以下10年以上前に存在していたHPに
掲載されていた情報のコピペです。
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まず(仰臥して)眼をつむって、しかも睡り込まないで、
両脚を強く踏みそろえるように長く伸ぱして、
体中の元気をして臍輪、気海、丹田、腰脚、
そして足心に充たすようにする.そして次のような観想をするのである。
〈この気海丹田、腰脚足心が我が本来の面目である。その本来の面目はどのような面貌であるか。
この気海丹田が我が本分の家郷である。その本分の家郷の消息はいかなるものか。
この気海丹田が我が唯心の浄土である。その浄土はどのように荘厳されているか。
この気海丹田が我が己身の弥陀である。已身の弥陀はいかなる法を説くのか〉
このように繰り返し繰り返し観想していくならば、
やがて、一身の元気はいつしか腰脚足心に充足して、臍の下が瓢箪のようにふくらみ、
皮で作った硬い蹴鞠のようになる。
このような観想を一週間ないし三週間続けるならぱ、それまでの五臓六腑の気の滞りや、
心気の衰えのための冷や汗、疲れといった症状はすっかり治るであろう。
もし治らなければ、老僧の首をやってもよろしい」。
「生を養い長寿を保つの秘要は、身形を錬ることにある。身形を錬る秘要は、
心を丹田気海の間に凝らすにある。心が凝れぱ気が聚まる。気が聚まれぱ真丹は成る。
丹が成れぱ、身形は確固となる。身形が確固となれぱ、心は完全になる。
心が全けれぱ長生きする。
…これはいわゆる仙人の還丹の秘訣に契うものであるが、
ここにいう真丹は、仙人が錬るという長生薬である外丹を言うのではない。
とにかく、ただただ心火を降下し、気海丹田の間に充たすことが肝心である。
白幽曰く
「そなたは、なかなか熱心なことだ。それでは、私が昔、聞いたことを少しばかりお話ししよう。
これは養生の秘訣であって、知る人は稀である。この法を怠らず修めるならば、
必ず奇功があるであろう。きっと長生きもできよう。
さて、そもそも万物の根源たる大道は陰陽の二原理に分かれる。
その陰陽の二つが合して人は生まれる。人には生まれながらに精気というものがあり
これが体内をめぐっていて、それによって五臓のはたらきがそなわり、
気血の循環が行なわれているのである。
気と血とは互いに昇降し循環すること、昼夜におよそ五十回である。
肺臓は五行でいえぱ金にあたるから牝臓になるが、
横隔膜の上に浮くように在る.肝臓は五行では木になるから牡臓であり、
横隔膜の下に沈むかたちで在る。心臓は五行の火で犬陽であるから、
上部に位置しし、腎臓は五行の水で太陰だから、下部を占めている。
この五臓には七つの神が宿っている。
すなわち心臓には神、肺臓にはハク、肝臓に魂があり、
脾臓には意・智、腎饒には精・志のそれぞれ二神が宿っている.
吐く息(呼)は心肺から出て、吸う息(吸)は腎肝に入る
一呼ごとに脈の行くこと三寸、一吸ごとに脈の行くこと三寸、
こうして一日に一万三千五百の気息があり、脈が全身を五十回巡行する。
火の性質は軽いから常に上に昇ろうとし、水の性質は重いから常に下に流れようとする。
このような理を分からずに、坐禅観法が過ぎたり、あるいは考え過ぎたりすれぱ、
心火はさかんに燃え上がって、肺金をそこなうことになる。
金母である肺臓に負担がかかると、水子である腎臓が衰える。
こうして母子が互いに傷めあい、五臓六腑が侵しあうことになる
そして、身体の構成元素である地・水・火・風の四大が、
それにしたがって増えたり減ったりすることによって、
四大ごとに百一種、あわせて四百四種の病を生ずるのである。
こうなれぱ、いかなる治療によっても治らなくなる。
生命カをたくわえる養生ということは、ちょうど国を守るようなものである。
明君聖主というものはいっも下に心をくばるが、
それとは逆に、暗君庸主は常に上ぱかりに心をかけるものである
上にぱかり心くぱりをするならぱ、高位高官の者たちは威権に倣り籠を侍んで、
下々の民間の窮困を顧みることがなくなる。
こうして民は困窮し、賢臣は用いられず潜みかくれ
心ある臣下も人民も怒り恨み・諸侯も離れそむき、
周辺の異国は競い起こって、ついには国民は塗炭の苦しみにおちいり、
国はとわに断絶するに到る。
けれどもこれとは逆に、心をもっぱら下にくぱるならぱ、高官は倹約につとめ、
いつも民間の労疲を念頭におく.こうして国民は富み足りて、
多くの賢臣が集い、諸侯.も恐れて服従し、民はゆたかに国は強く、
法令に違反する者もなく、国境を侵すの敵。
国もないから、戦は絶えてなくなるであろう。
71人の身体もちょうどそのようなものである。
道をきわめてその極に達した者は、常に心気を下に充たす。
心気が下に充つるならぱ、喜・怒 哀・櫂・楽.悪.欲という七情も動くことはなく、
風・寒・暑・湿などの四邪が外からうかがい侵すこともないから、
気血の循環は充実し、心神も健やかになる。
薬を服むことも医者にかかることもないであろう。
ところが、凡庸な者はこれに反して、常に心気を上に向けてほしいままにしておくのである。
こうして心気を上にぱかり集めておくならぱ、
左右の両手首にある脈どころがそこなわれ、
眼・耳・鼻・舌・身・意のはたらきは委縮し疲れるようになる。
『荘子』内篇に〈真人は踵で息をするが、普通の者は喉で息をする〉と言うのはこのことである。
許俊という人も〈気が下腹部に集まれば、
その息は長く深くなる。それに対して、気が胃より上に集まるならぱ、息は短くせわしくなる〉と