語り得ぬ世界

現実逃避の発展場 Second Impact
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防人の旅、時々妖怪_78【第5日05】

2024-05-14 07:28:51 | 珍旅道中記
広報センターの建物から屋外展示エリアに出ると…



おおっ、歴代国産戦車74式戦車・90式戦車・10式戦車(現在の陸自主力戦車)が揃ってます。残念ながら戦後初の国産戦車61式戦車はありません。近場では大津駐屯地に静態保存1両があるそうです。ちなみに61式は映画「戦国自衛隊」に動くレプリカが使われていました。最後は湖底に沈められます。



こちらには74式105mm自走砲・75式155mm自走砲も!こりゃすげー。
なお、展示されている戦闘車両は個別でも撮影していますが、見学後半にも撮っていますのでまとめて後日掲載します。



陸自の多用途ヘリコプター「UH-1H」です。確か映画「地獄の黙示録」でも「ワルキューレの騎行」をBGMに爆撃する米軍ヘリがコレだったような。



後部座席はこんなん。パイロット2人+11人乗りです。意外と広いですね。ちなみに、昨日の記事でご紹介した(屋内展示にあった)偵察用バイクも2台運ぶことができるそうです。



コックピットに入れるので早速乗ってみましょう。



計器類はアクリル板で覆われていますけど、保存状態はいいです。夜間・雨天は機体扉を閉じているのでしょうね。



コックピットから後部座席を振り向いた景色。やはりかなり広く感じます。



前方はこんな風に見えます。視界は広いです。



操縦桿も触れます。操縦席は珍でも狭いですから、屈強な陸自ヘリ・パイロットだとかなり狭いのでは?



まさかUH-1Hの操縦席に乗れるとは…。貴重な体験です。



9:52『振武臺記念館(しんぶだいきねんかん)』見学のための集合時間になりました。来た見学者から点呼を済ませ、出発を待ちます(このときは予約しながらまだ来ていない人がいたので待機)。その間に周りをキョロキョロ。こちらは集合場所前にある売店。さすがに陸自グッズはカーキ色が多いですね。



ミリヲタが集結(苦笑)
昨年6月のことですね。74式戦車に乗れるんやぁ~。これは珍も乗ってみたい!最新型の10式は機密情報の関係から無理でも、せめて90式に乗せてもらいたいです。



「特別儀仗服」です。左が冬服、右が夏服。国賓が来られる式典などで着用する制服ですね。



太平洋戦争時の米軍2000ポンド普通爆弾です。総重量は2,113.2ポンド(約955kg)あります。当時日本国内で「1トン爆弾」と呼ばれていた爆弾です。珍祖母・珍母が戦争末期に現在のN市域であるK島に1トン爆弾が落とされたと言ってました。真偽のほどは定かではありませんが、当時は田畑ぐらいしかないK島が爆撃目標になったとは考えにくいので、おそらく米軍爆撃機が大阪空襲の帰途、残っていた爆弾を適当に捨てていった1発だったのではないかと思われます。こちらは昭和51(1976)年埼玉県内で発見された不発弾だそうです。
このあと10時ギリギリに老夫婦が来て、野郎自衛官の案内で『振武臺記念館』へ向かいました。珍含め3名の見学者。戦闘車両等の屋外展示エリアから駐屯地駐車場を抜けていきます。



『振武臺記念館』は旧陸軍豫科(予科)士官學校関連事物や朝霞駐屯地などの歴史資料館ですが(玉音放送の複製レコードなどもあります)建物自体は元は陸軍士官学校(現在の神奈川県座間市)の皇族用隊舎(皇族舎)でして、昭和53(1978)年にここへ移築したものです。陸士では東久邇宮(ひがしくにのみや)殿下(54期)、賀陽宮(かやのみや)殿下(55期)がお使いになられたとのことです。
「振武臺」とは昭和天皇が朝霞の豫科士官學校に行幸された際の「将来益々武を振るい、八肱一宇の為をなせ」との御言葉から命名されたそうです。さらに「八肱一宇」とは「世界(四方と四隅=八紘=全世界、天下)を一つの家(宇)にする」という意味です。覇権的な意味合いではなく、人種・民族・宗教の違いを乗り越えて世界が一つとなるという平和的な意味合いでして、聖徳太子に代表される日本らしい " 和の精神 " を体現したものですね。日本書紀に記述されている「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」という初代神武天皇が即位された際に述べられた御言葉を元にした明治時代の造語でして(天皇の下で世界が一つの家に…という意味が込められている)明治以降戦前日本人のメンタリティの根幹とされていますが、戦前・戦中の日本人のメンタリティを壊すべく戦後GHQが使用禁止としました。



なかなか味のある建物です。この門柱は昭和16(1941)年から終戦まで朝霞にあった陸軍豫科士官學校の正門の門柱でして、昭和53(1978)年『振武臺記念館』ができた際に、東京都練馬区長久保交差点から移設したものです。大阪人には位置関係がわかりにくいですが、埼玉県朝霞市と東京都練馬区は隣接していて(つまりは都県境)現在の朝霞駐屯地よりも広い敷地だった陸軍豫科士官學校は練馬区までありまして、正門が練馬区長久保にあり、その正門の門柱は終戦後陸軍豫科士官學校が廃止されても撤去されずに(費用もかかりますからね)そのまま放置されていたということですね。



10:02 建物内に入っていきます。なお、記念館内は撮影NGでして、残念ながら写真はありません。屋内も趣きのある建物なだけにもったいないです。市ヶ谷では撮影できたのに、なぜここがNGなのか基準がわかりませんけど、もしかしたら元が皇族関連の旧軍施設なので(関連資料もあります)NGにしてあるのかなと珍は勝手に推察します。
(つづく)
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