愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・災害の歴史に学ぶ29 宝永南海地震・津波と宇和島②―被害の状況―

2019年12月29日 | 災害の歴史・伝承
 宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震では、前項で紹介したように現在の宇和島市街地、特に枡形町、新町、佐伯町、元結掛などが2m以上の津波に襲われています。津波の到達地点については、宇和島藩伊達家史料『記録書抜』に「汐、数馬屋敷前迄道ヘハ上ル、堀之内御材木蔵前迄上ル」とあり、志後野迫希世氏によると、数馬とは藩の家老職を務めた桜田数馬のことであり、その屋敷は現在の市立宇和島病院付近とのことで、御材木蔵は宇和島城の南西側にあり、現在の宇和島東高校の向かい側付近にありました。つまり宝永南海地震では、市立宇和島病院、宇和島東高校付近まで津波が到達していたのです。逆に、市街地でも城の南東側にあたる掘端町、広小路、本町追手、愛宕町、宇和津町など、市街地でも標高の比較的高い場所には津波は来ていません。
 さて、宝永南海地震での宇和島藩領内(南予地方)の被害についても伊達家の史料からわかっています。『記録書抜』には「一、地震ニ付、御城内所々御破損、夫々委記。田五百三町二反一畝歩高ニ〆七千二百七十三石ノ損、家其外数々破損流出、死人八人、半死人廿四人、沖ノ島死人二人、御城下家々破損、死人二人」とあります。死者は城下以外の領内で8名、沖の島(現高知県宿毛市)で2名、宇和島城下で2名の合計12名が犠牲となっています。宇和島藩が『記録書抜』を編纂する際に用いた公用記『大控』(『新収日本地震史料』掲載)にはさらに詳細が記されています。犠牲者は「潰ニ打れ或は高汐ニ溺死」とあり、家屋の倒壊や津波で流されたことが死因となっています。城下での2名の犠牲者は、一人が樺崎の男性、もう一人が町方の女性で、ともに津波に流されて亡くなっています。
 『記録書抜』に合計で田503町2反1畝歩、高7,273石の損害とあり、大まかには5平方キロメートル以上の田んぼが被害を受け、宇和島藩10万石のうち、約7%の石高が被害を受けたことになります。
 『大控』にはさらに細かく被害が記録されています。津波によって流出したのは、米が約102石、籾(モミ)約262石、大豆約20石、小豆1斗、胡麻3石、粟(アワ)20石、大麦約150石、黍(キビ)約66石、稈(ワラ)約111石、塩1480俵、干鰯500俵などとなっており、また津波で濡れて水損したのが、米約251石、籾76石、大豆約5石、小豆6斗となっています。1石とは容積約180リットルに相当するとして7,273石は約1300立方メートルとなります。これだけの農産物、海産物被害が特に南予海岸部で出ていたのです。
 また、建物被害では、『大控』には宇和島藩内で「高汐ニ流」とされる家屋は257軒、小屋が50軒あり、合計で300軒以上が津波で流出しています。また、地震の揺れによる倒壊は家屋が71軒、半壊が506軒、火災による焼失が2軒、小屋が全壊8軒、半壊60軒とあり、合計で650軒近くが全半壊しています。その他にも、「震崩」つまり地震の揺れで崩壊した川の土手や石垣は4,596間(約8km)あり、津波によって破損した新田の土手、石垣は3,219間(約6km)などと記され、南予地方各地の河川や海岸部に開発された新田に大きな被害があったことがわかります。
 このように宇和島藩には宝永南海地震に関する史料が充実しています。他の藩では被害が小さかったのではなく、現在に残る史料が少ないため実証できていないのです。宇和島藩の被災記録は、愛媛県内のみならず、豊後水道対岸の大分県、宮崎県においても災害の規模を考える上で一つの指標となるといえるでしょう。

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