ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.70 岡山城

2011年05月18日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月18日(水)


昨夜四国高松城を訪問した後、坂出から瀬戸大橋を渡って岡山県に入り、道の駅「みやま公園」で宿泊。
この日は朝からから中国地方の100名城を廻ることにした。
先ずは岡山城を目指した。

岡山城は、織田信長の築いた安土城にならって築かれた、日本を代表する城郭建築で、貴重な城である。
背面に旭川が流れ、その直ぐ側に日本三名園の一つ「後楽園」がある。

天正元年(1573)宇喜多直家が、当時ここの城主であった金子宗高を滅ぼし、入城している。
岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子宇喜多直秀で、豊臣秀吉の養子となって「秀」の字をもらった人物である。
天正十八年(1590)に本格的な城作りに着手し、途中朝鮮出陣もあったが、慶長二年(1597)に完成させている。

外壁の下見板には、黒漆が塗られていたので、太陽に照らされるとあたかも烏の濡れ羽色に似ていたため、
別名「烏城」(うじょう)と呼ばれる。
宇喜多秀家が築城した時は、屋根瓦に金箔を貼りつけていたので、「金烏城」(きんうじょう)とも呼ばれた。


岡山城の内堀


正面の内下馬橋(うちげばはし)を渡る。


内堀は、ほぼ昔の原形を留めている、ようだ。


烏城公園」の碑
かつてはここに大手門(内下馬門)があった。


内下馬門付近の石垣
本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の勢威・権力を誇示するために
巨石が組み込まれることが流行した。
最大の石は、高さ4.1m、幅3.4mだが、厚みはなく板石を立てたもの、とのこと。
この石垣は自然石を積み上げた野面積みである。


石垣
岡山城の石垣の全ては、殆ど花崗岩であり、瀬戸内海の犬島から運ばれたものである。
赤く変色しているのは、戦災の傷跡で、戦火が激しかったことが伺える。


鉄門(くろがねもん)跡
下の段から表書院(中の段)へ通じる石段の上にかつて鉄門と呼ばれる櫓門があった。
木部の全体を鉄板で覆っていたことから、鉄門の名が付いた。


不明門(あかずのもん)下の石垣
右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られていることから、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か、
前池田期に築かれたものと見られる、とのこと。
上部の石の色が少し異なっている部分は不明門を建てた時に積み足されたもの。


鉄門から不明門石垣を見る


表書院
表書院がある中段広場は、かつて備前(岡山)藩の政治が行われた建物で、
数棟からなり、大小60を越える部屋があった。
発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、
地表には建物の位置や間取り、泉水が表示されている。


不明門(あかずのもん)
表書院の南端から本段(城主居館)へ上る石段にもうけた渡櫓門。
天守閣のある本段全体の入口の守りを固めた大型の城門であるが、
普段の出入りは北端の渡り廊下を使用し、この門は殆ど閉ざされていたことから、「不明門」と呼ばれた。
昭和四十一年(1966)に再建されたものである。


不明門内側


礎石
天守閣は昭和二十年(1945)の戦災で焼失し、昭和四十一年(1966)に元の位置に鉄筋コンクリートで
再建されたため、この場所に昔の天守閣の礎石を移し、元通りに配置している。


六十一雁木(がんぎ)上門
本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれている。
天守閣と同時に昭和四十一年(1966)に再建されている。


天守閣
天守閣のある上段は、本段と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並んでいたところで、
築山や池のある庭園も造られていた。
現在の天守閣は、昭和四十一年(1966)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。



天守閣が昭和四十一年に再建された時に作られたもので、土製の瓦として焼かれた後に、
漆を接着剤にして金箔を貼りつけたものである。


火縄銃



記念撮影用にもってこいである。


日本刀
備前の国は優れた刀剣を生み出してきた土地である。
国宝刀剣の約半数を岡山県内製が占めている。”備前刀”はあまりにも有名だ。


初代宇喜多直家の肖像画


城主の間
城主が生活をしていた「城主の間」が天守閣内部に再現されている。
他の城でこの実例があるのは、犬山城だけ、とのこと。


歴代藩主の肖像画


天守閣から見た鯱(その1)
金色に光って眩しい。後ろは後楽園


天守閣から見た鯱(その2)
築城400年に際し、宇喜多秀家創建当時を想定して、金鯱に改められている。


廊下門
表書院から本段に渡した長廊下の下手に設けられた門。
昭和四十一年(1966)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。


廊下門を外側から見たところ
本丸の搦手にある城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていた。
部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下として使用されていたことから「廊下門」と呼ばれている。


旭川に架かる月見橋
月見橋の先は、「岡山後楽園」である。
本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張であることから、
旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。


天守閣
月見橋方面から見たところ。


旭川方面から見上げた天守閣
明治十五年(1882)以降に残った建物は、天守閣・月見櫓・西丸西手櫓・石山門だけであったが、
昭和二十年(1945)の空襲で天守閣・石山門を焼失してしまった。


月見櫓
石垣下から見たところ。


月見櫓
本丸内で戦火を免れた唯一の建物で、国の重要文化財に指定されている。
第5代藩主池田忠雄(ただかつ)によって元和・寛永に建てられた。
月見という風流を楽しむためにも用いられたが、北西の表書院を防御するためのもので、
武器の貯蔵庫になっていた。また、隠し銃眼や石落としなども備わっている。


穴蔵
幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mあり、もとは屋根があった。
非常用の食糧を保存していたものではないかと考えられている。


天守閣
中の段表書院付近から見たところ。


多聞櫓跡
伊部櫓と数寄方櫓の間に建てられた長さ30m、幅5mの二階建ての長屋があった跡。
石塁の上は平屋だった。


伊部櫓跡(いんべやぐら)
白壁造りの三階建ての櫓で、石塁に寄せ掛けて建っていたので城外からは二階建てに見えた。


大納戸櫓跡(おおなんどやぐら)
本丸の大手を守る要となる、三重四階ての櫓で、城内で最大の櫓があった。
藩政のための書類や道具類が保管されていた。
小早川秀秋が沼城の中心櫓をここに移築したものであるが、明治の廃城後に取り壊された。


伊部櫓と大納戸櫓の間には多聞櫓があった。
その多聞櫓下にある野面積みの石垣は昔の面影を伝えている。



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