自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

失われて気づく日常~憲法を考える

2015-05-23 21:51:14 | 憲法を考える
 毎日新聞朝刊(2015年5月17日)は一面トップに、長田弘さんの死の前日にインタビューした記事「日常」を愛して~戦争、災害・・・失われて気づく」を掲載している。

 長田弘さんのことは『こころの時代~宗教・人生~「風景を生きる」(初回放送2014年3月9日)』で知り、葉が落ちて枝の先の一本一本が見える樹の形が好きな「自然」を愛する方と思っていたが、この記事で番組の録画を再度見て「風景」とは「日常」のことで、「当たりまえ」と思っていたことは実は巡り会えた「奇跡」であったのだと理解できた。
 「日常の風景や季節の巡り一つ一つがとてつもない『奇跡』に思われるようになってきた。自分を世界の中心にするのではない生き方とは何か」と、番組は問うている。
 私がこの地球に生まれたのも奇跡であり、一人で歩くことが不自由になったとき「当たりまえ」のありがたさに気づく私とも重なる。ぼんやり見つめていたことに、ある視点を与えられると視野が広がり、考えを深めることができる。 長田弘さんは「自然」や「日常」を「生きる意味の哲学」にまで深め、死の直前まで語っていただいたことに感謝したい。

 また、「風景を生きる」の文字起こしは、ブログ「私の山歩きと旅」「こころの時代」へようこそで読むことができる。この番組は「自然とデザイン」のビデオライブラリに入れたいと思っていたが、このブログでいつでも皆様に読んでいただくことができる。根気のいる文字起こしの作業をしていただき、これもありがたく感謝したい。

 私は言葉を信用しなくなっている。口蹄疫は「ワクチンでは感染を阻止できない」という学者の言葉、福島の「状況はコントロールされている」「汚染水による影響は完全にブロックされている」と言う安倍首相の言葉。この度の安保法制の閣議決定にあたっても、「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にありえない」等、「絶対ないの類」がいろいろあるなと思い他の発言を探したら、よほど安倍首相は自分の言葉に自信があるのだろうご自身の「公式発言語録」まであった。

 文字に残された語録よりは直接本人の話す姿の方がその人をよく理解できる。昨年末の衆議院解散・総選挙にあたって、2014年11月18日夜に放送されたTBSの「NEWS23」では「なぜいま解散か?」、「消費税増税の凍結」は選挙の争点にならないのではないかか?」との質問に対して、「解散しなければ野党は政権を取れない。なぜ解散に反対するのか大変驚いている」と論点をズラしている。このブログの下段の「ニュースZERO 安倍首相 村尾キャスターと大激論!」は削除されているが、2014年11月20日に登録されたYouTubeで、村尾キャスターは「選挙に税金を600億円近く使って、本当に時期は今なのか」と正当な質問をしているだけで、安倍首相はここでも論点をズラすので大激論にはなっていない。

 この安倍首相の論点をズラす不誠実な言葉は国会の「党首討論」でも見られる。
党首討論:岡田vs安倍ビデオ
 岡田(民主党)は「日本の戦後の平和を支えた二つの要因は『日米同盟と憲法』とし、首相は憲法が日本の平和を守ってきた役割をどう考えているか」と質問したが、首相は『憲法』の平和主義を基本的考えとして守るとしながらも、戦後の日本の平和を支えたのは『日米同盟と自衛隊』として、憲法の論点をズラしている。
党首討論:志位vs安倍ビデオ
 志位(共産党)は、「今年は戦後70年、この節目に当たって日本が、そして総理がどういう基本姿勢を取るかは重大な問題、戦後50年の村山談話では日本の『間違った戦争』を詫びているが、総理は過去の日本の戦争は『間違った戦争』という認識はあるか」という質問に対して、首相は「戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓で戦後の平和の道を歩んで来た。だからこそ地域や世界の繁栄や平和に貢献しなければならないと決意している。村山、小泉談話を全体として踏襲することは何度も繰り返してきた」と、ここでも論点をズラしている。

 このようにアチコチで論点をズラして嘘を平気で言うのは、嘘を嘘だとは思わず、その論点をズラしているところに本心があるということであろうが、どのような日常の風景を見ながら育ち、自分を世界の中心にすることを生きる誇りとしたのであろうか。個人がどのような思想信条を持とうが自由であるとしても、政治家は憲法を守らねばならない。国民主権、平和主義と基本的人権の憲法を守らないことは重大な政治犯である。論点をズラして憲法と誠実に向かい合わず憲法を守らない政治家は独裁政治を「当たりまえ」と考える支配欲の旺盛な危険人物となる。核や軍事力は国内においては抑止力と説明されるが、仮想敵国にとっては抑圧力となる。一つの国では守れないと集団的自衛権とかを整備する軍拡競争をすることは相互信頼を削ぎ戦争の危険性を増すことはあっても、不戦の誓を守ることには決してならない。国民にとって戦争は絶対悪であるが、自分たちだけは安全地帯にいると妄想して、国民の命と税金を使う権力を得ることを利益とする強欲な「死神集団」や「戦争オタク」は、いつの時代もどこの国にも必ずいることを忘れてはならない。日本の戦後の平和を守ってきたのは日米同盟ではなく、アメリカの都合に抵抗する憲法があったからではないか。自衛隊も沖縄基地もアメリカの都合で存在し、日本の憲法よりは日米同盟を重視することは独立国を自ら放棄することでもある。それでもアメリカの傀儡政権となって国民を支配することに満足する道を選ぶのであろうか。憲法の平和主義を重視するなら、自衛隊を武器で戦う国防軍とするのではなく、赤十字のように敵味方なく災害のあるどの国にも、緊急に重機を持ち込み復興を援助する国際災害援助隊とすべきであろう。

 仮想敵国を想定した集団的自衛権や日米同盟による積極的平和主義よりも、日本の原発事故からの復興こそ切実で緊急、しかも長い年月を要する日本の現実の課題だ。原発事故は「コントロールされている」とか「汚染水は完全にブロックされている」と言うのは現実を直視しない不誠実な言葉であり、憲法違反の集団的自衛権を整備する安保法制に熱心なのは、一国の首相としてあまりにも無責任である。

 「赤信号、誰もいないのに渡らない」と一人だとバカ正直な日本人である一方で、「赤信号、皆で渡れば怖くない」と集団でルールを破ることには無頓着な日本人でもある。個人と集団、身内と余所者に対してアンバランスな日本人が、「気がつけば自由な日常が失われていた」ことにならないように、何が「当たりまえ」のことか日頃から考え、他者を尊重することで平和が得られることをよく知るべきだと思う。

参考:
憲法を考える~成立の経緯にどのような問題があるのか? (2015.5.10)

初稿 2015.5.23

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