宴乃桜/徒然お箏日記

お箏弾き「宴乃桜」の日記です。

もう少し呆けていたいのですが…

2012-05-25 12:00:46 | Weblog
師匠の十七回忌演奏会の後、あまりにすっきり清々しく、とても清浄な空気の中に居る感覚で、自分の中には何もなくなってしまいました。無重力状態みたいです。

演奏会中も終演直後も、これは現実だろうか…というような空気感がありました。曲が次々と進んで行くのに、あれほどの平常心でいられたのも初めての事で、粛々と時が流れて行った気がします。

「やっぱり何か降りて来てたんですね。」
と誰かに言われました。
うちには1人、母位の年の人がいるのですが、ある曲で、配置がこの人と隣同士になりました。(って私がそうしたのですが。)

その曲の時、幕が上がった時から演奏中ずっと、亡き師匠中西先生に守られている実感があり、ありゃあ~…と思っていたのですが、隣のこの年輩の人もそれを感じていたといいます。

守られてる実感があったんです。これは本当に不思議な体験です。一生の中でこういう体験をするとは、人生とはいくつになっても初めての体験は出て来るものです。

万事そんな感じで、幹部も、大人も子供も、忙しいけれど舞い上がるという事はなかった風に見えました。

中学校箏曲部の演奏の時は、何か立ち上るものがあった、と客席に言って頂きました。まさに私も演奏中感じていました。あの子達は一点に集中し、あの人数が1つになって、何かが底から沸き上がって来て、空に上がって行ったのを感じました。人間の精神力というのはこんな風に表れて来るのか…と、私は弾きながら泣きそうになりました。部員達には言葉が見つからないほど感謝しています。

語り尽くせない演奏会ですが、それだけに呆けてしまい、呆けたままでしばらく過ごしたかったのですが、翌日から小学校クラブが始まったり、尺八の先生には
「呆けずにまた頑張って下さい。」
とお励まし頂いたり、

やっぱり次に進むしかないか、と日々呆けた頭と体に鞭打っています。

昨日あるお母さんと話して盛り上がりました。あの空気感、皆の精神力のすごさ等。今何もなくなっています、と話すと
「なくなったらまたどんどん入って来るのだからいいじゃないですか。」
とおっしゃいました。

ああ本当にそうですね…。

確かに「無」になり、原点に帰った気がしていたので、また再出発です。新たなスタート。

このお母さんもいつも素敵な事を言って下さいます。演奏会前に、
「(社中の)子供達も、今回は何だかいつもと違うぞ、と感じてる、真剣です。」
と言って下さったのもこの方でした。
なんと有り難い事でしょう。

どうやら呆けていてはいけないようです。人生で一番大きな節目の演奏会でした。これを超えて、また0からスタートです。呆けるのは悪い事じゃない気もするので、どこか呆けた部分を持ちながら、また歩き始めようと思います。

次の目標は夏の浴衣会です。ぼちぼちじわじわ頑張ります。皆さんありがとうございます。(^-^)

絆とは?

2012-05-25 02:30:04 | Weblog
辞書によると、

家族、友人などの結びつきを、離れがたくつなぎ止めているもの

という事です。

ふ~ん…
なるほどね…
家族友人などの結びつきか…

結びついている親しい間柄にだけ「絆」というものは存在する訳ですね。

では結びついてない関係には「絆」というものは発生しない訳ですね。

何が言いたいかというと、
お互い思い合う関係に「結びつき」があり、「絆」の生まれる母体状態となる訳で、

双方の思いやりのバランスが悪い場合は結びつかないのだから、絆など生まれるはずはないのですね。

それに絆とは、私の経験上、ある時突然生まれるもののようです。相手の愛情を知る瞬間があり、ここまで思いやってもらえるとは、と愕然とし、その瞬間に、自分は生涯この人に、と心がはっきり決まるようです。

私はその両方の立場を経験しています。

やるせないのは、いくら思いやっても通じない、通じてるのかどうかわからない、という時です。

こうなると「もう適当でいいや」と、思いやりも薄くなって行くのは致し方ない事だと思います。

この世の人は2人として同じ人はいません。1人1人を大切にしていきたいものです。