自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

新自由主義と子供たちの教育を考える

2015-03-11 14:10:01 | 自然と人為
 現代はお金が心を支配する時代となり、平等な社会よりも個人の自由や市場原理を優先し、政府による介入は最低限にし、公的分野(社会的共通資本)の比重を低めて民間の活力に全てを委ねるべきだという新自由主義がアメリカでも日本でも政治的力を増して来ている。
 しかし、ローレンス・レッシグは「お金が政治を支配する」ことに対して、マイケル・サンデルは「市場が生活を支配する」ことに対して警鐘を鳴らしている。

 新自由主義は、人間の尊厳をかえりみない地域社会を軽んじる経済理論は支持できない。大多数の人々にとって被害が大きいこの新自由主義を、国民はなぜ政治に許すのであろうか。
 新自由主義を主張する人々には小賢しくエネルギッシュで脂ぎった顔が多いが、愚直で清々しい顔は見られない。しかもそういう人達に限って「教育が大切だ」と言う。

 今、子供は幼稚園から受験競争に鞭打たれている。子供だけで遊ぶ世界は大人によって破壊されてしまった。大人は子供をどこに連れて行こうとしているのか。大人が子供にとって大切だと思っている「勝ち組のエスカレータ」は幻想に過ぎない。コンピュータ(日常的にはスマホ)の発達で、記憶や計算や語学に求められる能力は劇的に変化するであろう。目の前のことに追われる大人の世界の今を、子供にも求めることは子供にとって大きな不幸であり、人類の未来をも暗くする。今の知識偏重教育やその成果が求められる受験は、答のある世界をいかに正確に早く多く答えることが出来るかを問うだけである。しかし、社会には指針となる憲法はあっても答えはない。答えのある知識は、「知=権力」。知の目的は【コントロール】することにある。そのような知識の競争をさせると、競争に勝つと「人を支配することが偉くなること」と勘違いするようになる一方で、偉い人に支配されるのは仕方がないと「人生を諦める人」を増やしてしまう。

 しかし、宇宙に1000億個の銀河、1000億個の地球があり、大脳で数百億個、小脳で1000億個、脳全体では千数百億個の神経細胞があるように、子どもの能力には無限の可能性がある。どのような能力を開花させるかは、既知の答えを求める知性よりも自然を含めて他者に感動する感性を磨き、興味に集中して頑張れる体力を鍛錬することにより得られる。創造力は話すこと書くこと、描くこと、歌うこと、弾くことなど、口から指先までの身体を鍛錬することで磨かれる。身近な例ではスマホから得られる情報をどう利用して自分の意見とすることができるか、自分の意見の根拠を明示し、意見を表明するために喋ること、書くことが重要な能力として求められるようになる。キーボードを早く正確に叩く能力も必要だが、日本人なら書道も自分を表現する大切な財産だ。絵画も音楽も身体で表現する作業であり、これらの教育に時間と楽器や器具を与えるべきである。そして教育にとってもっとも大切なことは、様々な能力を持っている仲間が認め合い、協力していくことを楽しみにできるような世界を築いていくことである。

 参考:ケン・ロビンソン: 学校教育は創造性を殺してしまっている
    ケン・ロビンソン卿: 教育に革命を!
    ケン・ロビンソン: 教育の死の谷を脱するには
    ローレンス・レッシグ:法が創造性を圧迫する

 「教育が大切だ」という裏には「道徳教育」を大切にする思いがあるようだが、国を愛するとは「国旗・国歌」を強制する表面的なことではない。支配欲が旺盛で政治家になった人や家業として政治家を継いだ人は、ある党のように地域の支配者層である「後援会」の期待に応えるために、表面的なことしか目に入らないし、表面的な問題にこだわる。国民主権、基本的人権そして戦争放棄の憲法で日本の素晴らしさを教え、それを実践して世界や世間に尊敬される政治家が多く出ることや、自然の中で学び地方を財産と思う子供が多く育つことで、日本を誇りと思う国民も多くなる。それが愛国心であり、愛国心は地域を愛する愛郷心から育つものだ。地域に「憧れの東京文化」を持ち込んでも、東京に憧れ地域を捨てる若者は増えても地域は育たない。それよりも、「茶の本」は日本の文化と精神の深みを伝える書物なので、小学校から大学まで年齢に応じた教養として教えるべきであろう。

 組織も国も「支配を目指す権力」は腐敗する。明治憲法の戦前では戦争に反対すると治安維持法で逮捕された。戦後70年、新しい憲法のもとで、敵を作らず軍需産業を起こさず、平和を守る国として世界に認められてきたが、今では「積極的平和主義」とか「集団的自衛権」という誤魔化しの言葉と態度で、改憲を堂々と目標にする党が大きい顔をして政権に座っている。時代が変わった、今や日本一国では日本を守れないという「積極的平和主義」も「集団的自衛権」も言葉を換えれば「積極的に敵を多く作る」ことであり、他者を尊重しないで自国の民主主義を世界に押し付けるアメリカに追従することは、和を重んじる美しい国日本の文化にもなじまない。先日、ドイツのメルケル首相が来日して講演し、「過去と隣人に謙虚に向き合うこと」「ドイツで原発を廃止した理由」を語った。原爆と原発の被災国でありながら電力供給の重要な電源として原発再稼働を目指す政府を持つことは恥ずかしいことだ。経済成長には限界があり、しかも経済成長は格差を拡大しても人の心を豊かにはしていない。ドイツのように地域自給の電力供給システムを推進すべきだ。「原発はアンダーコントロールしていて海を汚していません」とオリンピック開催を誘致し、英国のウイリアム王子を「福島県産農産物は安全だ」と日本料理でもてなすことも恥ずかしいことだ。安全な福島県産農産物は福島の苦しみを共有するためにも、政府や経産省、東電で個人の負担、責任として買い上げるべきであり、日本の「おもてなし」の心を穢して欲しくない。

 本来なら公務員である官僚や政治家が憲法を守らない行為は憲法違反で厳罰に処すべきことであるが、国が腐敗し立法、行政、司法の3権が癒着して、憲法が彼らを抑える役目を放棄させられてしまった。今は憲法を守ることこそが国民に与えられた最高の道徳であり、国民が目覚めて憲法改正を支持する政治家を選挙で駆逐するしかない。



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