否めない。

なので、メイソンがカメラにのめり込み、また才能も発揮して授業そっちのけで暗室にこもりがちになったところで、担任教師が諭す「才能があっても激しい競争が待つ。才能がない者も少しでも上に行こうと必死だ。夢中になるのも良いが、規則や労働倫理を重んじなさい」との言葉が心に響いた。あるいはバイト先の飲食店での、店長のユーモラスなお説教も。

謙虚で、勤勉な、バランスのとれた人格を持つ大人になること。
映画の余韻に浸りながら家に帰ってみると、その日の夕刊、マラソンQちゃんの指導で知られる小出義雄氏の半生記エッセイの連載によれば、市立船橋高に体育科が設置されて赴任した時、市川恭一郎校長は「小出、君は教室であまり勉強を教えなくていい。(中略)部活の時間に頑張ってくれたらいいんだ」と述べ、後年には鈴木大地氏が同校の水泳部員だった時も「お前は勉強なんかしなくていい。オリンピックに行くことだけを考えればいいんだ」と告げたという。

あまりに映画と対極で、暗然としてしまった。
鈴木大地氏はその言葉には従わず勉強をしたとは思うが、彼が初代スポーツ庁長官という職責にふさわしい人物だとは思えない。
思えば、今の日本で新聞やTVに出るのは、「一芸入試」みたいにして有名になった人ばかりである。才能はあるとしても、人格が未熟で、さらに世襲政治家ともなれば「一芸」さえ持たずに表向きの権力を預かっている。

往年の角川文庫巻末の「第二次大戦の敗戦は、軍事力の敗退である以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」という言葉を噛みしめる所以である―
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男

2015-08-20 20:28:35 | 映画(映画館)
Get On Up@渋谷UPLINK/監督:テイト・テイラー/出演:チャドウィック・ボーズマン、ネルサン・エリス、ヴィオラ・デイヴィス、オクタヴィア・スペンサー 、ダン・エイクロイド/2014年アメリカ

伝説のアーティスト、ジェームス・ブラウン(通称JB)。ジャンルを超えたミュージシャンの敬意を集め、そのパワフルなパフォーマンスはマイケル・ジャクソン、プリンス、そしてブルーノ・マーズら現今の若手にも、多大な影響を与え続ける。一方で、あまりにも抜きん出た革新的な音楽には、差別、偏見、そして周囲からの嫉妬など多くの壁が立ちはだかった―

極貧の幼少期から、犯罪にも手を染めることとなるが、彼の天分を見抜いた先輩ミュージシャン、ボビー・バードが自らは影となって支え続け、遂には20世紀屈指のエンターテイナーに上り詰めるJB。そんなJBの波瀾万丈な生涯を映画化するために動いたのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー。監督にはアカデミー賞3部門ノミネート作品『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』のテイト・テイラー。そして生前のJBを彷彿させる驚くべき存在感で演じきるのは、ハリウッドが大注目するチャドウィック・ボーズマン(『42~世界を変えた男~』『ドラフト・デイ』)。




2ちゃんねる等ではサヨクと決めつけられているけれども、実際はむしろ保守派と見なされる論客・保坂正康氏が、サンデー毎日誌上の鼎談で、権力者になってはいけない人の3つの特徴(【1】形容詞を多用する=修飾することで実体をごまかす【2】立論をせずに主張する=物事を検証せず、ただ否定してみせる【3】話が5分以上もたない=知識の大半が耳学問)を列挙し、この3つを安倍さんほど備えた首相はかつてないと断言。

3つ挙げなくても、先の安倍首相の戦後70年談話を、アメリカとドイツのメディアが「自分の言葉による謝罪がない」と論評したのが単純明快だ。
天皇が戦没者追悼式では前例のない「先の戦争への反省」を示され、立場上の制約があっても意思をはっきり示されたのと対照的で、安倍首相の談話は歴代内閣の立場を踏襲したり、あちこちから美辞麗句を引っ張って作文したものの、肝心の「謝罪する主体」がぼやかされてはっきりしないことを見抜かれている。

国内の右派・保守派と、韓国・中国の両にらみで、本心を隠し、体裁を取り繕った。オリンピックの競技場をめぐる迷走を、為末大氏が「スポーツと、その他のイベントと、プライオリティー(優先順位)が付けられていない結果でもある」と評した言葉とも重なる。
優先順位を付けてしまうと、そのことについて後から責任を問われる恐れがあるので、役人たちとしては避けたい。あるいはエンブレムがどこにでもある平凡なデザインなため、盗用の疑惑を招いたことも、個性や独自性をはっきり出してしまうことを避ける官僚主義が背景にあるに違いない。




こうした村社会や官僚的な、わが国のあり方と真逆で、意思・主体・自由・独立といったことを全身で体現し、それまで誰もやったことがない音楽を発明して、音楽にとどまらずアメリカの歴史を書き加えたとまで称される存在がJB、ことジェームズ・ブラウンである。

血を燃やすこってりとしたリズムのタメ、胸を締め付けるシャウト、宙を舞うかのようなステップ、雷鳴のごとくとどろくホーンセクション―
彼の革新的な音楽は、彼が育った極貧の環境、また彼だけでなく当時の米黒人が激しい差別にさらされ、その中で神の道を示すゴスペル・ミュージックが心の拠りどころとなった、重い歴史が凝縮されている。

と同時にその歴史は、JBの中に表裏一体として、バック・ミュージシャンに君臨し彼らを手足のように使ったり、ショービジネス界の白人支配に不満で自らアイデアを出してマネージメントしたり、嵩じては脱税や、発泡事件を起こして服役したりする、強烈すぎるエゴや独善性の形でも表れることに。

たった一人、アメリカの光と闇を音楽に昇華させるよう運命づけられた、孤独な魂(ソウル)のさまよいびと―




あらためて振り返ると、アップルのiTunesは最近では官僚化が目立っているが、それでも私の音楽の聞き方を根本的に変えた。
自分で編集したカセットやMDを、順番どおりに聞く形から、ジャンルも年代もごちゃ混ぜのシャッフル再生の形へ。
結果、このジェームズ・ブラウンや、ジョニ・ミッチェル、フランク・ザッパ、スロビング・グリスルなど、それまでやや苦手にしていた、しかしまぎれもなく天才ではあるミュージシャンたちが浮上することに。またモーツァルトとスモーキー・ロビンソン、ベートーヴェンとジェームズ・ブラウンのように、かけ離れた音楽に共通性を発見したりも。
あらゆる音楽が相対化されることで、逆に1曲1曲の絶対的な価値が浮き彫りに。

↑画像はSay It Loud-I'm Black and I'm ProudをJBと子どもたちがレコーディングする場面。
アメリカも大きく揺れた時代。ベトナム戦争の前線を慰問のため訪れる場面では、彼とバンドの乗った飛行機が爆撃を受け、片側のエンジンが火を噴き、やっとのことで着陸に成功。またキング牧師が暗殺された翌日に予定され、暴動が起きることを懸念されたライブでは、ボストン市長が訪れて「静かに追悼しよう」と呼びかけるが、途中で不穏な状態となり、JBが「黒人の評判を落すな。ちゃんとしろ」となだめてどうにか続行。

アメリカの都市は不潔で、治安が悪く、国外でも戦争ばかりやっているが、裏を返せばそうした差別や犯罪や戦争が、個の独立や精神の自由を重んじる社会へと導き、世界に冠たる音楽や映画に結実しているともいえよう。
逆にわが国の都市は治安が良く、商店はサービスが行き届き、鉄道の時間は正確で、それらをもたらすものが同時にゆるキャラや、稚拙なアイドルやJ-Pop、ことなかれの役人や理念なき政治家をのさばらせていると考えられる。
こればかりは、両者のイイとこ取りは不可能―
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャージー・ボーイズ

2015-03-25 19:54:17 | 映画(映画館)
Jersey Boys@目黒シネマ/監督:クリント・イーストウッド/出演:ジョン・ロイド・ヤング、エリック・バーゲン、マイケル・ロメンダ、ヴィンセント・ピアッツァ、クリストファー・ウォーケン/2014年アメリカ

成功から最も遠い場所で、伝説は生まれた―
彼らが生まれたのは、犯罪が日常茶飯事の、ニュージャージー州の貧しい地区。抜け出すには、軍に入るか、マフィアになるか、有名になるかしか手段がない。
フランキー・ヴァリら金もコネもない4人の若者は、神から与えられた歌声と、曲を作る才能、そして見事に息のあったハーモニーを武器に、スターダムにのし上がる。
しかし強い光には濃い影が差す。待っていたのは、リーダーのトミーがこしらえた、100万ドルもの借金、そしてフランキーの娘のドラッグ渦・・・。それでも歌い続ける彼らが、再び迎える栄光の座。

巨匠クリント・イーストウッド監督がブロードウェイで大ヒットしたミュージカルを映画化。ニュージャージーの貧しいイタリア系移民として生まれ育ち、見事な歌声を武器にスターダムをつかんだ4人の若者の栄光と挫折を描く。




♪あっ、ちん毛~~
ビリー・ジョエルのUptown Girlは、伊集院光にはこう聞こえるとのことだが、この曲を含むアルバムAN INNOCENT MANは往年のアメリカン・ポップスへのオマージュとして作られ、中でも強烈な印象を与える同曲はフランキー・ヴァリとフォー・シーズンズの音楽を模範としたものだという。

彼らの全盛期より遅い1970~80年代に洋楽と出会った私にとって、フォー・シーズンズの音楽は、このように間接的に、他のアーティストによって知らされるものであった。
Silence Is Golden⇒トレメローズ、The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)⇒ウォーカー・ブラザーズ、Bye Bye Baby⇒ベイ・シティ・ローラーズ、Working My Way Back to You⇒スピナーズ、そしてCan't Take My Eyes Off You⇒ボーイズ・タウン・ギャングというように、原曲よりカバー曲の方が圧倒的に流布し、フォー・シーズンズという名も知らぬ間にその音楽を脳裏に刻み付けたのだ。

エルヴィスやビートルズのような、反発をも招くような斬新で挑戦的な音楽ではない。
しかし優美で、親しみがあり、はっきりと記憶に残る個性がある。
映画の中でそれらを見るに、楽器を持ったロックバンド形式でありながら、グループで一致した振りがあり、テンプテーションズやミラクルズのような黒人ボーカル・グループのようでもある、やや折衷的なスタイルだったことが、自ら作曲して成功したわりにアーティストとしての認知が低かったり、人気が去るとレコード契約にさえ苦労するような浮き沈みにつながったのではないだろうか。




↑映画でフォー・シーズンズを演じた4人の俳優と、右端はフランキー・ヴァリ本人


(「すみません」という言葉に代表されるように)遠慮のある他人の行為に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の行為に対しては平気でおられるという日本人の習性はわれわれにとって至極当然のことに思われるので、これ以外の感じ方があり得るということが不思議にさえ思われるかもしれない。このような世界では厳密な意味で個人の自由独立は存しない。個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならないということになる。しかしもし本質的に人間を超える存在があって、その存在から個人が他ならぬ自由を賜として与えられるのであるとしたらどうであろう。そうすればいくら感謝しても、自由が侵害されるということはなくなるではないか。そしてそれこそキリスト教の最も中心的なメッセージであったと思われる。この点について最初のキリスト教思想家パウロは、「キリストは自由を得させんために我々を釈き放ち給えり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がることなかれ」と述べた。彼はもともと社会的差別に発した自由人と奴隷という概念を拡大深化して、キリストによる自由と罪の奴隷という人間の二つのあり方を説いたのである。実際彼の書翰を読むと、躍動せんばかりの自由に生きた彼の姿を目のあたり見るような心持がする。彼は彼が元来そこに育ったユダヤ教の伝統にも、また異教的な因習にも全くとらわれなかった。もちろんキリストによる自由というように、人間が自由であり得るのは、キリスト自身が全く自由であったからである。彼はあまりにも自由であったために、ユダヤ人に殺されたということができるのであり、しかもその死に対してさえ彼は自由を克ち取ったと信じられているのである。

(中略)現代の西洋人は、自由が空虚なスローガンに過ぎなかったのではないかという反省に漸く悩みはじめているからである。資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点について現代西洋人の眼を覚まさせるものであった。かくして彼らの自由についての信仰は今や無惨に破られてしまった。もっともサルトルのごとく、すべての上部構造が崩壊しつつある現代社会において、人間の自由だけは唯一絶対のものとして、それにしがみつこうとする者がいないわけではない。しかしこのような自由は一体どこに人間を導くのであろうか。それは結局、個人的欲望の充足でなければ、参加による他人との連帯だけではないか。しかしこうなると、西洋人の自由についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わらないものとなる。結局freedomを自由と訳したのは、適訳でないように見えて、適訳であったのである。なぜなら西洋でも自由は信仰の世界の外には存在しなかったからである。 ―(土居健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂、1971年)




民主党支持者の多いハリウッド映画界にあって、クリント・イーストウッドは共和党支持で、しかもかなりのタカ派とのことだ。
この作品を映画化したのも、フォー・シーズンズの背景になっているイタリア系移民の地縁・血縁の濃さが描かれていることがお気に召して、ということかも分からない。

それにしても、昨今のわが国を覆う「絆・地元志向・右傾化」の空気と、あまりにも違うので驚く。
芸能人が成功しても家庭崩壊したり、大借金抱えるような、現象面は日本と同じなのにもかかわらず、核となっている音楽には天と地ほどの隔たりがある。

これをうまく説明してくれるのが、上に引用した『「甘え」の構造』の記述である。
キリスト教という基盤があって、神が与えた恩寵が自由であるとすれば、彼らの音楽の中で「夢と現実」「自由と規律」「個人と集団」が完璧に調和していることに合点がいく。
そして、神という基盤を持たないわれわれの音楽が、人間相互に束縛された、挑戦のない妥協的なものでしかないことも。

シャルリエブドの「表現の自由」が凄惨なテロの連鎖を招くように、欧米の個人主義・自由主義も観念論の一種に過ぎず、無制限な自由の追求は必ず現実のしっぺ返しをくらうでしょうが、こと音楽については祝福されたあり方だと申せましょう―



Jersey's Best: Very Best of
Wea Int'l
Wea Int'l
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧作探訪 #143 - TATSUMI マンガに革命を起こした男

2014-11-18 21:44:29 | 映画(映画館)
TATSUMI@キネカ大森/監督:エリック・クー/声の出演:別所哲也、辰巳ヨシヒロ/2011年シンガポール

高度成長やバブルの裏側で、辰巳ヨシヒロが描き続けた人間の姿とは―

今や世界中に広がり、日本文化の代名詞ともなった「マンガ」。中でも辰巳ヨシヒロ(1935~)は、「劇画」の名付け親にして、仏バンドデシネにも影響を与えるなど評価されてきたが、当の日本国内では近年に自伝的作品『劇画漂流』が注目を集めるまで、ほぼ忘れられた存在であった。

本作は、カンヌ映画祭の常連で、ロカルノ映画祭の審査委員長を務めたシンガポールのエリック・クーが、劇画漂流を軸として、「いとしのモンキー」「男一発」「グッドバイ」など5つの短編を挟んで映像化した、これまで例のない「動くマンガ映画」であり、辰巳の作家性・独自性を余すところなく伝えている。




萩尾望都さんの傑作「11人いる!」や「精霊狩り」は、いわゆるコミックスでは出ていない。
雑誌掲載後、読者がそれらを本の形で手にすることができたのは、小学館文庫の1冊としてだった。
忘れもしない、私が小5から小6に上がる昭和51(1976)年の春、マンガだけの文庫として小学館文庫が創刊され、すぐに講談社や秋田書店や集英社も後を追って、第一次のマンガ文庫ブームが巻き起こったのだ。

中でも、子どもの目からしても、小学館と講談社は、駄菓子のように扱われていたマンガを文化の位置へ引き上げようと、高級感のある装丁や編集など並々ならぬ力を注いでいた印象がある。
「11人いる!」のようなヒット作が文庫で初めて書籍化されたのも、その表れだったが、このブームの際、各社から引っ張りだことなって、さまざまな旧作が文庫の形で書店を賑わしたのが、つげ義春さんであった。

私が最初に買ったマンガ文庫も、つげさんの『ねじ式―異色傑作選1』であり、その2~3年後、中学当時、ねじ式の夢よもう一度というわけで手にしたのが、今回の映画に入っている短編を収めた辰巳ヨシヒロさんの小学館文庫だったのだ。
絵柄が似ているなあと思ったが、当時の私にとって、辰巳さんのマンガにはつげさんのような華が感じられず、それっきり2度と買うことはなかった。

しかし、今にして思い知る。
映画の中で短編のストーリーが進んでいくにつれ、まざまざと蘇るのだ、結末の苦さが。
「男一発」の定年退職を控えた主人公が、「私は人生の不能者だ…」と呟く心情を、中学生が分かる筈もない。
つげさんの『無能の人』は、もっと自己憐憫・自己陶酔の甘さがある。大人向きだが、抒情性が豊かで、子どもでも酔い痴れることが可能な作風なのだ。
似ていると思った絵柄も、子ども向けマンガに飽き足らず、新しい表現として「劇画」を模索していた辰巳さんが、貸本マンガで行き詰まっていたつげさんに助言を与えたりして、つげさんが辰巳さんの影響を受けたというのが本来なのだった。

しかし1970年代に入り、劇画的な表現が『子連れ狼』『ゴルゴ13』など娯楽として定着する一方、ガロを舞台に話題を呼んだつげ義春さんですら仕事の場を失ってゆく状況があり、さらに地味な辰巳ヨシヒロさんには文庫ブームの余禄も限られ、忘れられた漫画家となってゆく―




甘口ではないが、大人向けとしても苦すぎる。
有吉弘行が、はんにゃの金田くんに対し「大人はお前で笑わない。でもそのうち小中学生が大人になれば、大人も笑うようになるから、せいぜいガキ向けでやってろよ」的なダメ出しをしているのを見たが、これは現在の日本のマンガ・アニメ・ゲームにまつわる状況をぴったり言い表している。

子ども時代、ガンダムやキン肉マンを見て、それらのキャラクター商品を買った世代が、40~50代になっても、その延長上にあるお金の使い方をする。甘い夢にすがりつく。
お金になるので、客に媚び、依存症的にさせる商売が媒体上で幅を利かす。ネトゲ『艦隊これくしょん』のユーザーが韓国や中国にもいることは事実だが、一方でこのシンガポールの監督によるリスペクトある映画が、カンヌ出品から3年放置されてしまう(京都では昨年公開)、マンガ大国の空疎な内実―
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧作探訪 #141 - 消えた画 クメール・ルージュの真実

2014-10-22 19:32:30 | 映画(映画館)
L'image manquante@早稲田松竹/監督・脚本:リティ・パニュ/ナレーション:ランダル・ドゥー/2013年カンボジア・フランス

映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。革命政権下で数百万人の市民が虐殺され、カンボジア文化華やかなりし時代の写真や映像は破棄された。その、失われた人命や写真・映像は、果たして甦るのだろうか? 奇跡的に収容所を脱出し映画監督となったパニュは、「記憶は再生されるのか」というテーマのもと、犠牲者の葬られた土から作られた人形たちが、粛清・虐殺の由来を語り始め、そこへ数少ない当時の写真や映像を織り交ぜる形で、カンボジアが経た忌まわしい歴史を紐解いてゆく–

クメール・ルージュとは、1975~1979年にカンボジアを統治した共産主義勢力の通称であり、そのトップはポル・ポトであった。色鮮やかなカンボジアの文化が、クメール・ルージュによる“黒”と紅い旗とスカーフだけの世界に一変する。プロパガンダ映像に登場するポル・ポトはいつも笑顔で、民衆は無表情でロボットのよう。この悲劇は遠い過去のことではない。たった35年前のことなのだ。
体験した人びとだけのものではなく、歴史を知ろうとするすべての人たちの道しるべとなり、陰惨な歴史が繰り返される歯止めとなろうとする映画が、この『消えた画 クメール・ルージュの真実』であり、本年度のアカデミー賞外国映画賞にカンボジア映画として初めてノミネートされることとなった。




この秋、心身の状態がやや不調である。
特に、心肺機能の衰えに不安がある。脈が一拍飛んでドッと動悸がする、微細な不整脈が気になって、心電図を取ってもらう。
息苦しく感じることが以前より増えたことから、肺がん検診を受ける。
いずれも病気の兆候はない様子なのだが、変調の正体がはっきりしないことで、夜間など不安が膨らみ、それがストレスになって自律神経の乱れを招く。「病は気から」の典型である。

たびたび引用しているカミール・パーリアの『性のペルソナ』によれば、「冥界的自然(=死)に飲み込まれてしまうことに対する不安から、強迫観念のように駆り立てられ、自然を克服し支配するべく築かれたのがユダヤ/キリスト教をはじめとする西洋文明であり、女性は月経や出産によって、生まれてきた命は必ず滅びるさだめを知り、より自然と一体化していることから、西洋文明は男性的強迫観念の色彩を帯びるとのことだ。

さらに彼女は、「言葉」はものごとのあるがままの姿から最も離れた発明物に過ぎないとも述べている。
不安から逃れるため、絶対的なもの=神という観念にすがる。その神を否定し、唯物論を説いたマルクス主義も、言葉で定義された理念である以上西洋文明の末裔であり、唯物論は観念論の一変種に過ぎないというわけだ。




人の世の、あるがままの姿からかけ離れた観念論。
ここに、現実に生きている人間を無理やり当てはめようとすると、どのような結果を招くかを、この映画はまざまざと伝える。
内戦の結果、ポル・ポト率いる革命勢力が実権を握り、「民主カンプチア」となったカンボジアで、人びとは男か女か、老人か子どもか、といった区別で分類され、「資本主義の象徴」である都市から地方に移され、農業に従事することになった。
その際、過去の記憶につながるような所有物は捨てることを強要され、個人で持てるのはスプーン一つとなった。「知識」はクメール・ルージュにとって憎悪の対象で、わずかでもその片鱗を覗かせた者は人知れず連れ去られ、拷問され殺害された。さらに、飢餓でも多くの人が死んだ。

こうした恐ろしい政治体制は、カンボジアだけでなく、中国の文化大革命や北朝鮮、さらには最近のイスラム武装勢力とも似通った性質を持っている。
アジアは共産主義の狂気を増幅させる。
梅原猛氏の新聞連載で、手塚治虫の『火の鳥』に対し「これはヒューマニズムではない(が凄い思想である)」と。
手塚マンガは、決して人間中心ではない。生物も、無生物も、万物は流転するという世界観。
唯一絶対神にすがり、現世利益を追求し、自殺を罪悪視するユダヤ/キリスト教からすると、輪廻や解脱といった、個人の自我を否定する考え方を含む仏教はニヒリズムであるということになる。

西洋文明と東洋文明には「水と油」なところがある。
西洋文明の実用主義の部分と、東洋文明の「個性の違いなんて無駄なことだ」という虚無主義の部分が出会うところに、若き日共産党で組織論だけを学んだナベツネがあり、毛沢東や金日成やポル・ポトがあるのだと思う。
映画では淡々と語られるが、当時カンボジアを覆った狂気は、アウシュビッツ級に抜きん出た異常性であると同時に、われわれの悪しき部分の鏡であり、人類が決して忘れてはならない記憶遺産であるといえよう–
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧作探訪 #137 - セデック・バレ

2014-08-27 21:17:24 | 映画(映画館)
賽匇克・巴莱@K's Cinema/監督:魏徳聖(ウェイ・ダーション)/出演:林慶台(リン・チンタイ)、林源傑(リン・ユアンジエ)、ビビアン・スー、安藤政信/2011年台湾

1930年、日本統治下の台湾で起きた原住民族による武装蜂起「霧社事件」を描いた、2部構成の歴史大作。アジア各地で驚異的なヒットを記録した。

【第一部・太陽旗】原住民の少数民族・セデック族は、自分たちの文化や習慣をないがしろにされ、木材切り出しなどの労役を強いられていた。そんな中、日本人警察官とセデック族の一人が衝突したことをきっかけに不満が噴出、彼らの一部族の勇猛果敢な頭目モーナ・ルダオは最終的に負けると分かっていながらも、「祖先からの狩り場を守る」ため武装蜂起を決意する。

【第二部・虹の橋】セデック族の襲撃により、当地の日本人は女・子どもの区別なく殺された。日本軍と警察は直ちに鎮圧を開始、山岳地帯の地の利を活かして戦うセデックの前に苦戦を強いられるが、大砲・飛行機など日本軍の圧倒的な武力により、セデックの戦士たちは次々と命を落とし、女たちは投降や自決を迫られる。




しばしば見る夢。
経緯は分からないが、裸足で街を歩くうち、地面のザラザラが鋭さを増し、足裏が痛くてノロノロとしか進めなくなる。それでも歩き続ける。
みな裸足で、縦横無尽に野山を駆け抜ける、セデックの戦士たちを見ていて思い出した




先日、大卒らしき若者が、といっても30歳前後でしょうが、「ウィトゲンシュタインで威嚇してくる奴はだいたい最低」という経験値をツイートしているのが目に留まった。
舶来の思想・哲学についての教養を、武力のように用いるタイプの人。私が思うに、流ちょうな英語力をひけらかす人や、フランスかぶれの人にも、同じタイプの気持ち悪さがある。

語彙や教養で飾らないと、裸の自分では勝負できない、本来は卑屈で弱弱しい人なので、気持ち悪いと感じるのだろう。
かくいう私も、先ほどの痛い夢とは対照的に、この春見た甘美な夢。
高1時の友人で、ガリッガリに痩せた村松くんが登場する淫夢。あまりに生々しく鮮烈だったので、以来、自慰行為のおかずには圧倒的な頻度で彼を使うことに。

体育の授業で、彼と私の2人だけ、級友を肩車してスクワットするという課題がこなせず、おんぶでお茶を濁したことを思い出す。
1年後の初恋の相手・千野くんは、私にとって神様のようなもので、安易に性的に扱いたくないというのもあるが、村松くんを使っての自慰が気持ち良いというのは、おそらく痩せて弱弱しく、絶対的体力がないため兵役などは務まりそうにない自分自身を守り、正当化し、癒してくれる含みがあるからでしょう。

そして、靴とは会社員であることや労働のメタファーで、カバ丸のような生き抜く力や男性的魅力を持たないにもかかわらず、私が無職で気ままに過ごしていることへの罪悪感が、裸足で歩く痛い夢に表れているのではないかと。

ウィトゲンシュタインで武装しないとしても、普通われわれが生きていられるのは、言葉、慣習、金銭、会社といったさまざまな制度や発明品によって、集団でリスクを未然に防止し、安全保障が図られ、守られているから=文明社会ということで、一人の人間としては、野蛮人=セデック族の方が断然強いのだ。

男は狩りをし、女は布を織る
よそ者が狩り場に侵入したら、首を狩る。
死ぬと、祖先がいる家へ行く。その周りには豊かな狩り場がある。
そこへ行くには、虹の橋を渡っていくのだ。
顔に入れ墨を施した、一人前の男と女=セデック・バレ(真の人)だけが虹の橋を渡ることができる
というのが彼らの価値観である。

もちろん日本統治下では、こうした価値観は否定され、彼らはカタコトの日本語で労役に就いたり、子どもは学校へ通わされる。
日本名を名乗り、警察官になる者もいるし、日本人の中にもわりと良心的で現地に溶け込んでいる者も少なくないが、あくまで日本人が上で少数民族が下、日本人が彼らを教育・文明化してやってるんだという前提である。

日本人の側では、統治は安定期に入ったと見なしていたのだが、彼らの伝来の魂は、小さなきっかけで息を吹き返し、殺戮の火ぶたが切って落とされる。
監督は、この経緯を、どちらが上だとか悪いではなく、異文化の衝突として描くため、日本側はプロの俳優を多く、セデック側は原住民の素人を多く起用した。これが功を奏し、日本側は文明で飾った近代人で、セデックは古来の暮らしを守る素の人間という対照が鮮やかである。

中でも印象的なのは、学校で差別的な扱いを受けたと感じ、根に持っている少年バワン・ナウイが、蜂起をきっかけに戦士として覚醒し、教師や女・子どもを殺すなど、血に飢えたケダモノに還っていく様子。
斬首。首狩り。切る、切る、首を。現地の妻をめとった警官役の木村祐一も首を切られて殺される。
映像で多くの斬首が描かれた世界記録との話もあるが、この映画がアジア各地でヒットし、そして「イスラーム国」による残虐な処刑の映像が流れる今、文明の衝突という言葉に慄然とせざるをえない。




先日の記事「レゲエ・プレイリスト」で、選曲に全力を尽くしたものの、レゲエの精神的支柱となっているラスタファリ運動など、その歴史や音楽的背景について全く記述できなかったのは、当ブログの文脈から遠すぎて手に負えないので。
ラスタファリ運動は同性愛を罪悪視し、著名なレゲエのミュージシャンも差別発言を行っているのだ。
痩せた村松くんをおかずにしている身としては、どうにも困ってしまうのだが、ラスタファリ運動は同性愛の罪悪視や、男女の性役割、大麻の称揚についても、旧約聖書の記述を根拠としている。

現時点では生煮えの考えだが、ラスタファリ運動やイスラム教が、ユダヤ教の神話的・始原的な部分に重点をおいた根本主義運動で、マルクス主義や、あるいは自然科学や哲学・資本主義などが、ユダヤ教の現世的・近代的な部分を代表しているのではないかという。

『セデック・バレ』を見て、日本軍を相手にゲリラ戦で健闘するなど、描写に誇張があり、失われつつある少数民族の魂への挽歌というか、一種のファンタジーであるにせよ、現にも起こっている文明の衝突を意識せずにおれなかった。
そして、監督や登場人物の視点からは、日本人を向こうに回しているセデックの側にも、武士道、切腹、カミカゼ特攻、靖国神社といった「異文化としての日本」が濃厚に反映されており、現在の日本人は近代の側(欧米)にも復古の側(イスラーム国など)にも徹底することができず、中途半端な立ち位置のまま、文明としては駆逐されてゆこうとしているのではないかという焦慮が–


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧作探訪 #136 - アデル、ブルーは熱い色

2014-08-14 19:07:52 | 映画(映画館)
La Vie d'Adèle – Chapitres 1 & 2@早稲田松竹/監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ/出演:レア・セドゥ、アデル・エグザルコプロス、サリム・ケシウシュ/2013年フランス

あの時から、
生きることは歓びになった──

運命の相手は、ひとめでわかる–。高校生のアデルは、道ですれ違ったブルーの髪の女性に、心を奪われる。夢に見るほど彼女を追い求めていたその時、アデルは偶然バーで彼女との再会を果たす。その名はエマ。画家志望の美術学校生だった。アデルはエマのミステリアスな雰囲気と、豊かな知性・感性に魅了され、身も心も彼女にのめり込んで行く。数年後、幼稚園の教師になる夢を叶えたアデルは、エマの絵のモデルを務めながら同居し、幸せな日々を送っていたが…。

二人の女性の激しくも切ない愛の日々を描くラブストーリーで、2013年カンヌ映画祭でパルムドールを審査員の全員一致で受賞した。女同士のベッドシーンは、センセーショナルにして、絵画のように美しいと話題を呼び、カンヌでは本来は監督に授与される賞が、主演女優の二人にも贈られるというサプライズが起こるほどだった。
原作は仏人女性の手になる漫画で、監督・脚本を務めるのは、数々の映画賞に輝いてきた俊英、アブデラティフ・ケシシュ。本作でヨーロッパから世界へと羽ばたいたケシシュだが、日本公開はこれが初となる。




徹頭徹尾アデルの目線で作られている。
一見美人だが、常に口が半開きで、口角が下がり気味なアデル、どうもハッピーな結末にはならなそう。
いっぽうのエマは、髪を青く染め、私はどこにでもいる女じゃないのよという、我の強さが言動のはしばしに。

保守的な両親に育てられ、将来は幼稚園の先生に–という平凡な人生に飽き足らないアデルにとって、どこかスペシャルな場所へ連れて行ってくれる理想の存在がエマであり、同性であるということは、二人の関係をより特別なものにしこそすれ、障害にはならなかった。

エマの絵は、印象派風の、どこにでもある作風だが、彼女の夢、というより野心は大きかった。
画壇に出るということは、大作の絵を富裕層に買ってもらうことに他ならず、その鍵を握るのは有力な画廊オーナーなどのスノッブ種族。そしてエマもまたスノッブ。
理屈をこねて自己正当化することに長け、他人を自分の道具のように見なす、傲慢さ。

幼稚園の同僚男と寝たということで責められ、追い出されるアデル。
あるいはエマにとって、アデルとの恋愛は、自分の絵に何らか付加価値をもたらすものに過ぎず、もっと新たなモデルを探すため、アデルとの関係を終わらせる機を伺っていたようにも思える。
どんどん嫌な女に見えてくるのだが、アデルにとってエマほど完璧な存在はなく、復縁できないかとすがりつくも、取り付く島もないエマ──




結末はウシジマライクな格差社会。
個展を成功させたエマに対し、招かれたアデルはかつてのモデルというだけでしかなく、スノッブ種族の談笑の輪に入ってゆくこともできず、悄然と立ち去る。
アデルはエマを忘れられない。今も好き。でも、エマがアデルを好きか嫌いかはエマの勝手だ。恋愛とは、そういう市場原理で成り立っとんのやで!!

思えば私の初恋も、16歳の時、同性の友人、千野に対してであった。
ここでは呼び捨てにしているが、当時、彼と最もベタベタ一緒にいた時でさえ、互いに「くん付け」で呼び合っていたし、今も心の中では「千野くん」と呼ぶ。

アデルは自分が変わりたいという衝動からエマを求めたが、高偏差値の学校で落ちこぼれてしまった私にとって、彼の存在は「特別な自分」を守り、癒してくれる、悪くいえば自己愛の延長であり、よくいえば自然法のような存在だったと思う。
恋仲になることはなかったが、死ぬ時は彼との日々を思い出すでしょう──




↑原作バンドデシネより。吉田秋生とかに近い感覚なのかな
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『VHSテープを巻き戻せ!』

2014-08-05 19:38:27 | 映画(映画館)
Rewind This!@渋谷アップリンク/監督・脚本・原案:ジョシュ・ジョンソン/2013年アメリカ

ホームビデオは、僕らの大革命だった。家にビデオデッキがやってきた日の興奮、ビデオテープをセットした時の感触、レンタルビデオ店の会員になった時の高揚といった"初体験"の数々、中古ビデオを探し歩いた徒労と充実の日々。こうしたことは、ベータとVHSの企画争いからして本拠地・主戦地となった日本だけでなく、アメリカをはじめ世界共通の現象だったのだ。

80~90年代と長く市場を支配し、一大ムーブメントとなったビデオカルチャーにまつわる仕掛け人や生き証人、ビデオに魅せられた人びとの言葉から見えてくる、映像作品のいまそこに忍び寄る危機…。ノスタルジーとテクノロジーをつなぐ"愛"のドキュメンタリー。




テレビ番組を録画して、好きな時間に見られる。レンタル会員になって、家で映画を見られる。
この程度のことが、1981~85年当時は夢のようなことで、われわれの生活を大きく変える事件だった。しかもその技術は日本発であった。

米国のチャートで、ビデオの売り上げが伝えられると、見慣れない種類のものが上位を占めていた。ジェーン・フォンダのワークアウト。いわゆるエクササイズ・ビデオなるものの始まり。ジムへ通わなくても、家でビデオをお手本にエアロビクスができる。
それだけでなく、ミュージック・ビデオ、B級のホラーやSFアクション映画、そして何といってもアダルトビデオと、コンテンツへのニーズが爆発的に増大する中、さまざまな市場が、海賊版も含め花開いた。
雨後のタケノコのように、各地にレンタルやセルのビデオ店ができていった。




↑映画に出てくる、米国のコレクターに感化され、いま私の手元にあるVHSテープを並べてみたんですが。
『制服の少女』なるアダルト作品は、30分12000円となっている。ビデオって高かったんですよね。1万を超すのが普通。
日本ほどべらぼうな値段ではなかったようだが、カルト映画『バスケット・ケース』の監督が、ティーン向けに売りたいと考えて、通常50~60ドルのところ、同作を20ドルを切る価格で売ってヒットにつなげたという証言も。

きのうの上映後、ノイズミュージックの非常階段として活動するかたわらビデオ店やインディー・レーベルも経営していたJOJO広重なる人物が、作家の中原昌也とのトークイベントで語るに、当初はミュージックビデオの海賊版に手を染め、せんずり音楽雑誌ロッキンオンの1ページ広告料が30万円のところ、実際は15万円で、年間通しで打つからと12万に負けさせて広告掲載して売りさばいたと。
当時のファンは洋楽の映像に飢えており、出せば1万円だろうが売れる。後にジャパン・レコードの許可を受けた正規版は、欧TV企画PALから変換する業者に30万円取られたが、それでもペイできる。スロビング・グリスルなどのどマイナーなミュージシャンのものでさえ。

バブルであった。
株や不動産だけでなく、ビデオや音楽、それを紹介する店や雑誌など、コンテンツ商売が膨らむだけ膨らんだ時代。




↑ビデオテープ独特の、繰り返し再生したり同じところで一時停止したりすることによる、画像の荒れ。

上記のようなコンテンツ商売のバブル現象は、株や不動産のバブルほど劇的に崩壊したわけではないが、今に至るまで深刻な問題を残すことに。
ひどい画質の海賊版でも、出せば売れる、この程度で商売になるってことで、猫も杓子も参入し、市場のニッチ化・セグメント化(隙間化・細分化)が限りなく進行し、さらにネット配信やYouTubeの登場で、無限大の時間コンテンツがタダ同然で氾濫する。

かつて映画や小説は、大ヒットしているから、自分も見てみようか、という気にさせる位置付けの商品だった。
純然たる嗜好品なのにもかかわらず、テレビや新聞の広告で宣伝をして…というマス・マーケティングが成立していたのだ。
しかし、コンテンツ商売のバブルや、ネット&携帯電話の普及を経て、各国共通してこの構図が通用しにくくなってきたのは確かであろう。ただし、わが国では、ジブリ映画がOAされる金曜夜にツイッターがその話題で溢れるように、消費者心理上にも中央集権官僚制が温存されており、進行中の文化的危機への対処が遅れがちに感じられてならない–(ニッチ化・セグメント化とマス・マーケティングの問題について次回も扱います)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧作探訪 #129 - ウォールフラワー

2014-05-28 19:53:06 | 映画(映画館)
The Perks of Being a Wallflower@早稲田松竹、監督・脚本・原作:スティーヴン・チョボスキー、出演:ローガン・ラーマン、エマ・ワトソン、エズラ・ミラー、2012年アメリカ

1999年に刊行され『ライ麦畑でつかまえて』の再来と絶賛された青春小説を作者自ら映画化。
チャーリーは、小説家志望の16歳。入学初日にスクールカースト最下層として位置付けられてしまった高校では、ひっそりと息を潜めてやり過ごすことに注力していたが、そんな「壁の花」チャーリーの生活が、「特別席」で眩しいほど輝く、陽気でクレイジーなパトリック、美しく奔放なサム兄妹との出会いにより一変する。
初めて知る友情、そして恋。世界は無限に広がっていくように思えた。が、チャーリーがひた隠しにする、過去のある事件をきっかけに、彼らの青春の日々は、思わぬ方向へと転がり始めることに–

ただ生きているだけで心がときめき、ただ生きているだけで心が痛む、思春期の甘く苦い日々を、『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』のローガン・ラーマン、『ハリー・ポッター』シリーズ卒業後、初の大役となるエマ・ワトソンらハリウッド有望株がみずみずしく演じ切る。
ザ・スミス、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、XTC、デビッド・ボウイらの名曲や、映画『ロッキー・ホラー・ショー』、文芸作品『アラバマ物語』『路上』など、 80年代後半~90年代初頭の若者を取り巻くカルチャーの数々も見逃せない。




韓国には「社会人になってからできた友だちは真の友とはいえない」なる格言があると聞く。
辛辣すぎる気もするが、社会に出ると、何かにつけお金の裏付けがあるのかが問われ、利害や打算を抜きにした人間関係が成り立ちにくいには違いない。
ナニワ金融道の警官たちがハマるマルチ商法のエピソードで、「わしらの商売は客の人間関係を根こそぎ刈り取って現金に替えてしまうんや。通った後にはぺんぺん草すら生えへん」と語る枷木など、その究極の姿で、ウシジマくんの最新エピソードもマルチ商法を扱っている様子だが、私が思うに、大学における人間関係というのは、少々その匂い(=マルチ商法的な)が交じってくるようにも。

偏見ですかね。高卒ゆえの。
私が通った都立高校の3年間は、甘くて苦く、そして今に至るまで決定的な影響をもたらした。
高1時、内気でひねくれた私にも、本やマンガや音楽を通じて何人かの友だちが。
最初に付き合っていた永田と村松、そして千野や奥村や山岸らと交遊が広がるにつれ、永田と私は村松をハブることに。
やがて高2でクラスが分かれても、私は永田たちの書道クラスへ出向いてチャートを見せたり、一緒に帰ったりしていた。その楽しい日々は、夏から初秋にかけ、私が同性の千野にメロメロに恋してしまうことで終わりを告げる。今度は私がハブられたのだ。




ハブられる。本来シャイで、友だちのできにくい者が、わずかな友だちから見放されてしまう。
どんな気持ちか分かるかい?
この映画は、そこを見事に描いてますね。きゅんきゅんしてしまいました。
友情と恋とが絡んだ人間関係に惑い、どうしていいか分からない、しかし時に至福に包まれるチャーリーの姿は、まったく当時の私そのもの。

人は、自分という枠を大きく超える存在に出会う時、好きになるという反応しかできない。私の場合は、たまたまそれが男だったのだ。
このことは、私の逃避的な性格に拍車をかけ、疎外と混迷の就職生活へとつながってゆくことに。
まるで韓国の格言のように本当の友に出会えなかった20年間の会社員時代も、私の傍には常に音楽があった。
先日、久しぶりで、高2~高3のクラスで孤立していた私に手を差し伸べてくれた旧友2人と会うことができたのだが、その付き合いも音楽が取り持ってくれたようなものだ。

映画の中で「何? この完璧な音楽!!」としてチャーリーら3人をハイにさせる、デビッド・ボウイの "Heroes" 。
私はその歌詞を、卒業アルバムに記した。千野のところにはロキシー・ミュージックの "More Than This" が記されていた。
この時、既にハブられて時間が経っていたが、私と千野の間には魂の交歓があったと信じている。
それは今も私の胸の奥で熱を発し続けている–
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする