ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.76 徳島城

2011年05月05日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月5日(木)


大分の臼杵に住むかみさんの母親が近く米寿を迎える。
そのお祝をやるというので、帰省の途中、四国を回って城めぐりをして帰ることにした。
前日(5月4日)朝出発し、東名・名神・中国・明石大橋を経て四国入りしたのは、深夜になっていた。

この日は最初に徳島城に向かった。
助任川手前から徳島城の城山が見えてきた。


徳島中央公園側から見た徳島城の天守台辺り。
山内の城山原生林は徳島市の天然記念物に指定されている。


見事な石垣の堀
近くの川から掘り出した緑色片岩を使用しているところが特徴であろう。



数寄屋橋
徳島城の鬼門(北東)にあたる門の前に架かる数寄屋橋。
数寄屋門は別名「不明門」(あかずのもん)とも呼ばれ、城内の凶事の際以外には開かれることがなかった。


復元された鷲の門は、薬医門で、昭和20年に徳島大空襲で焼失してしまったが、
平成元年に徳島市制100周年を記念して復元された。
幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられている、そうだ。


内側から見た鷲の門


下乗橋(小見付橋)
下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて、歩いて渡ったことに由来する。
当時は木製の太鼓橋だったが、明治二年(1869)花崗岩製になり、同四十一年(1908)現在のように水平の橋に改造された。


下乗橋を渡ると、立派な枡形の石垣が構える。


蜂須賀家政公像
蜂須賀家政公(藩祖)は、天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国を賜っている。
有名な阿波踊りは家政公時代に始まったと伝えられる。
蜂須賀家の「卍紋」が印象に残る。


SLが展示されていた。
ICテンダ機関車。8620形式で、大正12年1月6日の製造と紹介されている。
地球を79周したそうである。


SL横が西三の丸を経て本丸に通じる上り口になっている。


徳島城は標高61mとそれほど高くはないが、一気に上るとさすがに息が上がる。


西三の丸跡
現在は、市の浄化水槽になっている。


西二の丸の帳櫓跡


西二の丸跡


本丸前に立ちはだかる石垣


本丸へ通じる石垣


弓櫓跡


弓櫓跡から見た本丸跡


広大な空き地となっている本丸跡


本丸の一角に残る清玄坊神社
由来については、次のように紹介されていた。
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、
後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、
公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、
末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。


本丸の苔むした石垣


東二の丸跡
東二の丸には三層の天守が設けられていた。
普通は、天守は城郭の最上部に建てられるが、徳島城では本丸から一段下がったこの地に置かれていた。


天守跡から眉山を望む。


旧徳島城表御殿庭園(通称千秋閣庭園)


庭園の動画


上田主水正(宗箇)の作庭と云われる枯山水庭園


築山泉水庭は池泉廻遊式と観賞式を兼ね備えた庭園となっている。
池汀における多くの石組は、他に類を見ない。


阿波の特産である青色緑泥片岩を使用した桃山様式庭園としての特色を留めている。


庭内最深部の、観音山を源とする築山泉水庭


現在、山腹にアオサギが繁殖し、糞害で周辺の樹木が枯れる等の問題が起こっている、そうである。


この後、高知城へ車を走らせた。
高知城までは、高速を利用しても2時間はたっぷりとかかる。
高知城見学の後は、今日中に宇和島まで着いておきたい。


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