ブームのようなものが起こっているわけではないとは思うけれど、小説のことを語る本が、たて続けに出版されている。
●『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎
●『小説の読み方~感想が語れる着眼点』平野啓一郎
●『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』
●『小説作法ABC』島田雅彦
●場合によっては、佐藤友哉の『クリスマス・テロル』に付記された25頁の愚痴も含まれるかもしれない。
これらは、いずれも保坂和志のように小説の本質めいたもの、本質めいた技術論について語るものではないため、未知の発見はなく予定調和ではあるし、思考の手順もシンプルだ。だから、なにか壮大で新たな決意のようなものが生まれるわけではない。しかし、読書生活のUp-to-Dateを誘発するちょっとしたコミットメントのようなものは立ち上がる。
ひとつは、小説を読み返そうという、思い、というか宣言、というか願い。最近は、日常がストレスフルなこともあって、その解消のために新しい小説をたくさん仕入れてはいるが、そのほとんどが通読できていない。通読できていないにもかかわらず、とどまるところなく、ちょっとした書評に乗せられて、まったく予備知識もない海に視界を広げてみたりしている。たとえば、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』といったような小説がこれにあたる。
まあ、古本が発見できて安かったという理由があったり、実際に面白かったりするのだけれども、上にあげたような「小説の本」を読んでいると、新入荷はいったん休止して、昔のものを読み返してしっかり馴染ませる、というプラクティスがあってもいのではないか、と思えてきた。インプットのUp-to-Dateではなく、アウトプットのUp-to-Dateということだ。そういえば、小説というものがよくわかっていない時期に読んだものも多い(もちろん、いまでもよくわかっていないが)。内容だってほとんど忘れている。再読することによって、目に見えないなにかがupdateされるかもしれない。たとえば、次のような小説。
●いくつかの高橋源一郎の小説。とりわけ『日本文学盛衰史』は、しっかりと咀嚼したい。逆に、『ゴースト・バスターズ』の失敗を自分なりに解釈しておきたい。あと、彼自身がすすめる『君が代は千代に八千代に』。だいたい、どんな話だったかまったく覚えていないし。
●初期のポール・オースター。ただただ面白いという勢いだけで読み飛ばしていた。じつは『偶然の音楽』がいちばん好きなんだけれど、ほんとうはニューヨーク・トリロジーを超えるものは書かれていないような気もする。確か、『幽霊たち』は、1986年ごろの小説だったと思うが、いつのまにか「現代文学」と呼びにくくなっているオースターの小説が、いまどう見えるのか。
●『リブラ 時の秤』。結局は、さほど熱中することができないような気もするけれど。デリーロを読むには、カウントダウンを気にする必要のない時間が必要かもしれない(『堕ちてゆく」男』も、頓挫ぎみ)
●『ねじまき鳥クロニクル』。例の「壁と卵」の話があったり、それを受けてのインタビューを読んだり、原書とつきあわせながら『The Elephant Vanishes』を眺めたりしていた。『The Elephant Vanishes』の冒頭は、「The wind-up bird and Tuesday's women」であり、
そこにある物語の予感は、ヤスケンには申しわけないが、やはり期待できる。そんなこともあって、気軽に雑に読むためにあらためて文庫の『ねじまき鳥クロニクル』を購入した。『1Q84』までに、「鳥刺し男編」ぐらいは再読できたらと思う。
もうひとつは、かなり具体的だけれど「綿矢りさ」だろう。高橋、保坂はもとより平野まで。なんだか「You can keep it.」が、すごいらしい。いまさらながら。現段階では佳作なので、一気に読破してもいいかもしれない。ぼく自身は初読だけれど、これも、どちらかというと既知の再読、振り返りということになる。
#
そんなようなこと思っていながらも、『群像 5月号』の「海外文学最前線」なんかを読んでいると、なんだかんだいっても未知の世界も捨てがたい。たとえば、都甲孝治が紹介する、「現代」アメリカ文学はかなり魅力的だ。たとえば、ジュノ・ディアスという作家の『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』。
<主人公オスカーは『アキラ』など日本のアニメやアラン・ムーアなどのアメコミ、SFやゲームなに狂う、デブでもてないドミニカ人移民の青年である。なぜ、彼を主人公にしたのか。それは、トルヒーヨという独裁者に支配されたドミニカを書くのにオタク的な想像力がどうしても必要だったからだ。……ディアスにとって、アメリカの支援を受けながらアメリカ人には想像もつかない絶対悪の支配する世界を作り上げたトルヒーヨと文学的に立ち向かうための武器こそポップカルチャーだった。>
そのほか、ミランダ・ジュライの『あなたよりここにいる人はいない』、ジョージ・ソウンダースの『パストラリア』など。前者2つは今年新潮社から翻訳がでるらしいので、きっととりあえず買ってしまうんだろう(もっとも、新潮社は、ほかに翻訳刊行をアナウンスするものがあるんじゃないか)。
また、申し合わせたように、『群像』と『新潮』が、シンクした安藤礼二の『光の曼荼羅 日本文学論』なんかも興味深い。
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小説の見方については結局のところ、読む量を増やす、ということでしかupdateできないか。もしくは、こういう着地のない文を書きつらねるか。
●『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎
●『小説の読み方~感想が語れる着眼点』平野啓一郎
●『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』
●『小説作法ABC』島田雅彦
●場合によっては、佐藤友哉の『クリスマス・テロル』に付記された25頁の愚痴も含まれるかもしれない。
これらは、いずれも保坂和志のように小説の本質めいたもの、本質めいた技術論について語るものではないため、未知の発見はなく予定調和ではあるし、思考の手順もシンプルだ。だから、なにか壮大で新たな決意のようなものが生まれるわけではない。しかし、読書生活のUp-to-Dateを誘発するちょっとしたコミットメントのようなものは立ち上がる。
ひとつは、小説を読み返そうという、思い、というか宣言、というか願い。最近は、日常がストレスフルなこともあって、その解消のために新しい小説をたくさん仕入れてはいるが、そのほとんどが通読できていない。通読できていないにもかかわらず、とどまるところなく、ちょっとした書評に乗せられて、まったく予備知識もない海に視界を広げてみたりしている。たとえば、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』といったような小説がこれにあたる。
まあ、古本が発見できて安かったという理由があったり、実際に面白かったりするのだけれども、上にあげたような「小説の本」を読んでいると、新入荷はいったん休止して、昔のものを読み返してしっかり馴染ませる、というプラクティスがあってもいのではないか、と思えてきた。インプットのUp-to-Dateではなく、アウトプットのUp-to-Dateということだ。そういえば、小説というものがよくわかっていない時期に読んだものも多い(もちろん、いまでもよくわかっていないが)。内容だってほとんど忘れている。再読することによって、目に見えないなにかがupdateされるかもしれない。たとえば、次のような小説。
●いくつかの高橋源一郎の小説。とりわけ『日本文学盛衰史』は、しっかりと咀嚼したい。逆に、『ゴースト・バスターズ』の失敗を自分なりに解釈しておきたい。あと、彼自身がすすめる『君が代は千代に八千代に』。だいたい、どんな話だったかまったく覚えていないし。
●初期のポール・オースター。ただただ面白いという勢いだけで読み飛ばしていた。じつは『偶然の音楽』がいちばん好きなんだけれど、ほんとうはニューヨーク・トリロジーを超えるものは書かれていないような気もする。確か、『幽霊たち』は、1986年ごろの小説だったと思うが、いつのまにか「現代文学」と呼びにくくなっているオースターの小説が、いまどう見えるのか。
●『リブラ 時の秤』。結局は、さほど熱中することができないような気もするけれど。デリーロを読むには、カウントダウンを気にする必要のない時間が必要かもしれない(『堕ちてゆく」男』も、頓挫ぎみ)
●『ねじまき鳥クロニクル』。例の「壁と卵」の話があったり、それを受けてのインタビューを読んだり、原書とつきあわせながら『The Elephant Vanishes』を眺めたりしていた。『The Elephant Vanishes』の冒頭は、「The wind-up bird and Tuesday's women」であり、
そこにある物語の予感は、ヤスケンには申しわけないが、やはり期待できる。そんなこともあって、気軽に雑に読むためにあらためて文庫の『ねじまき鳥クロニクル』を購入した。『1Q84』までに、「鳥刺し男編」ぐらいは再読できたらと思う。
もうひとつは、かなり具体的だけれど「綿矢りさ」だろう。高橋、保坂はもとより平野まで。なんだか「You can keep it.」が、すごいらしい。いまさらながら。現段階では佳作なので、一気に読破してもいいかもしれない。ぼく自身は初読だけれど、これも、どちらかというと既知の再読、振り返りということになる。
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そんなようなこと思っていながらも、『群像 5月号』の「海外文学最前線」なんかを読んでいると、なんだかんだいっても未知の世界も捨てがたい。たとえば、都甲孝治が紹介する、「現代」アメリカ文学はかなり魅力的だ。たとえば、ジュノ・ディアスという作家の『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』。
<主人公オスカーは『アキラ』など日本のアニメやアラン・ムーアなどのアメコミ、SFやゲームなに狂う、デブでもてないドミニカ人移民の青年である。なぜ、彼を主人公にしたのか。それは、トルヒーヨという独裁者に支配されたドミニカを書くのにオタク的な想像力がどうしても必要だったからだ。……ディアスにとって、アメリカの支援を受けながらアメリカ人には想像もつかない絶対悪の支配する世界を作り上げたトルヒーヨと文学的に立ち向かうための武器こそポップカルチャーだった。>
そのほか、ミランダ・ジュライの『あなたよりここにいる人はいない』、ジョージ・ソウンダースの『パストラリア』など。前者2つは今年新潮社から翻訳がでるらしいので、きっととりあえず買ってしまうんだろう(もっとも、新潮社は、ほかに翻訳刊行をアナウンスするものがあるんじゃないか)。
また、申し合わせたように、『群像』と『新潮』が、シンクした安藤礼二の『光の曼荼羅 日本文学論』なんかも興味深い。
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小説の見方については結局のところ、読む量を増やす、ということでしかupdateできないか。もしくは、こういう着地のない文を書きつらねるか。
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