ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.69 鬼ノ城

2011年05月18日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月18日(木)



岡山城の次に鬼ノ城(きのじょう)がある鬼城山(きじょうさん)山上を目指した。
途中道に迷ったが、地元の人に親切に道案内してもらい、「鬼城山ビジターセンター」に無事到着。
鬼城山ビジターセンターでは、鬼ノ城をより知るために、パネルを始め、地形模型、西門復元模型などが展示されている。


鬼ノ城は、標高397mの鬼城山に築かれた、壮大で堅固な古代山城である。
鬼城山はすり鉢を伏せたような山で、斜面は急であるが、頂上部は比較的なだらかである。
こうした地形は城つくりには絶好の地で、しかも前面の丘陵が低いため、広く遠くまでの眺望が可能である。
城壁は鬼城山を中心に八~九合目にかけて鉢巻を締めたように巡らせている。
城壁の総延長は2.8Kmに及び、城内の面積は約30ha(東京ドームの約6.4倍)ある。


鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置しており、かつては眼下の総社平野には集落が営まれ、
官衙(古代の役所)、寺院などが造営されていた。
また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、
まさに政治・経済・文化・交通上の要衝の地であった。
鬼ノ城からは、これらの要地を一望できる絶好の位置であった。

空から見た鬼ノ城全域の写真


築城時期は、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のために出兵した、白村江の海戦(663)において大敗した後、
唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられている。
鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡といえる。(総社市教育委員会)

敵国の侵攻に備えるため、西日本の要所には大野城をはじめとする朝鮮式山城を築城したことが
『日本書紀』に記されている。
記録にはないが、朝鮮式山城と同種遺跡の古代山城が16城あり、鬼ノ城もその一つと考えられている。
(鬼城山ビジターセンター)


版築土塁
城造りには幾多の厳しい攻防の中で培われた、朝鮮半島の築城技術が用いられた。
版築土塁は、列石の上に、土を運んで ・平らにならし・足で踏み固め・そしてつき棒でつき固めるという、
単純ではあるが、それを何層にも渡って繰り返す、大変な労力が必要とされる作業である。


写真は展示されていた”つき棒
意外と細い棒である。


版築工法で石と土を突き固めて城壁としている。
その一部を剥ぎとったもの(約4mの版築土塁)が展示されている。


版築工法とは、壁となる位置に型枠をつくり、内部に土を入れて一層ごとに突き固める工法を云う。
版築は大変な労力を費やす作業だ。延べ数十万人が動員されたとの試算もある。
版築工法”千本づき”の様子。


復元された西門の模型


西門を後ろから見たところ。3階建の様子が良く分かる。
3階建てで、1階は門扉のある石垣の通路、2階は城壁上の連絡路、3階は見張りや戦闘の場としての機能をもつ。


水門
排水機能を持つ城壁をここでは水門と呼んでいる。
水門は下半分に石垣を築き、上半分は版築盛土で造られている。
鬼ノ城では、水門が6か所に築かれている。


敷石
城壁の内側と外側にはびっしりと石が敷き詰められている。
敷石の役割は、流水により城壁が洗われて崩れないように保護するための施設である。
このような敷石は、国内の古代山城はもとより、百済の山城でも殆ど類例がない、とのこと。



付け刃ではあったが、最低限の簡単な知識を仕入れたとして、”百聞は一見に如かず”
鬼ノ城を目指した。
鬼ノ城一帯は大きな岩が無数にある岩山の上にあるのだ。


坂道を上っていくと、復元された角楼と西門が見えてきた。


角楼
日本の古代山城では、初めて具体的に確認された特殊な施設。
中国の城郭でいう「馬面」、朝鮮半島での「」に当る、とのこと。


ここは尾根つづきで攻められ易いため、城壁の死角を補い、防御力を高めることを目的として、
城壁の一部を凸字形に張り出し、正面と側面から攻撃できる優れた施設である。


角楼から西門を見たところ。
鬼ノ城を目指して総社平野を走っていた時、鬼城山の頂上に見えていた西門である。
かなり遠くからでもはっきりと見える、目立つ建物である。


復元された西門を内側から見たところ。


外側から見た西門
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例だそうだ。


版築土塁の高石垣
城壁の大部分は、土を少しづつ入れて突き固めた”版築土塁”であるが、まるで岩のように固い。
展示していたのは、ここを剥ぎとったものなのだろうか?


要所には高い石垣が築かれている。
野面積みの石垣も見事な造りである。


かみさんはここで引き返すというので、一人で石垣に沿って城を廻ってみることにした。
ハイキングコースのような山道になっている。


第0、第一水門は、水のはけ口は石垣の一番下のところに設けられている。


第ニ水門から第五水門は排水溝を備え付けて石垣の上から放水させている。


城の城壁に沿って進む。城壁は版築工法により築かれた土塁が主体である。


南門
南門は西門と形や大きさが類似し、同じ設計の下で構築されている。
3階建ての建物が建っていたと想定されている。


南門を外から見たところ。
門の床下面には、大きな石が敷かれている。


景色は素晴らしい。
かみさんを連れてくるべきだった、と少々悔やんだ。


東門
城門の中では最も規模が小さく、門柱には丸柱が使用されている。


門を入った目の前に大きな石があり、簡単に中へ進むことは出来ない。


眼下に総社平野が広がる。


屏風折れの石垣
鬼ノ城で最も著名な高石垣で、血吸川の急崖上に舌状に構築されている。
建物は存在しなかった可能性が高い、そうだ。


第5の水門


屏風折れの石垣からの眺望


前面は視界が開けているが、背後は山に囲まれている。


温羅(うら)氏の碑
千数百年前、温羅と呼ばれる一族が朝鮮半島より渡来し居住したと云われ、付近の城塁は当時の名残とも云われている。
また、鬼ノ城一帯は、平安時代には山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数立ち並び、西方教化の中心地だったと云われている。


北門
鬼ノ城の唯一背面に築かれた城門である。


基本的な構造は他の西門・南門・東門と同じ堀立柱城門で、通路床面には大きな石が敷かれている。
通路床面下には、排水溝が設けられているが、日本の古代山城では初の事例だそうだ。


北門は、規模としては大型の西門・南門に対し、東門とともにやや小型の城門である。
そのうち全門復元されるのでは? と期待している。



約50分かけて、鬼ノ城の城壁を一周した。
軽いハイキングのような感じであった。
東門や屏風折れの石垣からの眺めは素晴らしく、総社平野が一望できた。
現在は西門・角楼のみ復元されているが、南門・東門・北門全ての門が復元されるのではないだろうか。
今後の発掘調査に期待したい。
その時は、もう一度訪れてみたいものである。


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