ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.6 盛岡城

2011年12月04日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年12月4日(日)


この日は、盛岡藩南部氏の居城で、「日本百名城」のひとつ「盛岡城」を訪問した。

盛岡城は、要害の地である西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地点に位置した花崗岩丘陵地を利用して築城された
盛岡南部氏20万石の連郭式平山城であった。

盛岡城の概略歴史は以下のように記されている。
慶長二年(1597)、初代盛岡藩主南部信直(南部家26代当主)が盛岡城の築城に着手。
翌慶長三年(1598)豊臣秀吉から正式に許可が降り、本格的な築城が開始された。
寛永十年(1633)、南部重直(3代藩主)が盛岡城へ入城し、以降歴代藩主の居城となっている。

慶応四年(1868)、戊辰戦争にて盛岡藩が敗れ、明治元年(1868)盛岡城跡が国の直轄に属することに。
明治四年(1871)、廃藩置県により内丸広小路に盛岡県庁(現岩手県庁)が置かれ、
明治七年(1874)、城内建物払い下げし、取り壊しとなっている。
明治三十九年(1906)4月に公園とするため、整備開始し、同年9月15日に岩手公園として開園している。

昭和五十九年(1984)、盛岡城跡保存整備事業として石垣解体修理と発掘調査に着手。
平成元年(1989)、彦御蔵を公園内に移設
平成十八年(2006)、「日本百名城」に選定されている。


もりおか歴史文化館」の裏手に、盛岡城址公園の庭園がある。
盛岡城の内堀跡で東側を「鶴ヶ池」、西側を「亀ヶ池」と名付けられている。これは、「鶴ヶ池
この名称は、かつて南部氏が居城としていた三戸城に存在した「鶴池」「亀池」に因んでいるものと云われている。


秋田市の千秋公園など全国各地の公園や庭園の設計を手掛けた、長岡安平ながおかやすへい)の設計によるもの、とのこと。


多目的広場
左側が本丸、右面が二の丸、さらにその右側が三の丸になっている。
三の丸から二の丸、本丸の順に回ることにした。


三の丸の石垣
盛岡城の石垣の素材の石は、遠方から運ぶことなく、すべて近隣産の花崗岩を用いているのが特徴だそうである。


三の丸から見た多目的広場


三の丸に大きな桜の古木


三の丸跡は、広場になっている。


三の丸から二の丸へ続く石垣
この先の二の丸への入口は車御門跡になっている。


二の丸


雪吊り
この辺りはかなりの雪が積もるのだろう。


二の丸(手前)から本丸へ通じる朱塗りの渡雲橋
当時は、屋根付きの「御廊下橋」と呼ばれた堅固な橋が架かっていた、そうである。


渡雲橋の下は空堀で二の丸と本丸が分けられている。


下から見るとこのようになっている。


本丸側から橋を通して二の丸側を見たところ。
気持ちの良い散歩道となっている。


本丸


本丸の中央に南部中尉銅像台座がある。
銅像本体は昭和十九年(1944)に軍需資材(南部家による自主供出)として撤去されている。


かつてはこのような南部中尉の銅像が建てられていた。
次のように説明されている。
南部家四十二代南部利祥(なんぶとしなが)は、日露戦争に従軍し、第一軍に属して各地に転戦したが、
明治三十八年(1905)三月四日満州井口嶺の激戦において戦死した。
ときに陸軍騎兵中尉年は24歳であった。
この功によって功五級金勲章を下賜された。




本丸の南、御二階櫓の石垣


本丸南下の腰曲輪
腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、
盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっている。


腰曲輪の一部は藩主が乗馬の練習をした「吹上馬場」となっていた。


腰曲輪に、宮野小提灯の句碑がある。
月待つや 独り古城の 松のもと
ちょっと読めない?


御宝蔵跡(腰曲輪)
一段と高くなっている。


本丸御三階櫓の石垣
盛岡城内で一番古い石垣と云われている。


淡路丸


本丸の御末御門へ通じる坂道と石垣


帯曲輪の梅林辺りから見た腰曲輪の二重隅櫓(大櫓)の石垣


移築された彦御蔵
盛岡城内に現存する唯一の建造物で、江戸後期に建てられた蔵と考えられている。
この蔵は現在地から約100mほど西側の市道際にあったが、道路拡幅計画範囲にあったため、移設保存されることとなり、
江戸時代に米内蔵のあったとされる現在地に曳き家し、改修されたものである。


南の腰曲輪の石垣
手前の隅は石垣の角の強度を高めるため、算木積みとなっている。


吹上御門跡へ至る坂道


二の丸の石垣
江戸時代中期の石垣である。


瓦御門跡へ至る坂道


坂を上ったところの石垣に三の丸へ至る瓦御門が載っていたが、今は石垣のみが残る。


三の丸の北側に鎮座する櫻山神社の神門


櫻山神社の本殿
8代藩主南部利視が藩祖・信直を祀るために勧請したもの。


烏帽子岩への階段


烏帽子岩
盛岡城築城時、この地を掘り下げたとき出てきた高さ約6mの大石で、
その後、南部藩盛岡の「お守り岩」として崇拝されてきた。
烏帽子の形をしているところからこの名が付けられた。



盛岡の歴史や文化に関する資料を収集・保存・展示することにより、
市民の教育及び文化の口上に資する社会教育市施設とされる、「もりおか歴史文化館」を覗いて見た。


盛岡を代表する祭りである、さんさ踊りとチャグチャグ馬コが紹介されている。
チャグチャグ馬コと並んで記念撮影する人も多い。


山車展示ホールに明治期、現代の盛岡山車が展示されている。


展示されている明治期の山車は高さ9mにも及ぶそうだ。


盛岡城の石垣は、全て城内とその周辺で産出した花崗岩によって築かれているとのことだが、その立派さに感心した。
駆け足で回り、全てを見て回れなかったのは、少し心残りである。
また訪れる機会があれば、是非もう一度じっくりと見て回りたいものである。
この後、盛岡市から約110Km離れている次の訪問先、八戸市の「根城」へ車を走らせた。


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