自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

どのような畜産のデザインを描くのか(1)

2014-12-07 18:30:11 | 自然と人為
肉牛生産における競争と共生に関する技術論
日本の肉牛,28巻6号,29巻1号,29巻3号
1995.11,1996.1,1996.3.
に多少の修正を加え、改題(2008.7.2)した。

目次
はじめに
1. だれのための技術か
2. アメリカのHRMに学ぶ
3. 多くの顔を持つ牧場
4.理想と現実とのギャップをどう埋めるか
   4-1)自然と共生する農業
   4-2)コミュニティと共生する農業
    4-2-1)生産と消費,労働と生活
    4-2-2)農業は生活である
    4-2-3)「農的くらし」への夢
    4-2-4)「農的くらし」を地域に広げる
   4-3)経済と技術と共生する農業
    4-3-1)生活を重視した生産
    4-3-2)コストをゼロにできないか
    4-3-2-1)放牧
    4-3-2-2)生産のなかで資源を循環させる
    4-3-2-3)乳牛を肉資源として最大限に活用する
    4-3-3)需要の大きいマーケットを開発する
    4-3-4)自分の技術にあった素材を選ぶ
    4-3-5)生産と消費を近づける
    4-3-6)健康と食の安全を提供する
おわりに
参考文献

はじめに

 今はボーダレスの時代と言われる。ボーダレスとはこれまでの枠組みが壊れることであり、 政治,経済,社会のあらゆる領域において、これまでの組織と組織,個人と組織の関係が崩壊し、 新しい枠組みの誕生を必要としている。また、地球環境,資源および市場が有限であることも我々は知った。

 科学の発達は、これらの構造の変化を規定する「技術革新」をもたらしたが、 同時に、科学は全体を部分に切り刻み、身体と心を分離した。科学は、部分として再現できるもののみを対象として取り扱い、全体を見えなくさせ、対象の中から価値観を浮遊させてきた。 今や我々は、「科学技術」によって価値観や世界観が支配されていくという危うさに、地球規模で 直面している。また、科学の発達は実体験のない知識を増加させ、コンピュータの世界にはバーチャル・ リアリティ(仮想現実)が実現されようとしている。まさに、科学の発達は現実と虚構の世界をもボーダレス 化させつつあるのである。

 一方、農業は「田をつくり米ができる」という言葉に象徴されるように、「生きていく糧」 を得るための自然と生物に対する人間の営みであり、農学は人の自然と生物への 対応の仕方を取り扱う学問である。「生きていく糧」には物と心の両面があるように、 自然と生物への対応の仕方には価値観,世界観がともなうものである。しかし、 科学はこれを切り捨てることで成立し、「進歩」してきた。 農学が「科学」であろうとすればするほど、「農業」から離れていく宿命もそこにある。 したがって農学の「成果」としての「技術主導型」の農業には、注意深くあらねばなるまい。

 今、時代は新しい枠組みを模索している。農村には人の心を癒す自然と景観があり、 人が自然と社会に等身大で向き合っていける場が残されている。食糧の供給や自然と景観 の保護というだけでなく、今日の教育,福祉および健康の問題等、農業の貢献できる 場は大きいはずである。新しい枠組みは、農業サイドから積極的に提案しよう。 工業の論理--それは物と心の分離により生れた科学の申し子である--のもとに疲弊し、 自信を喪失してきた農業を、物と心の糧の農業として復活させるチャンスがきている。

1.だれのための技術か

 「規模拡大によるコストダウン」という高度経済成長期の目標が、今も農業の発達のモノサシ として使用されているが、この道一筋のお手本を我々は養鶏産業に見ることができる。
 養鶏産業は、過激な競争のなかで絶対多数の養鶏仲間を失ってきたが、その代償として 以前より繁栄し、社会的発言力を一層強固なものとしてきたのであろうか。何をもって繁栄 とするかの判断はそれぞれにお任せするとして、少なくとも確かに言えることは、「高級食品」 であった鶏卵がスーパーの安売りの目玉商品になってしまったことと、農家が鶏を飼わなく なったことである。

 百姓という言葉が使われなくなったとき、農家は自分で食べる卵さえもスーパーから買って くることに、何も疑問を感じなくなってしまった。むしろ、そのことを進歩だと信じるようになって しまったのかも知れない。「技術」を過信すると、人の価値観までもが浸食され、「技術」の下僕 となってしまう例は、この他にもたくさん認められる。牛乳が余っていようがいまいが関係なく 高泌乳技術、高級肉の市場はそれほど大きくないのに猫も杓子もビタミンA欠、和牛子牛市場 における育種価表示、ETによる乳牛からの和牛生産、これらの技術によって一部の生産者は 潤うかもしれないが、農家戸数を維持し、消費者に満足を与える道筋が確かに見えてくるのであろうか。

 それぞれの技術の評価については、ずいぶんと反論も多かろうが、私には農家間競争を あおることはあっても、農家戸数の維持につながる技術や技術の活かし方とは思えない。 農家が独自の力で、いろいろな道を選択をすることに異を唱えるつもりは毛頭ないが、 少なくとも国や県がこれらの技術に関与するときには、そのことによって生産と消費の関係 がどのように改善されていくのか、慎重に検討しておく必要があろう。

 産地間競争や農家間競争は、競争による生産の活性化を目論むものであろうが、それは パチンコで勝った味が忘れられず,また負けたくやしさでますます深みにはまっていくような 麻薬的な活力であり、農業の健全なあり方からはほど遠い、と私は思っている。今、農業にとって最も大切なことは農家仲間をこれ以上減らさないための技術の活かし方と、 多くの農家の努力が報われるような生産と流通の枠組み創りではなかろうか。

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