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読書録 #38 — 大政翼賛会のメディアミックス、ほか

2024-05-19 22:31:44 | 読書
ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン/国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源/ハヤカワ・ノンフィクション文庫2016・原著2012
日本人には保険がない。優しそうなおばさん。でも誰かに言われて与党や維新に投票していたり何かの熱心な信者だったりするかも。おばさんも私も五輪の悲惨な開会式、関係者の汚職、その費用の一部を負担させられている。日本人みな悪党。保険がないのでなく私たちが保険なのだ。本書は、法治・税制・市場・官僚機構や生活インフラといった「制度」は一朝一夕にできるものでなく、英国は王政を監視する「代議制」を整えていたから最初に産業革命を成功させ、そうした歴史のないチュニジアなどの「アラブの春」は失敗したとして、それら各国の政治闘争と栄枯盛衰の歴史を紐解く。中国については短い記述で毛沢東を否定し、鄧小平の改革開放のみを称える。日本については研究していないようだ。すなわち、コロナ禍のため先進各国が金融緩和してインフレが進み、自国ファーストと移民などへの憎悪を煽る右翼ポピュリズムが跋扈して、スマホと株バブルと少子化、ますます金と時間に縛られて空しい人生を送らねばならない閉塞感について何の解決にもならない。偉そうにしているが哲学に欠ける空疎な本。

Mエンデ+Eエプラー+Hテヒル/オリーブの森で語りあう/岩波書店1984・原著1982
「今日の学校制度や大学制度じたいが、じつに強く経済に支配されているんだよ。経済はロビーをへて裏ロからはいりこむ。(中略)大学での科学者教育をよく観察すればはっきりわかることだが、学生は最初から特定の目標をめざして訓練されているんだ。真理を探究しながら人間形成をする場という古典的な意味での大学(ウニウェルシタス)はとっくの昔に消えてしまっている。(中略)まったく一面的な専門家的思考というものをたたきこまれる。入学以前でも可能なかぎりそう教育されている。よくわかるよね。だって現代の経済は、システムの内側ではたらく人間を必要としているんだから。いま自分がやっていることをじっくり考えるような人間なんて邪魔なだけだ」。
「もしも女性問題を解決しようと思うなら、現在の文化全体を変革する心づもりが必要だ。女性が異性に負けないくらいすぐれた男性となれることを証明しても、なんにもならない。逆にそれによって、間接的にせよ男社会が正当化されてしまう。男社会を尺度として認めているわけだからね。一面的なこの男社会がまさにぼくらを荒廃させてきた。なんと当の男たちまでをもね」。
今や大卒のホワイトカラーが何も生まず少子化と経済縮小を先導している。自民党の女は男よりも男だ。「第三次世界大戦は時間争奪戦争として既に始まっている」と予見したミヒャエル・エンデを中心として、果たして人間らしく生きられるような改革は可能かを探る鼎談。

Charles Snider / The Strawberry Bricks Guide to Progressive Rock (3rd edition) / strawberrybricks.com (2008/2020)
500以上のプログレのアルバム評を集大成。ジャケ写はなく字だらけ。けっこう知らないグループあるな。若いころ音楽関係の洋書を買うことはスペシャルな体験で、聞くべき曲を必死に漁ったものだ。日本ではコロナ禍の間にも紙の本の売れ行きがみるみる落ちていったが欧米人は書架を誇ることを決してやめないだろう。

石母田正/中世的世界の形成/岩波文庫1985
「わが国の武士団は、前記の如く在地領主の族的結合の軍事組織として発生したが、この場合決定的意味をもつのはそれが領主階級の独自の軍事組織であったことにある。このことに武士団の歴史的意味があるのであって、この面を抽象してしまえば武士団が中世社会の政治的根幹をなした意義が抹殺されてしまうことになる」。
「法が制定法の法文解釈のなかに存在せず、生命ある現実の生活関係のなかに、武家のならい民間の法のなかに存在することを認識したということは、如何に大きな思想の転回であったろうか。この転回にこそ中世がある」。



大塚英志/大政翼賛会のメディアミックス 「翼賛一家」と参加するファシズム/平凡社2018
1970~80年代のメディアミックス代表格、角川映画が抜擢した薬師丸ひろ子と原田知世は普通の中高生らしさを残すことでかえって神秘性を感じさせる新しいアイドル像であった。薬師丸が都立高に通いながら撮影した『セーラー服と機関銃』がテレビ初登場したとき私は親戚の家で見て安っぽいひどい映画だと思ったが黙っていた。のちの「ネトウヨの従弟」の家。
本書で大塚英志が紐解く「翼賛一家」は基本は新聞まんがながら大政翼賛会主導で「版権」を管理し、「二次創作」を公募し奨励することでそうした市井の愛国予備軍を戦争というお祭りに参加させ、編集者や演劇・映画人など政府目線の関係者を育て、戦争自体は負けてもメディアと広告とイベント大好き、現在も続くプロパガンダ大国の地ならしに成功したのである。

深田萌絵ほか/光と影のTSMC誘致/かや書房2023
醜悪な装丁、輪をかけてひどい文章。半導体関連株は右肩上がりですよと政府とメディアグルになって投資熱を煽るように、世界はますます半導体を必要としている。気候変動を抑えるためのEV・太陽電池・風力タービンにも半導体が不可欠ながら、半導体を製造するのに大量の水と電気、有毒な金属やガスを使用するため、それ自体が温室効果ガスおよび土壌・水質・大気汚染を生み出してしまう矛盾。著者によれば、熊本県への大規模な工場誘致が進んでいるTSMCの創業者は中国出身のため台湾の工場周辺の公害に無頓着で、人工透析を受ける比率が世界一高く肺がんもアジアで2番目に多いなど台湾住民が被害を受けており、次は熊本だ! 水俣病の再来だ!と警鐘を鳴らす。しかし因果関係を示す具体的なデータに乏しく、煽情的で粗雑な文体なので信憑性を疑う。実際フェイクや捻じ曲げた引用が多く「著者は半導体業界および台湾という一般人には理解が難しい〝陰謀論のブルーオーシャン〟を探り当てただけ」と強く批判するアマゾンレビューも。アンチ巨人も巨人に依存していることは変らないし、著者は日本のIT敗戦と経済的没落に乗じる形でIT業界およびメディアに寄生する総会屋のように生きていくのだろう。


自我野/崖っぷちの自我/扶桑社2023
旧名おのれのみ。新しいペンネームは悪い予感。↑の強烈な冒頭から驚きの着地をみる短篇は、女の生きづらさに正面からぶつかって劇的なフィクションを成立させて見事だと思ったのだが、本書には収録されておらず、2012年に上京してアルバイトしながら漫画家を目指す著者の自伝エッセイ的な4コマ漫画に占められる。セリフ文字が多く、似た内容が続くため、せっかくの才能もトゥーマッチに感じてしまう。雑誌でキャラを立てて競わせて人気が下がったら使い捨てという日本の漫画出版の悪弊、今はウェブ版に志望者が集まることからますます不毛だ。それにしても著者の母親やバイト先で出会う「普通の女の悪意」にゲンナリ。THE狭い世間。甘やかされた私はそもそもバイトが無理だし、著者は何だかんだ強いと思う。作風を広げて漫画を描き続けてほしい。

佐藤まさあき/劇画私史三十年/桜井文庫1984
「アシスタント2人が必死に仕上げをするのだが僕が人物のペンを入れバックを入れるスピードにとても追いつかないのだ。ま、今になってみるとあんまり自慢になる話でもないのだが、僕のペン入れを見た編集者、仲間のほとんどが感嘆の声をもらすのだ」
「どうやら私と編集者を帰して一晩中モデルガンで撃ち合いっこをしていた様子なのだ。(中略)私の我慢の限界にきていた。アシスタントを近くの喫茶店につれていき、ついに怒りを爆発させた。そして、特に仕事の遅い3名のアシスタントに対し、減俸処分を下したのである。だがその後、数年経って聞いた話だが、この時アシスタントの1人が自分の部屋に戻るなり私を〝殺してやる〟といって包丁を持って飛び出そうとしたそうである。それを残りの者が羽がいじめにして…」
後年の自叙伝『劇画の星をめざして』と重なる記述も多いが昭和のスピード感を感じさせる全力疾走の人生だけに出版社とのやり取りや実地のお金の話などエピソード尽きないようだ。「桜井文庫」は辰巳ヨシヒロの実兄桜井昌一が立ち上げた貸本出版の東考社が主に貸本漫画作品の復刻のため1975年にスタートさせた文庫シリーズ。



吾妻ひでお/定本 不条理日記/太田出版1993・原著1979
全盛期の吾妻ひでおってこんなにつまらなかった…確かに好きで少し集めた筈なのだが。SFは自意識を肥大させるポルノ。何でもありのドタバタが私生活に侵入してくる様子を綴る日記。吾妻氏の場合はそれをずっと雑誌中心の出版メディアでさらし続けねばならなかった。苦しくなって失踪・アル中入院ということにも。それも飯の種に。アル中はれっきと精神疾患ながら、専門病棟の患者には「精神の人」を見下す心理がみられ、これを狙ってキリスト教系の勧誘おばさんが潜入していたり。あれは邪悪だ、壺ならずとも。オタクの大半はネトウヨ。出版不況と没落日本に捧げられる生贄。太田出版の定本シリーズは良心的と思うが、日本の漫画はもうこれ以上何も生み出せないという墓碑銘のようにも思える。

モーリス・パンゲ/自死の日本史/講談社学術文庫2011・原著1984
「三島由紀夫の《意志的な死》は、西欧の悲劇の根底を成す個人主義を日本伝統の自己放棄に組み合わせようとした彼の試みの、要の石となるものである」。
「日本の南の地方では明治政府による帯刀禁止の措置に憤激した士族が反乱を起こす。そこでは蒙古の来寇以来、武士の数は多く、そのかなりが貧しかったので、それだけ誇り高く、かたくなであった。武家の比率は日本全体では全戸数の10分の1弱であったが、薩摩藩では人口の3分の1以上が、鹿児島城下に限ればその3分の2が武士であった」。
「要するに、西欧の人間は、善を守るために世界に対する用心を怠らないことを自分の義務だと考える傾向を持っているのに対して、日本人は自分の住む世界──それこそが彼らにとっては善なのだ──にあまりに強く結びつけられている。だから、現実世界という善を守るために自分自身に用心することが、ほかならぬ、日本人にとっての義務なのである。日本人の超自我が西欧のそれに比べて厳しいからそうなるのではない。日本人の感じている世界とは常に、近く親しい世界、内に向かって閉じた慈しみの世界なのであり、自分を包み、守る世界なのである。その世界に仕えることに怠りさえなければ、世界は自分に対しても寛大にふるまってくれると信じてよいのだ。(中略)日本では、個人は自分の職務とそのまま一体化していて、職務のなかに個人は消えている。自己の全存在を自分の役割のなかに投げ入れるこの社会参加ほど日本で高く評価される徳目はほかにない」。
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