戦争の終わった日<o:p></o:p>
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私たちは正午に重大放送があることを知っていた。昭和20年8月、私は東北の小さな町にいた。前年の6月学童疎開で来てその翌年3月に卒業を迎えたが、東京へ帰らずそのまま町に数名の級友と下宿し、地元の中学に入学した。学校では勉強はそこそこに連日戦時菜園のための開墾に追われていた。私にとって過酷な作業だったが、疎開らという嘲笑をかわすために懸命に鍬を振るった。空腹に耐え「勝利の日まで」ただひたすら頑張る日々であった。戦況は日増しに悪化、本土近海には敵機動部隊が遊弋し、田舎町にも艦載機が襲来し、夜は完全な灯火管制である。農作業に疲れた躯を引きずって帰り、暗い部屋に横たわるだけの中学一年生の生活。<o:p></o:p>
その日、私たちは朝から下宿の裏庭で防空壕造りに汗を流していた。放送までに一段落つけようと、みな黙々と体を動かしていた。正午私たちはラジオの前に座った。私はかろうじて戦争が敗戦というかたちで終わったことを理解したのだが、悔しさというより嬉しさがこみ上げてくるのを押さえようもなかった。これで親元へ帰れる、次代を背負う少国民の気概など泡の如く消えていた。<o:p></o:p>
その夜、電灯を覆った黒い布を私たちは競って外した。飛び散るような明かりが目を射り、光は庭先を照らし夏草が映える。<o:p></o:p>
「こら、疎開ら、なにやってんだ」怒鳴る土地の人に「戦争は終わったんだ、空襲なんてもうないんだ」輝く電灯の下でわたし達ははしゃいだ。<o:p></o:p>
既に私の気持は東京にとんでいた。親兄弟に再会できるという想いは息苦しくなるほどだった。そして嬉しさは日ごとに倍増する、9月17日の日付の入った東京ゆきの切符を手にしたときの、胸の鼓動は今でも忘れられない。<o:p></o:p>
だが、久しぶりに乗った電車の窓から見た東京の街は、真の闇だった。<o:p></o:p>
うたのすけさんにアクセスし始めたのがこのテーマでした。
僕等には知りようもない戦時を、思春期の眼で辿り、それが我が事のように伝わってきます。
貴重な証言をありがとうございます。
お早うございます。「昔のお話」でかなりの精力を使いましたので。昔のはなしも枯渇状態です。(笑い)
終戦を迎えた多感な少年の期待感と不安感がよく伝わってきます.
戦後団塊世代の私達の物心ついてからの思い出は,正に日本の戦後復興劇そのもので,貧しくても懸命に生き,日増しに物が増え,日増しに便利・快適になる歴史でした.
うたのすけさんの戦中戦後史,読み応えあり,私の一番の楽しみです.
下市のだるま市,行かれたんですね.昔の水戸の風情がいちばん残っていて,私も大好きです.
でも私はまだ小学一年生でしたから、終戦のあの放送の意味はわからず、大人たちの正座した神妙な顔をじっと見ているだけでした。あの時の天皇陛下の声だけは はっきり覚えています。
うたのすけさんは中学一年という多感な時ですから、さぞ複雑な気持ちであった事でしょう。
お早うございます。
だるま市、下町の風情って感じでした。行き交う人の中で近所の人、2人に会いました。一人は自転車、もう一人は歩きで来たと意気軒昂でした。
終戦の日のことは生涯忘れないでしょう。
お早うございます。
一年生でしたか。大変なおもいを経験なさったことに変りはありません。そうでした、みな正座してガーガーいうラジオに聞き入っていました。
お早うございます。
仲間と大いにはしゃぎながらやりました。
「疎開ら」縁故疎開や学童疎開者の総称で、地元の人たちには侮蔑といった気持はなかったと思いますが、言われるほうとしてはいささかといったところでした。