考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『街場の文体論』 写経。

2012-07-28 11:41:07 | ◎読
『寝ながら学べる構造主義』以来だからかれこれ10年ほど内田樹の書くものを読んでいることになるけれど、言葉の横溢と、逆に畏怖(慎重さ)についてはひれ伏すばかりだ。そのテクニカルでアクロバティックな言葉の起用は、見方をかえれば、言葉による欺瞞ともいえるかもしれないが、そうだとすれば、その欺瞞の技術をなんとか習得したい。

『街場の文体論』は、クリエイティブ・ライティングの講義をまとめたものと言うことになっているが、果たしてこれをクリエイティブ・ライティングと呼んでいいのか?それとも、これこそがクリエイティブ・ライティングなのか?正直よくわからない。ただ、一般的に想起されるクリエイティブ・ライティングの学習により授与されるものがオペレーション・マニュアルであるとすれば、こちらはマインド・マニュアルであり、よく言われるように、あるテーマを習熟し状況適応的にかつ自律的に実践していくためには、必要なのはオペレーションでなくマインド、つまり「構え」を身体に浸透させることこそが重要である、ということをまさに具現化した講義/テキストとなっている。

例によって気になるテーマのほんの一部を写経してみた。今回は、まず紙に写し、それをデジタル化しているのだけれど、いまさらながら、読む、紙に書く、キーボードで入力するというそれぞれの行為で、言葉と流れの印象がまったくことなることに気づく。読んで腑に落ちたものでも、書いてみると「え?これって何で書き写そうと思ったんだっけ?」とわからなくなる。それをもう一度書き写してみると文章構造・流れすらおかしく感じる。しかし、二度書き写したものをもう一度読み返してみると、箴はもとより文体のリズムさえも最初の印象以上に「重要なもの」として切迫してくる。これはなんだろう。こういうことを繰り返せば、「言葉」は身体化できるのだろうか。そういった行為により練達できる「言葉」とはいったいなんなのだろう。


●「どうして、ただの一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」(モーリス・ブランショの引用)

:たしか『他者と死者』でも引用されていた。これに続く内田樹の解説は「あらゆる言語表現において、他者は必ずそこにいる。他者を伴わない言語はありえない。言語あるかぎり、必ずそこには少なくとも一人は他者がいる。」ということだが、「語りかける誰かが必要でしょ?」といった直球の話ではなく、「内なる他者」の話。言うまでもなく。

●「小説家というのは、そういう異界とか、暗がりとか、地下の洞窟ようなところに降りていって、この世にあらぬものに触れて、目で見て、耳で聞いて、臭いをかいで、そこに人間的意味を超えたものがあることを経験して、また元に戻ってくるのが仕事です。この「行って、帰ってくる」というところに作家の技術と才能はあると僕は思います」

:「下降そして上昇」は、そもそも間テキスト性の高い話ではあるが(直近では、クリストファー・ノーラン)、作家にとどまらずどのような職業のキャリアパスにおいても大切な鍛錬ではある。「行って、(いちどは底をみて)帰ってくる」という感覚はわかりやすい。

●「「知りません。教えてくだい。お願いします。」学びという営みを構成しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落として言えば、この三つのセンテンスに集約されます。自分の無能の自覚、「メンター」を探り当てる力、「メンター」を「教える気」にさせる礼儀正しさ。その三つが整っていれば、人間は成長できる。一つでも欠けていれば、成長できない。社会的上昇も同じです。」

●「額縁を見落とした人は世界をまるごと見誤る可能性がある、ということです。」

●「人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見せるような何かでなくてはならない、ということです」(ラカンの引用)

●「母親が赤ちゃんを抱きしめながら、語りかける言葉はさまざまですけれど、その究極のメタ・メッセージは一つです。それは「あなたがいて、私はうれしい」です。」

●「自我とはまさに「自分の全身像を外から一望する」という経験によってしか基礎づけることができない。そんなことは神にしかできない。神にしかできないことができるという事実が人間に深い全能感を与える。生まれてから最高の強烈な報酬がこの「自我の騙取」によってもたらされる。」

●「自分の外部にある鏡像と同期したことで、強烈な快感がもたらされた。「他者と同期すると快楽が得られる」という起源的な体験がこのとき刷り込まれる。これが人間の成長のもっとも基本的なラインをかたちづくってゆく。」

●「自分の外部にあるのものと、現実的に一体化することはできません。できるのは仮想的な同一化だけです。でも、仮想的に同一化しさえすれば、ある種の全能感が到来する。この報酬を求めて、人間はそれ以降、くりかえし他者との同期を求め続けてゆくことになります。くりかえすうちに、成熟するにつれ、他者との仮想的な同一化がしだいにスムーズにできるようになります。どんな場合でもすぐに他者と同期できる人間のことをわれわれは「大人」と呼びます。「他人の気持ちがわかる人」です。」

●「自分の周囲にいる他者たちと仮想的に同一化できる人間は、自分が見ていないものを見ることができる、自分が聴いていない音を聴くことができる、自分が触れていないものを感知することができる。他者たちと共に、いわばある種の巨大な「共-身体」を形成できる。グラウンドレベルから幽体離脱して、空から自分たちを見下ろすことができる。」

●「「オリジナル神話」というのが、その典型的な病態です。クリエイティブな言語活動というのは、他人の用法を真似ないことだと勘違いした人がいた。できるだけ「できあいの言語」を借りずに、自分の「なまの身体実感」を言葉に載せれば、オリジナルな言語表現ができあがると思い込んだ。でも、これはたいへん危険な選択です。僕たちの言語資源というのは、他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他者の言語を習得し、それを内面化し用法に合うような身体実感を分節するというしかたでしか僕たちの思考や感情は豊かにならない。」

●「理解できない言葉、自分の身体なのに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。」

●「「(文科省の、英語が使える日本人の育成のための)行動計画」の前文に書いてあるのは、要するに「グローバル化が進展していて国際的な経済競争が激化しているし、外国でのビジネスチャンスや雇用機会も増えているから、この趨勢にキャッチアップするために英語運用能力は必須である」ということです。それだけです。「英語ができないと食えないぞ」と言っている。リアルかもしれないけれど、そこには外国語を学ぶ「喜び」や「感動」について語った言葉が一つもありません。それが自分を繋縛している「種族の思想」から抜け出す知的なブレークスルーの機会だということも述べられていない。書いてあるのは、ほとんど「金の話」だけです。あと少しだけ「威信」の話。」

●「aは形相、イデア、抽象概念です。theは質料、感覚世界に実存する個物です。」

●「檻に入っている人間でも、檻の特性、木でできているかとか、丸いとか、隙間から足が出せるとかいうことを理解していれば、檻ごと動くことができる。……檻に入っているせいで、檻に入っていないときにはできないことができる。」

●「われわれはつねに言語に遅れている、つねに母語に対して遅れている。でも「遅れている」という自覚を持つなら、どこかで言語を出し抜くチャンスがある。」

●「「檻ごと動く」というのは言い換えると、定型を身体化するということです。定型性を身体化して、自分のなかに完全に内面化してしまう。自分に与えられたローカルな母語的現実を「普遍性を要求できないもの」として引き受け、それを深く徹底的に内面化していく。」

●「論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を貯めることを、ほんとうにめざしているのか。」

「ここには君が緊急に理解しなければならないことが書かれている。ここに書かれていることが理解できる人間になれ」

:なんども繰り返されてきたレヴィナスの話。多かれ少なかれこういった体験は誰にでもあるはずだ。そして声が聞こえる確度は読めば読むほど高まってくる。

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