自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

日本では誰にも歌えないストレートな歌~ロック歌手、忌野清志郎

2015-08-31 20:26:05 | 自然と人為
ロック歌手、忌野清志郎は無口で大人しい感受性の豊かな人だった。歌を通して自分の考えや気持ちをストレートに発信し、何事もあいまいにする日本の常識に挑戦し続け、58歳の人生を完全燃焼させた。
 彼の交流関係は広いが竹中直人は「自分のエネルギーを一生懸命、表現していた方。誰にも優しくて。だから何て言うんだろう、爆発しちゃったんじゃないですかね、気持ちよく。」と哀悼し、富沢一誠(音楽評論家)は、「ロックは時代の刺激剤であるという信念のもとに、ロックは反骨心であるということを身をもって表現したと評価している。

  ラストデイズ「誰にも歌えない歌~忌野清志郎×太田光

 「今、この日本で政治がどれほどの影響力を持っているというのだろうか? 自分が投票しても、あるいはしなくても 普段の生活に変わりがないとハッキリ言いきれるならば・・・ 選挙に行かない我々の態度は正解なのではないだろうか」
             太田光「TV Bros.」1999年10月30日号
 「それまで爆笑問題を好きだったんだけど あれを読んでガクッと来てね 政治に無関心でいいなんて言っていると・・・ 君の息子なんかが戦争に行っちゃうわけよ」
             忌野清志郎「TV Bros.」1999年12月25日号

  

清志郎は実の両親の顔を知らずに育った。父親は戦死し、3歳の時母親とも死別、親戚にも馴染めず、大人と口がきけない寂しい幼少期を過ごした。そんな清志郎がのめり込んだのは音楽。無口でおとなしい少年はやがて時代の寵児へと駆け上る。しかし、過密なスケジュールでバンドの人間関係にも不協和音が響き、清志郎の心と体は悲鳴を上げ始めた。

「こんなもんだったのかなと思ったよね。やっぱり売れるということは
こんなつまんねえことなのかなと思ったよ。
肝臓が悪くなっちゃってさ、医者に行ったら
『もう一生治らない』って言われてね。」

新たな道を踏みだそうとしていた清志郎
遺品の古いアルバムが見つかり母との出会いが その背中を押した

帰らざる人とは知れど わがこころ
なほ待ち侘びぬ 夢のまにまに --- 母 富貴子(享年33)

彼女は激しい恋をして そして、彼氏と結ばれた
ペラペラの薄っぺらな紙に 夫の戦死が書かれていた。
彼女はもう諦めていたのかもしれないけど
あっちこっちに行ったり
帰ってきた夫の仲間に 消息を聞いて回ったり
夫の無事を祈っていたんだ
彼氏のことを想って 歌を詠んだりもした

忌野清志郎「偶然とはいえ、血のつながりというか感じました。
       そういうことも歌っていかないとなあと思いました。」

1986年の秋、35歳の清志郎はロンドンで初めてのソロアルバムのレコーディングをした。

バンドキーボード「清志郎とは楽しい思い出が沢山あるよ。兄弟みたいなもんさ。互いの文化は違うけど、ロックンロールを通じて心はすぐに深くつなっがったのさ。」
バンドギター僕たちのいる歌の世界ではどんなことを歌ってもいいんだと、清志郎は気付いたと思うよ。
太田光「清志郎さんがあんたたちに会ったことで完全に悪影響だと思う。」
バンドキーボード「そんなことはない。清志郎は日本では見つけられなかった何かをこの国で見つけたんだと思うよ。」

チェルノブイリ原発事故(1986)
1988年デビューの「爆笑問題」太田光はライブハウスで時事問題を皮肉った過激なコントを演じていた。太田光「世の中の話題といえば原発だった。どれだけ反発があるかというのは、オレもそのネタをやっているし、いかにテレビでできなかったかということも分かるし、その中で唐突に、ど直球、どストレートに来るというのは、あんなに言葉の幅を持っている人がなんでこんなストレートなことをやっちゃうの。」

 忌野清志郎「自分の考えていることとか、自分の気持ちはガンとして外に言ってないとダメだなと思ったの。すごく(イギリスは)面白かった。だから分岐点ですよ。僕の人生の。」

 「風に吹かれて」が新しい旅立ちの歌となった。反原発の「サマータイム・ブルース」もアルバム『COVERS(カバーズ)』で発売する予定であった。「サマータイム・ブルース」の曲中には、「原発とは・・・」と長々とセリフを清志郎とは高校の同級生三浦友和が語ってる。

 多くの仲間がアルバム『COVERS(カバーズ)』に協力して参加したが、表現がストレートすぎるので、「そういう方向に行くのは良くない」と反対した者もいる。太田光も「言葉をオブラートに包んで作品性を高めるのがマットウな表現」だと考える。しかし、それは人にやさしいこと他者を尊重することと、権力者や支配者に気を使うことを混同しているのと同じだと私は思う。太田光は「政治家よりは忌野清志郎の方が影響力は大きい」と言うけど、忌野清志郎は権力者や支配者が我々庶民の生活にどんな影響を与えているかに敏感なのだ。やさしい感受性の高い清志郎には権力者や支配者の暴力への怒りが生きるエネルギー源になっていたと思う。やさしさと権力の暴力への激しい怒りは根っこが同じで、どちらも演技なんかじゃあない。本気なのだ。私は彼の厚化粧と派手な歌う態度に近寄れなかったが、あれはロックスターであることを演技していたのであり、この番組で彼の真のやさしさと権力への怒りを知り、そのことを多くの方にも伝えたいとこのブログを書いている。

 しかし、1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。清志郎の思いは打ち砕かれた。

「呆れましたよ。なんでだよ・・・ どうしてだよ。たかが歌だろ。
 それが企業にとってどうとか
 そんなふうに捉えられちゃうっていうのは
 ちょっと心が狭いんじゃないか・・・
 それが日本の常識ってやつか・・・」

その後、謎のバンド「THE TIMERS」が出現、あくまで新人だと言い張り、各地のイベントなどに乱入した。清志郎はあくまで歌という手段で社会を問い続けた。時代と共に大きな矛盾を抱えながら自分だけの歌の道を行く清志郎。

しかし、55歳、喉頭癌で活動を一時休止し、その2年後(2008年2月)に復活のコンサートで頑張ったが、2008年7月、左腸骨への転移を発表、2009年5月2日、日本の常識を問いつつ燃え尽きた。

参考:
反原発!今になってわかる忌野清志郎のスゴさ!
国会議事堂前に反安保デモ35万人!(2015年8月30日)
ロック界のスーパースター・スティングと「ザ・ラスト・シップ」

初稿 2015,8.31 更新 2018.9.8(リンク先修正)

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