深尾葉子著『魂の脱植民地とは何か』の『まえがき』には、ゲリー・ラーソン(英語)の風刺画(1コマ漫画「レミングというネズミ目の小動物が集団自殺するという寓話」)を引用し、「先に死が待っていても、無表情なまま次々と集団に付き従って、死への行進をする。・・・たった1匹だけ気付いていても、誰かにそれを伝えるわけでもなく、また流れに逆らうわけでもなく、自分だけ助かるように浮き輪をつけながら、見かけ上は集団のながれに歩調を合わせてついていっている。それはあたかも危機を感じつつ、何の警鐘もならさず、みずからの保身のみを図る姿を連想させる。本書の問いは、まさにこの絵に凝縮されている。自分自身の置かれている状況、自分自身のありかた、についてフィードバックがなく、何ものかにとりつかれたように目の前の変化にのみついてゆく。これを本書では『呪縛』と呼び、その状態にある人間を『魂が植民地化された状態』と呼ぶ」としている。
ゲリー・ラーソン(英語)の風刺画
レミングの集団自殺 (レミングの集団自殺映像)
日本語には主語がない。「吾輩は猫である。」の~はの表現は、主語で始まるドイツ語の翻訳により明治憲法が作成されたことに始まる。
柳父章著「近代日本語の思想(2004)」には、「漱石の小説『吾輩は猫である』は、どうやら多分に、この近代日本語文体への鋭い風刺を含んでいたようである」とある。「個人」も「社会」も外来語(翻訳語)であり、明治時代も今日でも自律した個人よりも空気に合わせる世間が大切にされる日本である。葵の御紋の印籠(権威・権力)をかざして悪代官を退治する「水戸黄門」が大好きな国民でもある。「レミングの集団自殺」の風刺画は、日本では戦争で経験したように政府やマスコミに煽動されると日常的に起こりうる世間の暴走を連想させる。
西欧で個人が生まれたのは12世紀ルネッサンス、教会の告白からであった。そのことの言説についてはここでは触れないが、阿部謹也「世間論序説 西洋中世の愛と人格」では、フーコーの言葉「個人としての人間は、長いことほかの人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで自己の存在を確認してきた」を引用し、「私たちは今もなお、世間という枠組みを通して、自己の基準を他の人間との関係においていないだろうか」と問い、個人を単位として構成されている社会と日本の世間の違いを指摘している。日本の呪縛は個人を集団に従わせる「世間」というものであろう。
この「世間と社会」の違いをさらに学びたいと阿部謹也「西洋中世の男と女」を読んでいて、アメリカはヨーロッパの絶対王政から逃れた人々で作られたので、新しい国のようで銃社会や陪審裁判などに中世の文化を色濃く残していることを知った。銃社会は豊臣政権の刀狩りのような強力な中央政権(絶対王政)がアメリカにはなかっただけでなく、むしろ絶対王政から逃げてきた人々によって建国された国なので、個人の自由は個人で守り、政府による平等より個人の自由を大切にするという強い意識(自由主義)がアメリカの建国の精神として残り、銃社会の背景にある様に思う。そしてアメリカの民主主義に従わない国を敵視して、「世界の警察」となり戦争の引き金ともなってきた。アメリカは民主主義の国とされているが、人種差別、銃社会、そして「世界の警察」と民主主義はどうつながるのであろうか。フランス革命は自由、平等、友愛を掲げたが、アメリカの独立宣言は、イギリス支配からの独立と自由を大切にするあまりに、原住民であるインディアンや、奴隷として連れてきた黒人などの他者を尊重しないアメリカの『呪縛』が生まれたのであろうか。
参考:揺らぐアメリカ民主主義
民主的国家:トクヴィルの功罪
アメリカと今いかにつきあうか―日・米・韓で、今、考えたこと―
アメリカの歴史:民主主義の発達と領土の拡大(その1) (その2)
アメリカ合衆国の歴史
アメリカの保守とリベラル
ゲリー・ラーソン(英語)の風刺画
レミングの集団自殺 (レミングの集団自殺映像)
日本語には主語がない。「吾輩は猫である。」の~はの表現は、主語で始まるドイツ語の翻訳により明治憲法が作成されたことに始まる。
柳父章著「近代日本語の思想(2004)」には、「漱石の小説『吾輩は猫である』は、どうやら多分に、この近代日本語文体への鋭い風刺を含んでいたようである」とある。「個人」も「社会」も外来語(翻訳語)であり、明治時代も今日でも自律した個人よりも空気に合わせる世間が大切にされる日本である。葵の御紋の印籠(権威・権力)をかざして悪代官を退治する「水戸黄門」が大好きな国民でもある。「レミングの集団自殺」の風刺画は、日本では戦争で経験したように政府やマスコミに煽動されると日常的に起こりうる世間の暴走を連想させる。
西欧で個人が生まれたのは12世紀ルネッサンス、教会の告白からであった。そのことの言説についてはここでは触れないが、阿部謹也「世間論序説 西洋中世の愛と人格」では、フーコーの言葉「個人としての人間は、長いことほかの人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで自己の存在を確認してきた」を引用し、「私たちは今もなお、世間という枠組みを通して、自己の基準を他の人間との関係においていないだろうか」と問い、個人を単位として構成されている社会と日本の世間の違いを指摘している。日本の呪縛は個人を集団に従わせる「世間」というものであろう。
この「世間と社会」の違いをさらに学びたいと阿部謹也「西洋中世の男と女」を読んでいて、アメリカはヨーロッパの絶対王政から逃れた人々で作られたので、新しい国のようで銃社会や陪審裁判などに中世の文化を色濃く残していることを知った。銃社会は豊臣政権の刀狩りのような強力な中央政権(絶対王政)がアメリカにはなかっただけでなく、むしろ絶対王政から逃げてきた人々によって建国された国なので、個人の自由は個人で守り、政府による平等より個人の自由を大切にするという強い意識(自由主義)がアメリカの建国の精神として残り、銃社会の背景にある様に思う。そしてアメリカの民主主義に従わない国を敵視して、「世界の警察」となり戦争の引き金ともなってきた。アメリカは民主主義の国とされているが、人種差別、銃社会、そして「世界の警察」と民主主義はどうつながるのであろうか。フランス革命は自由、平等、友愛を掲げたが、アメリカの独立宣言は、イギリス支配からの独立と自由を大切にするあまりに、原住民であるインディアンや、奴隷として連れてきた黒人などの他者を尊重しないアメリカの『呪縛』が生まれたのであろうか。
参考:揺らぐアメリカ民主主義
民主的国家:トクヴィルの功罪
アメリカと今いかにつきあうか―日・米・韓で、今、考えたこと―
アメリカの歴史:民主主義の発達と領土の拡大(その1) (その2)
アメリカ合衆国の歴史
アメリカの保守とリベラル
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