考えるための道具箱

Thinking tool box

◎「不可能性の時代」の「楽観的な方のケース」。

2008-05-11 15:33:02 | ◎読
チェルフィッチュの岡田利規の『楽観的な方のケース』(新潮6月号)は、そのミニマルなテーマ設定にもかかわらず欠如したリアリティや、ある意味で図に乗った「視点の特異な移動」という作為により、多くの欠点を指摘される可能性の高い小説である。
とりわけ後者については、『わたしの場所の複数』でとった、<遠くの他者を観察する視点≒見えていない他者の思うがままの捏造>という技法を、一段とエスカレートさせて、<他者と一体化しそうな視点≒他者の思考の蹂躙>という手法をとることで、異様な境界線上の人格をつくりあげているように見せてはいるが、そんなアバンギャルドな遊びを起用する必要があるのか?という疑問を呼び起こす。たとえば、

「ドアを開けると、彼が、玄関を見て、ファーストフードなんかのトイレを一回り大きくした程度の広さしかない、と内心で驚きました」

といったくだりは、ある人にとっては誤植にしか見えないし、それが誤植じゃないとわかったとして、面白いか?と問われれば面白くないとしか、こたえようながない。
さらに続けると、次のようなくだりについては、見方によっては、この小説の主人公は、人というもの(他者)を舐めているとしか思えなくみえる。

「アパートに帰ってきて、気持ちがよいので窓を開け放して、ずっとそのままでいると、彼には、さっきまで聞いていた波の音の繰り返しがまだ耳の中で残っているからなのか、今も窓の外から部屋の中に漂い込んできているように感じられ、またそのせいで、さっきも感じかけた、たとえ1Kであってもこれだけ海の近くにある部屋は、空間全体が今あるこの実際の間取り以上の開放感を、可能性みたいな感じで常に孕んでいる、というような印象が、彼の中で再び輪郭を持ちました。それがすべて思い込みに過ぎなかったということは、だいぶあとになって分かりました。」

間違っても、彼はこういったことを彼女に語ったわけではない(テキストとして書かれていることがすべてというわけではない、というテクニックはこのさい無視する)。
ほどよい憑依は、この世界で他者と正しいリレーションを保っていくために身につけなくてはならない分別であり知技ではある。しかし、相対化の能力が欠けていたり、多文化的な理解がなければ、道を謝る。ときに「自分はこうだから相手もきっとこう考えているだろう」というドグマティックな思い込みが人を不快にさせる。

しかし、こういった人格の形成は、以下のような論考をトレースすることで、俄然、現在性をおびてくる。

「われわれは、今や、<不可能性>とは何か、不可能な<現実X>とは何かを、推定しうるところにきた。<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。
 われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他社性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。」

 
これは、大澤真幸の『不可能性の時代』(※)の言ってしまえばひとつの結語ともいえる部分であり、時代の行き詰まり感や困難性を確かに分析している視点ではあるが、この考え方が、『楽観的な方のケース』の見通しをよくする。

冒頭で触れた、このミニマルな小説のリアリティのなさは社会性・公共性のなさに起因する。たとえば、登場人物の二人がいったいなにで生計を立てているのか?といった話がいっさい取りざたされない。一緒に住むことになった彼にいたっては、どうもウィークデーに街をぶらぶらしながら、パン屋「コティディアン(quotidian?)」で自分の食べたいパンを買って公園なんかで食べている毎日を送っているようだ。だから、ふたりで1Kに住むという乏しい暮らしにおいて、突然、ホームベーカリーのような嗜好家電(趣味家電)への投資が捻出できてしまうことに違和を感じてしまうわけだが、しかし、それ以上に注視しなければならないのは、このホームベーカリーを買ってしまうことで、彼らと社会をつなぐ唯一の窓であるパン屋への訪問回数も減り、二人の社会性がますますやせ細ってしまうことへの懸念だ。結果的には、主人公は(ホームベーカリー購入者にありがちな話だが)将来的にはパンづくりに飽きて、再び「コティディアン」に戻る日が来るだろうと予測しているので、完全に「引きこもって」しまうことはないことはわかるのでなにも心配することはないのだが(というか引きこもったとしても心配する必要ないが)、ここで重要なのは、「<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限り」という思いが向うところのひとつが、大澤も指摘するように「引きこもり」であることだ。

「<他者>抜きの<他者>と出会おうとすれば(中略)、その論理的な帰結は、言うまでもない。「引きこもり」である。引きこもる若者たちが拒否しているのは、まず公的・社会的な関係だけない。」

これに続く指摘が、『楽観的な方のケース』の主人公の他者の視点・思考への勝手気ままな蹂躙という習慣の謎を明らかにする。

「それだけではなく、あるいはそれ以上に、彼らは、私的・家族的な関係を拒否している。彼らが、こうした関係から撤退するのは、単にそれらの関係に組み込まれているというだけで、そこに過度な(彼らへの)攻撃性を感じているからだ。しかし、間違えてはならない。だからといって、引きこもる若者があらゆる関係を拒否しているわけではないのだ。求めている<他者>が不可能なものであるとしたらどうなるかを考えてみればよい」

端的にいって、他者の攻撃性を過剰に病的なまで意識した結果、求めている<他者>のひとつは、自分のような<他者>ということになる。関係を穏便にすませるために<他者>の胸裏を徹底して読もうとしたが、それが結果的には自分のような<他者>を作り出している、といってもいいかもしれない。そういう意味では『楽観的な方のケース』は、現代にありがちな、人間の関係性のひとつのケースをあらわしているといえる。

大澤は別項で、不可能性の時代の端的な現象のひとつである<「現実」への逃避(「現実」からの逃避ではなく)>のあらわれのひとつとして、多重人格(解離性同一性障害)の増加をあげている。多重人格は、一つの身体に二つ以上の人格ということだが、『楽観的な方のケース』の場合は、一つの人格を二つ以上の身体に、ということになり、これも不可能性の時代を読み解くひとつのヒントになりそうな気がする。

もし岡田が自覚的にこのテキストを書いたのであれば、いってみれば「世相を巧みに反映させている」ということになるだろうし、もし無自覚で書いたのであれば、「これこそ(岡田のような人間こそ)が現在の若者のリアルだ」ということになる。だから、ある人にとってみれば、まったくリアリティのない、とりたてて小説にする必要もないなんでもない話だが、ある人にとってはとてつもなくリアリティの高い、意味のある話となる。小説を社会学や心理学のフレームで読み解くのはあまり勧められた読み方ではないような気もするが、それでもこうした観点でみれば、じつは岡田利規のまなざしは、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の二つの小説を含めてたいへん面白いということになる。

しかし、いやいやそんなふうに美しく読み取ってもらったら困りますよ、という意地悪な仕掛け-新たな移動視点-が最後の最後で登場する。彼の視点における新たな視点による見えるはずもない風景だ。

「彼が傷の痛みと、手の甲の情けなくなってしまった見た目に気を取られて消沈しているうちに、トンビは、早ばやとコロッケパンを食べ終えたのか、それとも海の中にでも落としてしまったのか、今や気流を拾って上昇していました。それよりも遥かに上空を飛んでいるジェット機から、タンカーが海面に付けた航跡が見下ろせました。その航跡の形状が、彼の手の甲に今できたばかりの傷と、似通っています。」

やっかいなテキストだ。だから、視点の問題は、ほんの手慰み、遊びであり、ほんとうに伝えたいと思っているのは、世間的には傍流と思われているような私たちだって、なかにはセカイ系なんて呼ばれる人もいるわけですが、世界のこと(社会、公共のこと)を何も考えていないわけではなく、いろいろ考えたすえに「楽観的な方のケース」を選んでいるわけです。だいたい、どれだけ主流が気張ったところで、世界的な小麦の高騰を起こした首謀者をあぶりだすことなんてできないところを見ると、考えているのも考えていないのも同じじゃないの、ということかもしれない。そんなことより傘がないことのほうが大切だ、なんて昔からあった考え方じゃないですか、と。


(※)岩波新書は1000番以降の新赤版で、たんなるベストセラーにおもねらない名著をいくつか提起しているが、大澤真幸の『不可能性の時代』もそのひとつになる。耳を折っているページもたくさんあるので、そのテキストを書き写すだけでも充分に意義がありそうな気がするけれど、その作業はまたの機会に。

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