愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・災害の歴史に学ぶ30 「災害」・「わざわい」の語源

2019年12月30日 | 災害の歴史・伝承
 現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。
 日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。
なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。
 さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。
ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)

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愛媛・災害の歴史に学ぶ29 宝永南海地震・津波と宇和島②―被害の状況―

2019年12月29日 | 災害の歴史・伝承
 宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震では、前項で紹介したように現在の宇和島市街地、特に枡形町、新町、佐伯町、元結掛などが2m以上の津波に襲われています。津波の到達地点については、宇和島藩伊達家史料『記録書抜』に「汐、数馬屋敷前迄道ヘハ上ル、堀之内御材木蔵前迄上ル」とあり、志後野迫希世氏によると、数馬とは藩の家老職を務めた桜田数馬のことであり、その屋敷は現在の市立宇和島病院付近とのことで、御材木蔵は宇和島城の南西側にあり、現在の宇和島東高校の向かい側付近にありました。つまり宝永南海地震では、市立宇和島病院、宇和島東高校付近まで津波が到達していたのです。逆に、市街地でも城の南東側にあたる掘端町、広小路、本町追手、愛宕町、宇和津町など、市街地でも標高の比較的高い場所には津波は来ていません。
 さて、宝永南海地震での宇和島藩領内(南予地方)の被害についても伊達家の史料からわかっています。『記録書抜』には「一、地震ニ付、御城内所々御破損、夫々委記。田五百三町二反一畝歩高ニ〆七千二百七十三石ノ損、家其外数々破損流出、死人八人、半死人廿四人、沖ノ島死人二人、御城下家々破損、死人二人」とあります。死者は城下以外の領内で8名、沖の島(現高知県宿毛市)で2名、宇和島城下で2名の合計12名が犠牲となっています。宇和島藩が『記録書抜』を編纂する際に用いた公用記『大控』(『新収日本地震史料』掲載)にはさらに詳細が記されています。犠牲者は「潰ニ打れ或は高汐ニ溺死」とあり、家屋の倒壊や津波で流されたことが死因となっています。城下での2名の犠牲者は、一人が樺崎の男性、もう一人が町方の女性で、ともに津波に流されて亡くなっています。
 『記録書抜』に合計で田503町2反1畝歩、高7,273石の損害とあり、大まかには5平方キロメートル以上の田んぼが被害を受け、宇和島藩10万石のうち、約7%の石高が被害を受けたことになります。
 『大控』にはさらに細かく被害が記録されています。津波によって流出したのは、米が約102石、籾(モミ)約262石、大豆約20石、小豆1斗、胡麻3石、粟(アワ)20石、大麦約150石、黍(キビ)約66石、稈(ワラ)約111石、塩1480俵、干鰯500俵などとなっており、また津波で濡れて水損したのが、米約251石、籾76石、大豆約5石、小豆6斗となっています。1石とは容積約180リットルに相当するとして7,273石は約1300立方メートルとなります。これだけの農産物、海産物被害が特に南予海岸部で出ていたのです。
 また、建物被害では、『大控』には宇和島藩内で「高汐ニ流」とされる家屋は257軒、小屋が50軒あり、合計で300軒以上が津波で流出しています。また、地震の揺れによる倒壊は家屋が71軒、半壊が506軒、火災による焼失が2軒、小屋が全壊8軒、半壊60軒とあり、合計で650軒近くが全半壊しています。その他にも、「震崩」つまり地震の揺れで崩壊した川の土手や石垣は4,596間(約8km)あり、津波によって破損した新田の土手、石垣は3,219間(約6km)などと記され、南予地方各地の河川や海岸部に開発された新田に大きな被害があったことがわかります。
 このように宇和島藩には宝永南海地震に関する史料が充実しています。他の藩では被害が小さかったのではなく、現在に残る史料が少ないため実証できていないのです。宇和島藩の被災記録は、愛媛県内のみならず、豊後水道対岸の大分県、宮崎県においても災害の規模を考える上で一つの指標となるといえるでしょう。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ28 宝永南海地震・津波と宇和島―集中する文教施設―

2019年12月28日 | 災害の歴史・伝承
宇和島市における江戸時代の宝永南海地震の歴史については志後野迫希世氏「近世における宇和島の大地震発生後の様子について―宇和島伊達家の宝永と安政の記録から―」(『よど』15号、2014年)で既に詳細が明らかにされています。ここでは志後野迫論文を参考にしながら、宇和島での具体的な被害を紹介します。
宇和島藩伊達家史料である『記録書抜』によると、宝永4(1707)年10月4日に「未之刻大地震、両殿様、早速御立退、鈴木仲右衛門宅江被為入、御隠居様ハ帯刀宅ニ御一宿、地震度々小地震有之」と書かれています。つまり、当時の藩主・伊達宗贇はすぐに城の南東側(海岸とは反対側で、城下でも標高が比較的高い場所)にある家老職の鈴木仲右衛門宅に避難し、御隠居の伊達宗利は同じく家老職の神尾帯刀宅(城の南東側、現在の丸の内和霊神社付近)に避難していたことがわかります。
注目すべきは『記録書抜』のそのあとの記述です。「大震之後高汐ニ而浜御屋敷汐込ニ相成、升形辺、新町、元結木(ママ)●(外字:より)持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上ヘ四五尺、所ニより其余も汐上り」と書かれており、地震の後に「高汐」つまり津波が襲来したことが記録されているのです。「浜御屋敷」(いわゆる浜御殿。城の南側、佐伯町との間に造成された藩主の居館。現在の天赦園、伊達博物館付近)は津波で海水が入り込み、升形辺(枡形町、現在の宇和島東高校北側)あたりや、新町(城の北東側。現在の新町1、2丁目の商店街区域)や、佐伯町、持筒町(城の南側、現在の佐伯町1、2丁目)から元結掛(城下町の南側。神田川の左岸)にかけては、津波による浸水が「夥(おびただしく)」と酷かったようで、具体的に、津波は床の上から4~5尺(約120~150cm)と記され、津波高は約2mと推定することができ、場所によってはそれ以上であったことがこの記録からわかります。
この枡形町、佐伯町、元結掛は古くからの町ですが、それよりも海側は、後の時代に新田開発により土地が造成されるなどして、現在は文教地区となっており、鶴島小学校、明倫小学校、城南中学校、城東中学校、宇和島南中等教育学校、宇和島水産高校、宇和島東高校(7校で児童・生徒計3415名、教職員387名。平成28年度時点)が建っています。これらの学校の位置する場所では、宝永南海地震(南海トラフを震源とするマグニチュード8.6)規模の地震による津波が到達する場合は、2m以上の津波に襲われる可能性は高いといえます(宇和島市発行の防災マップによれば、想定津波高は4m以上となっています)。学校における防災の観点で、この地域が歴史上、津波襲来地だという災害の特徴(災害特性)を充分に理解し、児童、生徒の避難計画の策定や避難訓練を平時から行っておく必要があるといえるでしょう。
『記録書抜』には「尤椛崎辺大破、橋も落、町家中所々山際ニ野宿仕候事」ともあり、参勤交代の際の港のあった樺崎(現在の住吉公園、歴史民俗資料館あたり)は破壊され、地震の揺れもしくは津波の遡上によって川の橋が落ちたと書かれています。そこに近く、海岸や河川に面している住吉小学校、城北中学校についても津波被害の可能性が高いと言えます。このように宇和島市街地では海辺部に学校が集中し、旧市内では九島、三浦、結出、遊子、蒋淵、戸島、日振島小も同様に、南海トラフ巨大地震の際には、一般住民はもちろんのこと、いかに学校の児童、生徒を安全に避難させるのか、大きな課題になってくると言えます。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ27 内陸部の地震被害―大洲地方の場合―

2019年12月27日 | 災害の歴史・伝承
 嘉永7年(安政元年、1854)の安政南海地震では、現在の愛媛県内各地で地震による家屋倒壊、津波襲来など大きな被害が出ていますが、これまで愛媛の地震の歴史は海岸部の被害が大きく取り上げられる傾向があり、内陸部での被害は紹介されることが少ない状況でした。これは単に被害がなかったのが理由ではなく、津波襲来など象徴的な被害が海岸部に多かったことによるもので、内陸部においても地震被害の史料は数多く残されています。
 その一例として大洲地方を取り上げてみます。大洲における安政南海地震を詳細に記録した史料に大西藤太『大地震荒増記(おおじしんあらましき)』があります。これは既に東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に紹介され、『大洲市誌』にも一部引用されているものです。「嘉永七ツとし中冬初めの五日、申の刻とおぼへし頃、一統夕まゝの拵へ、あるいハ食するもありし最中大地震、一統時のこゑをあげたからハいふもさらなり、家蔵もすて置、老たるものの手を引、子供あるいハやもふものをひんだかゑ、ひよろつきながら一文字ニ広き場所へとこゝろざし、前代未聞の事共なり」とあり、夕ご飯の支度をしたり食べていたりしていた時に大きな地震があり、あわてて家から逃げ、老人の手を引き、子どもや病人を引き抱えながら、足元が定まらない様子で広い場所に避難したというのです。「ひんだかゑ(引き抱え)」とか「ひよろつきながら」、「一文字に」という表現は、住民がいかに地震の最中に混乱し、慌てていたかを物語っています。
 また、「一御城内御かこい数所痛、一御家中其外屋敷かこい門並に長屋大痛み、一片原町辺大荒、一町内余程大荒、弐丁目横丁ニテ弐軒づれる、一舛形辺大荒、一東御門御やぐら下石垣ぬけ大痛(中略)一鉄砲町辺中いたみ(中略)一中村大荒八九軒余も長屋共ツブレル(中略)一内ノ子辺格別之儀大ゆり」ともあります。つまり、大洲城や家臣の屋敷の囲い塀や門が被害を受け、城門・櫓を支える石垣が崩落したり、町方では、片原町、枡形町、鉄砲町はじめ町内(本町、中町、裏町など)も「大荒」と家屋の被害が大きかったようです。肱川をはさんだ中村では8、9軒が倒壊しており、大洲城下町での被害の大きさがこの史料からわかるのです。
 なお、この『荒増記』には「一郡中誠に大荒家数多くづれる少し焼失、死人十人余、(中略)一宇和島大荒津浪打、一吉田大荒人家数多ツフレル津浪」とあり、現在の伊予市や宇和島市において家屋の倒壊が多く死者が出ていることや、南予沿岸部で津波が襲来したことなども記されています。また、『荒増記』以外には『洲城要集』十七(伊予史談会蔵)など大洲における安政南海地震の様子が記された史料があり、特に『洲城要集』には11月4日の前震(東海地震)、5日の本震(南海地震)発生から10日までの余震発生時刻や規模が記録され、翌年3月までは余震活動が活発だったとも記されています。
 なお、大洲地方では、安政南海地震の次の昭和21年の昭和南海地震の際には、家屋倒壊が4棟、町の多くの家や塀の壁が落ちたり、煙突が20本、被害を受けたことが『愛媛新聞』昭和21年12月22日付に記載されており、歴代の南海地震の発生時に、家屋倒壊などの被害が出ていることがこれらの史料からわかります。このように、愛媛県内の内陸部においても家屋倒壊など様々な被害が見られるのです。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ26 洪水伝説―流されるご神体・埋められる人柱―

2019年12月26日 | 災害の歴史・伝承
愛媛県内各地に残る伝説の中にも、洪水、治水に関わる伝承は数多く見られます。その中でも神社のご神体が流されたり、流れてきた事例や、洪水対策として人柱が埋められたりした事例を紹介します。
松山市八反地(旧北条市)の国津比古命神社では、ご神体が洪水のために、大浜の沖合まで流されて海中に沈んでしまいました。その夜にある者が夢を見ます。「自分は国津の神であるが、今、大浜の沖合に流され、海底に沈んでいる。その海上に瓢箪があって、鵜の鳥が止まっている。明日の朝、沖合に舟をこぎ出して引き上げよ」という内容でした。これはご神託だと思い、翌朝、舟に網を乗せて沖合に出ました。すると夢のとおり瓢箪の上に鵜が止まっていた。網を投げ入れ、引き上げようとするも重くて上がりません。困り果てて近くの釣り船に協力してもらい、何とか引き上げ、神社に戻すことができました。この釣り船に乗っていたのが猪木地区の者であり、この時から子孫代々、祭りの際には神輿のお供をすることになりました。現在でも秋祭「風早火事祭り」では猪木地区の者が神輿のお供として鬼面をつけた「大魔(ダイバ)」として祭りに参加しています。その大浜は御旅所となり、「御神霊上昇の地」と刻まれた石碑も建てられています(註:『祭都風早ガイドブック』65頁)。この北条の立岩川は普段は流水が少ないのですが、豪雨となると暴れ川に豹変します。洪水も頻繁に発生し、また治水対策のため流路の変更工事も行われてきたところです。
また、神社のご神体が河川の洪水によって上流から流されてきたという伝承は、県下では重信川流域に多くみられます。例えば、県内の伝説を紹介した『予陽旧跡俗談』には、松前町西高柳の稲荷神社について「流宮五社大明神(中略)いつの頃にや洪水出て此宮下に流るを、正保四(1647)年本所に勧請してより流れ宮と号す」と記されています。現在でも松前町内では稲荷神社のことを「流れ宮」と呼んでいます。これも重信川の洪水に関わる伝説といえるでしょう。
洪水、治水のために人柱を埋めた伝説も県内各地にあります。有名なのは、大洲城の人柱伝説です。宇都宮氏が大洲に城を築いた際、川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」と言うようになり、神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになりました。くじ引きで人柱になる者を決めることにしましたが、このくじに当たったのが「おひじ」という娘でした。「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になりました。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたといわれています。洪水、治水に関わる人柱伝説については他にも、西予市東多田の関地池や、伊予市双海町久保の「ホウトウさん」など県内各地にあります。これらのご神体流れや人柱伝説は、災害の「言い伝え」として今の地域の人々や、後世に警鐘を鳴らすものといえるでしょう。


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愛媛・災害の歴史に学ぶ25 「文化財」となった砂防堰堤―土砂災害を防ぐ―

2019年12月25日 | 災害の歴史・伝承
 愛媛県は県土の約70%を森林が占めていますが、特に平野部の都市である四国中央市、新居浜市、西条市、今治市、松山市、宇和島市等、ともに背後には急峻な山地、森林がそびえており、大雨が降ると、平野部の河川に急に大水が流れ込み、山が崩れて土砂災害が起きやすい地形となっています。こうした土砂災害から住民の命や財産を守るための対策の一つとして「砂防」の事業が行われています。
 その中でも「砂防堰堤」(さぼうえんてい)は、土砂災害による被害を防ぐために作られる施設であり、県内各地の河川や渓流に数多く見られます。「砂防ダム」とも言われ、一般のダムとは異なり、その機能は土砂災害防止に特化しているものです。砂防堰堤は、山中にあることが多いため、人目に触れることが少なく、一般に注目されにくいものです。ところが、重信川には、国登録文化財となっている全国的にも著名な砂防堰堤があります。
 それが東温市山之内大畑乙にある「除ケの堰堤(よけのえんてい)」で、重信川上流域にある石及びコンクリート造の砂防堰堤です。一級河川の重信川は、東三方ケ森(標高1232m)を水源として、東温市から松山市西垣生の河口まで、多くの支流を合わせながら道後平野を流れています。典型的な伏流水河川であるため、普段、表面上は水流が少ないように見えますが、ひとたび大雨となると地下から水があふれ出て流れる「暴れ川」となります。しかも、河川の流量規模の割に、源流から河口までの距離が短いため、勾配が非常にきつく、危険度の高い「急流河川」でもあります。河水の流れが急であるだけではなく、山地から、水と共に土砂も削られながら川に流入しやすく、河川が荒廃しやすい環境といえるのです。
 こういった状況の中で作られた「除ケの堰堤」の近くに、砂防堰堤築造記念碑(昭和10年5月25日建立)が建立され、以下のような内容が刻まれています。
「重信川は水源地が荒廃しており、出水の度に被害が大きく、降雨のたびに流れる土砂で河床が高くなり、地元ではこの対策に悩んでいたが、昭和7年、国庫助成を得て山之内字除に砂防堰堤を築造することになった。工事にあたったのは延約15万人で、就労者は北吉井、南吉井、川上、拝志、三内の5ヶ村から一日千人に及んだこともあった。これが完成し、重信川上流の被害を防ぎ、重信川治水工事の根本計画を樹立することができた。」
 このように、重信川は上流の荒廃地から土砂が流出し、下流では河床が上昇して、可能な流水量が減少してしまい、昔から氾濫を繰り返してきました。そのため江戸時代以降、河床を掘り下げる「瀬掘り」が行われていたものの、重信川上流、中流も含めた全流域では、面積が広すぎて人的、経済的な理由で実施は困難でした。度重なる洪水、水害、土砂災害のため、流域の住民にとっては砂防事業の着手は悲願だったのです。
 そして重信川上流域に「除ケの堰堤」が昭和10年に完成し、堤長115mの主堰堤の下流側に堤長92mの副堰堤が築かれました。瀬戸内海の島石(花崗岩)を1万7千個余り、伝統的な石積工法で施工し、歴史的な土木構造物として高く評価されるとともに、現在の保存状況も良好であることから、将来に引き継ぐべき土木遺産として、平成13年に国文化財に登録されています。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ24 旧松山藩士族と福島県開拓移住地の今(2)

2019年12月24日 | 災害の歴史・伝承
 郡山市教育委員会の文化財担当者から郡山市指定文化財となっている旧小山家住宅や県指定文化財の開成館の被災状況と今後の復旧の予定等をうかがうことができました。旧小山家住宅は、愛媛県松山市から郡山市牛庭地区への移住者が明治時代に建てた住宅であり、移住開拓のシンボルとして郡山市中心地の開成館(現在、郡役所の前身である区会所や安積開拓官舎など郡山開拓に関する歴史的建造物を保存公開する施設となっている)の敷地内に移築、保存されている建造物です。この旧小山家住宅については犬伏武彦氏『民家と人間の物語—愛媛・古建築の魅力—』(愛媛新聞社、2003年刊)に詳細に紹介されています。現在、開成館はやはり地震被害のため閉館した状態でした。ただ、旧小山家住宅を含め建築士による診断を行い修繕の計画を既に立てており、平成24年度内には再オープンする予定で修繕費を予算化しているとのことでした。
 この開拓移住者の住居であった旧小山家住宅は犬伏氏が言うには「日本一貧しい住宅」であり、実見すると梁が細く構造的に弱い建築のようにも思えましたが、震災の震度6弱の揺れでは倒壊することはありませんでした。
 土壁に多くのヒビが入ったり、濡れ縁の土台と柱がずれたり、障子紙が揺れによって破れたりという被害がありましたが、他の建築物に比べると修繕で対応できる小規模被害であったとのことです。旧小山家住宅については平成24年夏に修繕を完了しています。
 教育委員会にうかがった後、松山の方々が実際に移住した郡山市南部の牛庭地区に足を運びました。そこでは牛庭区長、副区長に出迎えていただき、いろいろなお話を聞く事ができました。今でも松山からの開拓移住者のご子孫も多く、それには驚かされました。実は災前の平成22年10月27日には全国の中核市サミットが郡山市で行われ、そこに副市長をはじめ松山市職員5名が出席したこともあり、安積公民館牛庭分館において「松山副市長を囲む会」が行われていました。この主催は「牛庭区松山藩入植者子孫」であり、地元に住む入植者家族18名が出席したということです。現在でも松山市との交流が行われていることを現地にうかがって知った次第です。
 そして牛庭には松山からの移住者による開拓記念碑なども建てられており、松山との交流の深さを実感しました。明治時代の安積開拓は明治政府による安積疏水事業によって始まりますが、その安積疏水(現在は4月26日から9月10日に水が流れるようになっている)のちょうど真上に松山関係の記念碑が建てられていました(写真参照。奥に向かっているのが安積疏水)。水路の上に記念碑というちょっと珍しい建て方には少し驚かされましたが、それだけ象徴的な記念碑として扱われているのです。そして地元の氏神である三島神社を訪問しました。伊予大三島の大山祇神社と繋がりがあるとのことで、社号の扁額は現在の愛媛大山祇神社の宮司が書いたものでした。この三島神社は、社殿自体の被害はなかったのですが、鳥居がもろくも倒壊していました。倒れたというよりも固定していた基礎を残して折れた状態です。これについては災後十ヶ月を経過しても全く復旧できていませんでした。修理、新調の計画も立っていないということです。そして旧小山家住宅がもともと建っていた場所も教えてもらい、いろいろ牛庭を散策してみました。地区内は被災した住宅、建て直している住宅、いろいろ地震の爪痕が見受けられ、各個々人の生活復旧が進んでいるものの地域共有の神社等の復旧は今後の予定だという状況でした。このように地元の教育委員会、公民館、区長、副区長、そしてゼミの友人にいろいろお世話になりながらの現地確認となりました。
 以上、松山と繋がりのある福島県郡山市の史跡の現況はこれまで愛媛県内でも充分に知られていないこともあり、旧小山家住宅、牛庭地区、三島神社等を紹介した次第です。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ23 旧松山藩士族と福島県開拓移住地の今(1)

2019年12月23日 | 災害の歴史・伝承
 平成23年3月11日に発生した東日本大震災。被災した東北地方には愛媛県と歴史的、文化的に繋がりのある地域が多くあります。例えば岩手県北上市の聖塚。伊予出身の一遍上人の祖父河野通信の墓所とされている史跡です。そして宮城県仙台市をはじめ東北各地に見られる郷土芸能の鹿踊り。江戸時代初期に仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島藩に入部した縁により南予地方各地に東北由来の鹿踊が伝播しています。また、同じく伊達家入部の関係で仙台領の名取郷(現在の名取市付近)の軍夫が宇和海の海上警護のために伊方町名取地区に移住したという伝承があります。
そのような歴史的繋がりのある地域の一つに福島県郡山市があります。筆者は東日本大震災後の状況を確認するため、平成24年1月27日に福島県郡山市に足を運んでみました。明治時代に愛媛県松山から安積原野の開拓のため移住、定住した旧松山藩士族の旧跡を見てまわるためでした。福島県安積原野の開拓は明治時代の士族授産事業として行われ、現在の郡山地方の発展の基礎を築いたといわれています。江戸時代には水利の便に乏しかったのですが、明治政府の直営事業として明治15年に安積疏水が完成し、この地の開拓事業に禄を失った士族が全国から入植したのです。鳥取、高知、久留米など西日本からの移住が多く、旧松山藩士族は15戸49名が明治15から17年にかけて移住しています。この経緯については高須賀康生氏「松山藩士族の安積開拓移住について(上)(下)」(『伊予史談』246、247号、1982年)に詳しく紹介されています。
 郡山市に隣接する須賀川市には筆者の大学時代のゼミの同級生で日本史教員をしている友人がいるので、彼と久方ぶりに対面しました。車を出してもらって、郡山各地を見学しました。友人からは地震当日のこと、直後の断水やガソリン等の物資不足、自宅の被災状況や県外への避難、そして福島第一原子力発電所事故による放射線の影響や現状などいろいろ話を聞きながら、郡山市内を巡りました。
 まずうかがったのが郡山市役所です。本庁舎は地震で甚大な被害のため使用不可となっていました。各課が分庁舎や市内の別の建物に移っての業務を行わなければいけません。人口33万の大都市の本庁舎が使えないという現実を目の当たりにしました。教育委員会の文化財担当者に挨拶するため、教育委員会が移転している音楽文化交流館に行ったのですが、狭い部屋にすし詰め状態で並べられた仮設長机での業務環境でした。職員の皆さんが慌ただしく執務する様子。その部屋の雰囲気に震災から十ヶ月経ってもいまだ深刻な状況である事を改めて実感させられました。また、音楽文化交流館内では市民向けに、放射線の空間線量を計測するサーベイメータ、積算線量計の貸し出しの窓口が設置されていて、幼い子どもをもつ保護者たちが数多く並んでいるのも印象的でした。(続く)


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愛媛・災害の歴史に学ぶ22 時代とともに変わる火災の原因

2019年12月22日 | 災害の歴史・伝承
 人間の生活には「火」は不可欠ですが、動物の中でも「火」を扱う技術を習得しているのは人間だけです。サルは「火」を意図的につけたり消したりすることはできません。ヒトは「火」への怖れを抱きつつ、それを制御し、使用する技を身につけたことで、サルから進化を遂げたといえるかもしれません。それでも人間は完全には「火」を制御できてはいません。人類史上、変わることなく火災は発生し、「火の恐怖」を感じ、接してきました。
 日本の場合、古くから家屋は木造建築が主であったため、火災リスクとは常に隣り合わせでした。平安時代中期の平安京を始めとする都市部では、貴族や庶民の間で穢(けがれ)意識が高まりますが、死の穢、血の穢などの他に「失火穢」というものもありました。日本の文化の中で社会秩序を乱し、破壊させるものとして「失火」は忌み嫌われていたのです。
 「火」は怖れられるだけの存在ではありません。人間は「火」から光と熱という大きな恩恵を得てきました。行灯、提灯、ランプなど灯下具や、火鉢、こたつなどの暖房具を使い、明るさと暖かさを得る事ができたのです。しかし、これらの道具が火災の原因になってきたのも事実です。
 愛媛県における火災の原因を見てみると、明治時代には、かまどの火の不始末がトップで、たき火や灰類、灯火、タバコの不始末の順となっています。失火については大正時代には火災原因の88%(年300件程度)を占めていましたが、昭和に入ると年100件程度と減少します。これは電灯の普及、かまどの改良、茅葺き屋根の減少などとともに、国民教育での防火思想や、近代的な防火設備の充実なども要因として挙げられます。
 戦後の愛媛では、昭和20年代、火災発生件数は年2〜400件だったのですが、昭和30年代には年5〜600件、40年代、50年代には年7〜800件と増加傾向にありました。昭和53年をピークに徐々に減少し、平成に入ると年4〜500件程度となっています。
 火災の原因も昭和20年代まではかまど、漏電が多かったのですが、これらは30年代には姿を消し、たばこと火遊びを原因とする火災が増えました。昭和40年以降でもたばこ、たき火、火遊びが常にワーストスリーとなっています。平成に入っても、こんろ、たばこ、たき火が原因の上位となっています。
 このように「火」を扱う技術は人類史上、継承されてきたといいつつも、タバコ、火遊びが主原因になる時代も経て、現在では、例えばオール電化住宅など、そもそも身近な生活では「火」を使う必要のない生活スタイルにも浸透しつつあります。大げさな表現になりますが、火を使わない、火を扱うことができないということは、「サルからヒトへの進化」と逆の現象が起こっているといえなくもありません。人間が人間たりうるには「火」を制御する技術を身体化しておく。これは火災予防の観点からも重要なことだと思われます。


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愛媛・災害の歴史に学ぶ21 宝永南海地震−松山市堀江町の記録−

2019年12月21日 | 災害の歴史・伝承
 『松山市史料集』に「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」という史料が所収されおり、宝永4(1707)年の南海地震による松山付近の被害などが記されているので紹介します。
 「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかります。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震が集中していたことを物語ります。そして史料には発生当日の10月4日から7日までは、一日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生三日後の10月7日から14日までは、一日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、二、三日に1度は余震があったと書かれています。この史料から、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになります。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れであり、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できます。
また、堀江村周辺はじめ松山地方の被害状況についても書かれています。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかったようです。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせています。
 さて、この史料には津波被害の記述も見られます。ただし松山に襲来した津波ではなく、堀江村から九州方面に出漁していた漁民が経験し、伝聞した情報です。「大地震之時、豊後国佐伯鰯網之日用働ニ堀江村ゟ三拾人余参候処ニ、佐伯ニ而地震止、半刻程過申と常々ゟ汐干申候而其まゝ四海波汐之高サ四拾間余茂みち上リ其引汐ニ佐伯浦之家々沖ヘ不残引取申候、老女子共餘多死申候由、同十四日ニ漸命からがら仕合ニ而当村帰帆仕候」とあり、地震の際、堀江村の漁民30人余が豊後国佐伯領(現在の大分県佐伯市)のイワシ網の日傭稼ぎに出稼中で、佐伯湾外で操業していましたが、地震直後に湾を襲った津波で、佐伯の家々が沖に流され、数多くの死者が出ました。そして堀江村の漁民は地震発生の10日後の14日に、命からがら逃げ帰ったことがわかります。また大坂(現大阪府)では船の被害は815艘に及び、死者は1万2500人余であったと伝わっているとも記され、瀬戸内海各地でも被害が見られ、甘崎城(現今治市上浦町)などが被害を受けたほか、家屋倒壊による死者もいました。
 史料には、今後は家屋の被害があっても速やかに高所に避難することが教訓として書かれています。
以上、この「堀江村記録」は、宝永南海地震当日の様子のみならず、余震の状況、道後温泉の湧出が止まったこと、大坂、瀬戸内海各地、豊後水道特に佐伯地方での津波被害を伝える貴重な地震史料といえます。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ20 地震による道後温泉不出5

2019年12月20日 | 災害の歴史・伝承
宝永南海地震から約150年後の嘉永7/安政元(1854)年に安政南海地震が発生しました。このときに道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止しています(『松山市史』第1巻、39頁)。このように歴代南海地震では高い確率で湧出が止まっており、それは後に紹介する昭和南海地震でも同様でした。この安政南海地震は、嘉永7年11月5日に発生していますが、地震後すぐに不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されています。地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道二里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願したのです。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれています。この湯神社所蔵の額は、愛媛県内の地震災害に関する貴重な歴史資料といえますが、湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されています(『伊予の湯』82頁)。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかるのです。また次の南海地震、つまり昭和21(1946)年12月の昭和南海地震でも約70日間、湧出が停止しています。将来、南海トラフ地震が発生した場合、道後温泉の湯に何らかの異常が出る可能性は高く、現在、愛媛県を代表する観光地となっていることもあり、その経済的ダメージは大きくなるものと想定されます。
この、直近に発生した南海地震、昭和21年の昭和南海地震は、安政南海地震の92年後に発生しています。平成28年は昭和南海地震からちょうど70年であり、やはり近い将来に南海トラフ巨大地震が発生してもおかしくはない状況と言えます。
昭和南海地震の発生翌日の昭和21年12月22日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載されています。「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」とあり、愛媛県内の死者26名を数え、地震直後に道後温泉が止まって、大きなニュースとなっていました。
愛媛新聞記事によると地震当日に湧出が止まり、3日後の12月24日には湯神社、伊佐爾波神社の神職が出湯祈願を行っています。道後温泉は宝永4(1707)年の宝永南海地震では約5ヶ月間、嘉永7(1854)年の安政南海地震では約3ヶ月間、湯の湧出が止まっており、昭和を含め、過去3回の南海地震で連続して不出被害が出ていることになります。ただし、昭和南海地震でも発生から1ヶ月後から徐々に地下水位が回復しはじめ、昭和22年3月には湧出が復活し、3月21日には復活を祝う温泉祭が開催され、市民による盛大な仮装行列も行われている(註:愛媛新聞 昭和22年3月22日記事)。
このように、道後温泉は南海地震で不出となりながらも、涸渇することはなく、結局は数ヶ月後には復活することが各種史料からわかっています。巨大地震を恐れ、無闇に将来を不安視するのではなく、過去の南海地震での不出・復活の歴史に学びながら、災害特性を把握して将来に備えるという態度が大切なのかもしれません。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ19 地震による道後温泉不出4

2019年12月19日 | 災害の歴史・伝承
宝永南海地震と道後温泉については、松山市立子規記念博物館編『伊予の湯』に『玉の石』が紹介されており、参考となります(『第三〇回特別企画展図録 伊予の湯』1994年、32頁)。これは道後温泉の案内記で僧曇海により元禄15(1702)年に成立したものです。温泉の由来や元禄15年当時の温泉が描かれており、道後温泉の詳細が把握できる史料として古いものといえます。この18世紀初頭成立の『玉の石』(別名『道後温泉由来記細書』)には宝永南海地震後に加筆された「大地震事」が含まれており(『道後温泉』281~283頁)、より具体的な被害の様子がわかります。「宝永四丁亥年十月四日未の刻に諸国大地震 爰に与州道後の温泉に数千浴し侍りけるに 一の湯釜の鳴うごく事をびたゞし 山も崩るゝ計にて 忽温泉止や否 数々の湯坪 一瞬の間に涸(かれ)にけり 湯中にある者ハたゞ池の魚の樋をぬかるゝに相同し 気をうしなひて宛転(ふしまろぶ) 適(たまたま)人心地有ものは自他の衣類をわきまへず 前後忘してさはぎあへり」とあり、湯は一瞬にして枯れ、湯に入っていた者は転倒したり、自分や他人の衣服もわからないほど騒いだりするなど、地震の際の入浴者の混乱状況がわかるのです。そして「湯守村長城下にはしり 急をつぐる事櫛の歯を挽くがごとし 又湯の町近辺の池井 木の葉をくゞる谷水まで一滴もなく同時に乾きぬ 往昔も度々此湯涸し事有といへ共 今更眼下に見る事驚にたえたり」とあり、すぐに湯守や村役人が城下に報告しましたが、道後では温泉だけではなく、池、井戸、谷水まで涸渇してしまい、しかも、それは初めての体験ではなく、以前にも不出を経験していたものの、目の当たりにして驚いたというのです。この以前の経験は貞享2(1686)年地震のことと思われます。そして「故に大守有司に命して 八幡宮湯の神社 其外所々の祈願所へ時日をうつさず(中略)社家に命して俄に玉の御石に仮の御殿をしつらひ注連をひき不浄をいましめ 社司爰に宮籠り 幣帛をさゝげ 十二番御(ばんかくらを)奏し(中略)又一の湯を精進屋とし 数輩の宮人殿籠(中略)明れば同五つのとし(中略)去年のかんな月四日より 昼夜の震動やむ事なく いかなる時か来りけんと精神をけづる計なり」とあり、涌出回復までの祈祷の様子がわかります。これについては『温泉祈祷・湯神社再興日記』(別名「太守様并郡方御祈祷覚帳并湯神社再興諸日記」〔宝永四年亥十月五日 烏谷備前控、湯神社蔵〕『道後温泉』306~311頁所収)にも詳しく載っています。
さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ18 地震による道後温泉不出3

2019年12月18日 | 災害の歴史・伝承
江戸時代中期以降になると残された史料も多く、必然的に地震記録も多く見られるようになります。まず『松山叢談』には、貞享2(1686)年12月4日に大地震があって「道後湯没す」とあり、『予陽郡郷俚諺集』には、これを同年12月10日のことと記し、不出となったのではなく「大地震泥湯湧出、後青湯となる」とあります(『松山叢談』334頁、『予陽郡郷俚諺集』21頁)。つまり湯は止まらなかったけれども泥湯(濁った湯)が出てしまい、その後、元の「青湯」に戻ったというのです。大正15年発行『道後温泉誌』に編年体で温泉の歴史が記されていますが、その中でも「貞享三年十二月十日、地又震ひ清泉変して黄濁す、暫時にして旧に復せり」とあります(『道後温泉誌』道後温泉事務所発行、1926年、10〜13頁)。これも温泉における地震被害を知る上で貴重な記述であり、将来の地震による被害予測でも、温泉不出とならなくても泥湯が出てしまって温泉機能が停止する可能性があるといえるでしょう。この貞享2年12月の地震は安芸国、伊予国での被害記録が見られるため、平成13年に発生した芸予地震に類するタイプの地震だと思われます。
次に大きな被害の出た宝永南海地震についてです。現在、道後の湯神社では毎年3月19日に湯祈祷が行われています。湯祈祷は宝永南海地震によって温泉が不出となったものの再び湧出したことから、それに感謝して神楽を奉納されたのが起源であり、その宝永南海地震の際の道後温泉の様子を紹介したいと思います。
宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震による被害は、『松山市史』にも紹介されていますが、145日間も温泉の湧出が停止し、松山藩主松平定直が湯神社に祈祷を仰せ付けています。『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり(『垂憲録・垂憲録拾遺』伊予史談会、1986年発行、130頁、『松山市史』第1巻、松山市、1992年、38頁)、被害の概要がわかります。この『垂憲録拾遺』は文政8(1825)年に成立した松山藩主歴代の事績をまとめた『垂憲録』の拾遺として藩士竹内信英が天保6(1835)年頃に編纂した史料であり、信憑性は高いものです。また、『諸事頭書之控』に地震での温泉不出後の様子が書かれています。「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり(『諸事頭書之控』伊予史談会、1988年発行、87頁)、地震翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになったことがわかります。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあります(『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』1935年発行、391〜392頁)。このように急に湧出が回復したのではなく、地震発生から約4ヶ月後から少しづつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかっています。

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愛媛・災害の歴史に学ぶ17 地震による道後温泉不出2

2019年12月17日 | 災害の歴史・伝承
先に挙げたとおり天武天皇13(684)年の白鳳南海地震で道後温泉が不出となりました。これは『道後明王院旧記』にも見えますが、国史である『日本書紀』に明記され、しかもその年代が律令制期に入って地方からの情報も正確に収集できる時期の史料なので、これは史実といえるでしょう。その次に、温泉不出となった記録は、一気に中世まで新しくなりますが、享禄年中(1528~31年)に賊徒と戦い、太刀の血を洗うと、温泉が枯れ、湯神社に祈れば湧出したということが『予陽郡郷俚諺集』に記され、『道後温泉』では地震史料として扱われています。しかしこれは史料の記述内容や、同時期の地震被害の記録が県内や全国の他地域でも確認できないことから、地震による不出かどうか判断はできません。
江戸時代に入ると、『道後明王院旧記』に慶長19(1614)年10月25日に「大地震、温泉を埋む」とあります。『松山叢談』にも「慶長十九年十月廿五日、寛永二年乙丑三月十八日共に地震して湯出ず、其の後月を越て又出で初の如し」と記されています(曽我鍛編『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』予陽叢書刊行会、1935年、113頁)。この慶長19年10月25日の地震は関東地方、北陸地方から四国地方に到るまでの広い範囲で史料が残っているものの、その実態はよくわかっていません。震源域が日本海なのかそれとも東海や南海なのか諸説があります。『松山叢談』は明治初期に秋山久敬らが旧藩主、旧藩士に伝わる記録等をもとに編纂された松山藩の歴史を知る上で基本となる史料であり、それらに記載されていることから信憑性は高いといえます。高橋治郎氏は『道後明王院旧記』の記述から、これは温泉不出とはいえず、斜面崩壊により道後温泉が埋まったと解説しています。ただし『松山叢談』に「湯出でず」そして翌月以降に再湧出したことが記されているので、地震による温泉不出の事例として扱ってもいいのではないでしょうか。
次に『松山叢談』に記されている寛永2(1625)年の地震があります。『久米八幡宮記記録抜書』に「一、寛永二年御先代様之時分、大地震之時、道後温泉不出、湯之岡ニ仮社ヲ建」と記され(『道後温泉』102頁)、この地震は3月18日に発生したものの詳細な記録がなく、どのような地震だったのかは不明な点が多いのです。しかしその3ヶ月前には安芸国(広島県)にて、3ヶ月後に熊本で地震被害の記録が残り、西日本で連続して地震被害が出ています。この約30年前には文禄5(1596)年7月に中央構造線断層帯を震源と推定される、いわゆる慶長伊予地震、豊後地震、伏見地震が連続して発生していますが、この寛永2年の地震も中央構造線断層帯に沿って広島、松山、熊本と連続して発生している可能性もあります。文禄5年(慶長地震)から約30年しか経過していないことから、余震もしくは誘発地震に該当するかどうかも検討対象となってくると思われます。平成28年4月の熊本地震以来、中央構造線断層帯を震源とする地震の歴史が注目され、特に慶長地震は取り上げられる機会が増えましたが、寛永2年の地震についても愛媛県、道後温泉と中央構造線断層帯関連で無視することはできないと言えます。同様記事は『予陽郡郷俚諺集』、『道後明王院旧記』、『小松邑志』にも記載があるなど史料が比較的豊富なので、今後、検証が必要となる地震だと思われます。


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愛媛・災害の歴史に学ぶ16 地震による道後温泉不出1

2019年12月16日 | 災害の歴史・伝承
今後30年以内に70%程度の確率で発生が予想されている南海トラフ巨大地震(東海地震・東南海地震・南海地震の三連動地震)ですが、南海トラフを震源とする巨大地震は過去にも100年から150年の周期で発生していることが各種史料から明らかとなっています。南海トラフ地震に関する文献史料として最古の記録が『日本書紀』天武天皇13年(684)年10月14日条の白鳳南海地震です。この条には「壬辰、人定に逮りて、大きに地震る。国挙りて男女叫び唱ひて、不知東西ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出でず。土佐国の田苑五十万頃、没れて海と為る」とあり、まず「伊予温泉」つまり松山市の道後温泉の湯が止まり、土佐国で地盤が沈降して海水が浸入したこと等が記されています。つまり南海地震に関する最古の文字記録の中で、最初に登場する地名が「伊予」であり、道後温泉の被害が中央(朝廷)でも注目されていたことがわかります。
そして道後温泉はこの白鳳南海地震だけではなく、100年から150年周期の歴代の南海地震等によってたびたび湧出が止まっています。このことは松山市発行の『道後温泉』(「道後温泉」編集委員会編『道後温泉』松山市、1982年、101~106頁)や高橋治郎氏「地震と道後温泉」(『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、2014年)にて紹介されていますが、ここでは歴代南海地震での不出や復旧の様子をより具体的に紹介してみたいと思います。
まず『道後明王院旧記』という史料があります。これは道後温泉の管理にあたっていた明王院の記録で、成立は江戸時代であり、一次史料としては扱えませんが、参考までに紹介しておきます。明王院については、江戸時代初期に町奉行が道後温泉の支配を行っていましたが、その後、藩主の別荘であった道後御茶屋の御茶屋番が温泉の管理を行い、元禄年間頃に御茶屋番が廃止され、修験の明王院が温泉の鍵を預かり、温泉を司るようになっています。それが明治時代初期の修験道廃止まで続いたという経緯がありました。この明王院の記録の中に、まず推古天皇13(605)年に「温泉陥没す」とあり(『道後温泉』102頁)、次に推古36(628)年に地震にて温泉が不出となり、三年を経て、舒明2年9月に出たといいます(『道後温泉』102頁)。684年の白鳳南海地震よりも古い記録で、『予陽郡郷俚諺集』にも「人王三十四代推古天皇三十六年、地震して温泉没して不出、三年を経て舒明天皇三年九月、温泉再出て元の如し」と見えます(伊予史談会編『伊予史談会双書第15集 予陽郡郷俚諺集 伊予古蹟志』1987年、20頁)。これも史料の成立年代が江戸時代であり、同時代の一次史料ではない点と、他にこの7世紀前半に同様の地震記録が確認できないことから、史実かどうか信憑性は高くはないと判断できます。ただし『予陽郡郷俚諺集』は宝永7(1710)年の完成であり、宝永南海地震の直後にあたります。編者の松山藩家老奥平氏は宝永南海地震の際の道後温泉不出を目の当たりにしていると思われ、本文中に温泉不出の歴史を詳述した契機になったとも推察できるのです。


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