ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.77 高松城

2011年05月17日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月17日(火)


高松城はまたの名を玉藻城と呼ばれている。
その由来は、万葉集で柿本人麻が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、
この辺りの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると云われている。

この城は、天正十五年(1587)に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて入附した生駒親正が、
天正十六年(1588)から築城した平城である。

生駒氏の治世は4代54年間続いたが、寛永十七年(1640)にお家騒動により、出羽国(秋田県)に移されてしまう。
代わってこの後寛永十九年(1642)に常陸国下館藩主の松平頼重が城主として入城。
松平頼重は徳川家康の孫で、水戸光圀の兄にあたることから、松平氏の治世は11代228年間にわたり、
高松は松平氏の居城として栄えた。

玉藻公園の中堀横を琴電が走る。


旧太鼓櫓跡に建つ艮櫓(うしとらやぐら)が中堀に映える。


玉藻公園駐車場(東入口)から旭橋を渡る。


中堀
海水が流れ込んでいるため、水はきれいである。


旭橋を渡ると旭門(高麗門)がある。
かつては、城の南側に大手門があったが、寛文十一年(1671)頃に三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため、
これを壊して新たに東に旭橋を設け、それを渡って旭門から出入りするようになった。


旭門をくぐると、巨石を積み重ねて造られた枡形がある。
このような大きな石で周りを囲まれると、圧倒される。


艮櫓
旧太鼓櫓跡に建てられている。
もともとは、東の丸の北東の隅にあったもので、丑寅櫓と呼ばれていた。
造られたのは延宝五年(1677)頃で、月見櫓と同時期と云われている。
昭和四十年(1965)に現在の位置(旧太鼓櫓跡)に移築され、昭和二十五年(1950)に
国の重要文化財に指定されている。


桜御門跡
三の丸入口の櫓門は、昭和二十年(1945)に空襲で焼失した。


桜御門跡の石垣には、火災により赤く焼けた痕跡が残っていた。


披雲閣(管理事務所)の入口
貸会場となっており、会議・茶会・華展などで利用する場合は入ることが出来る。


松平藩時代にもこの場所に披雲閣と呼ばれる現在の約2倍の広さの建物があった。
藩の政庁および藩主の住居として使われていたが、明治五年(1872)老朽化のため取り壊された。
その後、大正六年(1917)現在の披雲閣が完成した。


天守閣跡
生駒氏時代の天守は3層だったと云われている。
松平氏時代の寛文十年(1670)に改築された天守は3層5階の南蛮造りで、四国最大の規模を誇っていたが、
明治十七年(1884)老朽化を理由に取り壊された。
現在は、天守石垣復元工事が進められている。

天守閣が復元されることになれば、再度訪れてみたい。

鞘橋
本丸とニの丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋だったが、江戸時代中期末頃には、
屋根付の橋になっていたと想定されている。いまは工事中のため、通行止めになっている。


高松城は堀と海が繋がっているので、潮の干満による水位調節のための水門が設けられている。
干満による潮位の変化で常時海水が流れ込んでいるので、水は綺麗である。


堀にはチヌや鯛などの海の魚がいて、エサやり体験が楽しめる、と紹介されていたが、
実際に目の前をチヌ(40Cm弱)の群(数十匹)が泳いでいた。


西入口
琴電高松築港駅側からの入口である。


廉櫓(れんやぐら)跡


ニの丸跡
公園広場になっており、木々が植えられている。


中堀沿いには石垣も設けられている。
突き当りが鞘橋である。


文櫓跡


月見櫓
月見櫓は北の丸の隅櫓として延宝四年(1676)に完成したと云われ、出入りする船を監視する役目を持つとともに、
藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので、「月見櫓」とも云われている。
昭和二十五年(1950)に国の重要文化財に指定されている。


月見櫓の右手に連なる薬医門形式の水手御門は、海の大手門である。
藩主は、水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し、
遊覧を楽しんだり、参勤交代に出かけたりした。
水手御門は、直接海に向かって開く海城独特の門で、全国唯一の現存例だそうだ。


内側から見た水手御門渡櫓
かつては、これらの櫓の直ぐ外は海であり、船から水手御門を経て、直ちに中に入れるようになっていた。
昭和二十五年(1950)に国の重要文化財に指定されている。


内苑御庭
この庭は披雲閣の再建にあわせて、大正六年(1917)頃作造された枯山水の庭がある。


大きな石が敷かれていて、その上を歩いて散策する。


後の昭和天皇・皇后両陛下御手植えの松などがある、とのこと。


根性松
岩の亀裂に根を下ろして成長している松。
樹齢十七年ほどになるらしい。まさに”ど根性松”である。


披雲閣の蘇鉄
披雲閣の「蘇鉄の間」から眺めるので、この名が付いているのだろう。


桜の馬場
馬の訓練をしたところで、かつては今の2倍ほどの広さがあった。


内苑御庭があったからかもしれないが、全体が庭園のような綺麗なお城、という印象を受けた。
海水が流れ込んでいるとはいえ、尺を越えるチヌの群が悠然と泳いでいるのを見て、驚いた。
天守石垣復元工事が行われていたので、天守閣の復元も近いうちに行われるのではないかと期待している。
これで、四国の100名城は全て廻ったことになるが、機会があればまた訪れてみたいと強く思っている。


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