愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

甘茶とムカデ除けの俗信

2005年08月28日 | 年中行事

 昨日の朝、自宅でシャワーを浴びようとしたら、アシナガ蜂が数匹、風呂場の中を飛んでいて驚愕、仰天!!気が付かずシャワーを浴びていたら、大変なことになっていたかもしれない。出かける前の朝の貴重な時間。しかも昨日は愛媛民俗学会例会の会場準備をしなければいけなかったので、急ぎ仕度をしていた最中だった。即刻対処しなければと思ったが、無念、残念。駆除スプレーを家に常備していない。朝早くにスプレーを売っている店は開いていない。危険は承知で、原始的な方法ではあったが、新聞紙を丸めて、風呂場の中の蜂と格闘した末、何とか無事退治することができた。
 しかし安堵も束の間。家の外から確認すると、風呂の換気扇外側に、アシナガ蜂の巣ができつつあり、即、長い竹棒で巣を駆除した次第。おかげで、すっかり目も覚めたし、朝の体操(?)にもなった。今思えば、無謀な駆除方法だったが、放っておくわけにもいかなかったので、仕方がない。
 そんな昨日の喧騒を、今日、西予市明浜町渡江の方と話していたら、蜂除けではないが、渡江では昭和30年頃まで、墨で紙に「あまちゃ」と平仮名で書いて、それを逆さにして、家の中の柱などに貼っていたという話が出てきた。蚊帳を出している夏の季節に貼っていたといい、ムカデ除けだと言われていたという。
 『日本民俗大辞典』によると、柳田国男著「卯月八日」を参考文献として、潅仏会(花祭り)の甘茶で「ウヅキヨウカは吉日でオナガムシの成敗をする。」と書いて、便所に貼っておくと虫がつかぬとか、甘茶を家の廻りにまけば蛇が入らぬとか、田圃の周囲にまけば虫がつかぬなど、近畿地方各地で伝えられると紹介されている。『愛媛県史民俗編下』でも花祭りのについて「甘茶には格別の呪力があると信ぜられていて、家族で分けて飲む。またこれで墨をすり、『千早ぶる卯月八日は吉日よ、神さげ虫を成敗ぞする』とか、『卯月八日のちる日に神さげ虫を成敗する』とか『茶』とだけ書いた紙片を逆さにして家の柱や入口に貼っておくと長虫が入らぬといわれている。また甘茶を家の周囲にまいて百足や蛇除けの呪いをする。」とある。ここでは具体的な地名は出ていないが、愛媛県内の各市町村誌を眺めてみると、類例を数多く散見することができ、県内でも広く見られる俗信のようである。例えば『伊方町誌』には、4月8日の花まつりで参拝人は甘茶を受けて帰り、この甘茶で墨をすって「茶」と書いた紙を逆さに家の柱にはるとムカデ、蛇が入らないといわれている、とあり、『八幡浜市誌』でも「甘茶は呪力があると信じられ、家族で分けて飲んだり、これで墨をすり、小さな紙片に『ちゃ』と書いて、むかでの出そうな所の柱の下の方へ逆さに貼り付けておくと、むかでが出てこない」と紹介されている。また、『ふるさと年中行事調査報告書』(昭和49年、愛媛県教育委員会発行)では越智郡岩城村(現今治市)の事例として、「(潅仏会への)一般の参拝者は甘茶を持って帰り、蚊帳をこの日に出して甘茶をふりかける。長虫がつかないとの意である。」と紹介されている。このように、潅仏会の甘茶が、ムカデや蛇(長虫)を寄せ付けない呪力を持つものと信じられていたようである。
 しかし、なぜ紙片に「あまちゃ」とか「ちゃ」、「茶」と墨書きして、それを逆さに貼るのだろうか。その点は疑問として残る。潅仏会の由来譚に、そのヒントがあるのかと思って少し調べてみたが、必ずしもそうではないようだ。
 潅仏会で誕生仏に甘茶をかける行為の由来は、『仏教儀礼辞典』(東京堂出版)によると、摩耶夫人がルンビニー園で身を洗浴した時、産気を催して無憂樹の下で、垂れ下がった花の枝をとろうとした時、右脇から安らかに太子を誕生された。『普曜経』第二にその時の様子が記されており、「爾の時菩薩右脇より生じ、忽然として身宝蓮華に住みするを見る。地に堕ちて行くこと七歩、梵音を顕揚して無常を訓教し、我れ当に天上天下を救度して天人尊と為り、生死の苦を断じ、三界に上なく、一切の衆をして無為常安ならしむべしと。天帝釈梵忽然として来下し、雑名香水をもて菩薩を洗浴し、九竜上に在りて香水を下し、聖釈を洗浴す。洗浴竟已(おわ)つて身心清浄なり」とある。潅仏会は釈迦の誕生を祝うためのものであるが、竜王が空中より香水を濯ぎ、その身体を洗浴したということから、潅仏会(花祭り)では誕生仏の像に甘茶をそそぐというのである。しかし、『普曜経』の記述では、そそぐのは甘茶ではなく、香水となっている。この点についても『仏教儀礼辞典』によると、甘茶を用いるようになったのは江戸時代からだろうとしており、それ以前には五色香水を混合して用いたらしい。そして18世紀前半の享和年間頃の『燕石十種』第一に潅仏会に茶を用いていることや、文政5(1822)年成立の『民間時令』第二に「五香水をそゝぐよしみえたれど、江戸にては茶をもてそゝげり」という記述を引用しており、江戸時代に次第に香水から甘茶へ移行していったことがうかがえる。
 以上の潅仏会の由来や歴史からは、甘茶が本来用いられていたわけではなかったこと、そしてムカデや蛇除けのまじないにつながる要素は見出せないことがわかる。『普曜経』の記載を基礎として考えるのであれば、「香水」と紙片に墨書して長虫除けとすべきところを、管見できる、どの民俗事例も、紙片には「茶」もしくは「甘茶」を漢字、もしくは平仮名で書くことになっている。
 つまり、この俗信は江戸時代以降に成立したものと考えることができ、もともとの潅仏会という仏教儀礼そのものから派生した習俗ではないようである。
 そこで、この疑問を推測するヒントとなるのが、茶や甘茶の「お接待」との関係である。愛媛でも西予市城川町など南予山間部では「茶堂」と呼ばれる辻堂があり、そこで遍路や旅人に茶や甘茶などの接待をするという習慣がある。これは地区の外から来訪する者を歓待するために行われる行為であるが、「あまちゃ」と書いた紙片を逆さに貼る行為は、歓待の逆の意味で、つまり排除したいという心意から、外から浸入してほしくないもの(家ではムカデや蛇など)への対策として逆さに貼るのではないだろうか。「甘茶」=歓待、「甘茶」を逆さにする=排除ということである。ただし甘茶を家の周囲に撒くことや、蚊帳にふりかける行為は、純粋に甘茶の呪力を信じてのことであろう。
 甘茶の呪力に関する俗信については、結局、江戸時代以降の潅仏会での甘茶の使用を基礎として、そこに民間の心意が働いて誕生した民俗といえる。とはいうものの、墨書して「逆さ」して貼るという行為が、限られた地域のものではなく、愛媛県のみならず、全国各地にも共通して見られるのは何故であろうか。その点だけは不思議でしょうがない。この行為を広く定着せしめた要因は何なのか。自然発生的なのか、それとも何らかの文献にでも紹介されて、情報流通して広がったものなのか、よくわからない。
 そういえば、今年は、例年行っている山田薬師(宇和町山田)の潅仏会(花祭り)に行っていなかった。甘茶も飲んでいない。今年は家の中にムカデは出るは、蜂の巣はできるは・・・。来年は甘茶の呪力を信じて潅仏会に行くことにしよう・・・。

2005-08-28

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伊予の八朔習俗

2005年08月28日 | 年中行事

仕事の都合上、見には行けなかったが、今日は、四国中央市新宮の「鐘踊り」の日。旧暦8月1日に行っていたが、現在は8月最終日曜日に行われている。いわゆる八朔行事の一つだ。八朔(旧暦もしくは月遅れ)はもうすぐなので、ここで、愛媛の八朔習俗のうち、文献史料に見えるものを紹介しておきたい。
 江戸時代から明治時代初期にかけての愛媛(伊予)の八朔習俗の様子がわかる史料は主なものを3点。まずは南予地方の旧宇和島藩領内の八朔についてである。宇和島藩士桜田某が文政年間に記述した随筆(「桜田随筆」と仮称する。出典は『宇和島吉田両藩誌』、『愛媛県史民俗編上』にも所収)によると「八朔・田実朔 田の実の朔といふ事に就て農人の家々に稲の溝苅をして、其籾を煎りて平米にしてお伊勢様をはじめ氏神様へ備へると申す事、昔も今に替る事なし。此の起りを聞くに、此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、則新嘗会の心なるべく、いと貴き心地す」とあり、名称は「タノミノツイタチ」であり、焼き米(「平米」)を神に供えていたことがわかる。その神の中でも氏神よりもお伊勢様が先に記述されているが、この行事が伊勢信仰と関わることが推察できる。旧宇和島藩領内においては、藩が「神明社」の建立を奨励しており、この地域は伊勢信仰が盛んであった(註『県史民俗編上』六〇〇頁)。なお、近年でも八朔に伊勢踊りを奉納するというところが三間町や広見町にある。『日本民俗大辞典』の「八朔」の項に「神社の八朔祭も各地で行われているが、伊勢神宮でも八朔参宮といって、この日に初穂を神前に供えている」という記述があるが、『年中行事辞典』(六四〇頁)にも「八朔参宮 八朔の節供の早朝に伊勢神宮に参拝すること。米・粟などの初穂を抜いて神前に供え、五穀成就を祈る」とある。この八朔参宮の歴史的推移については未だ調べていないが、南予地方、特に旧宇和島藩領内の八朔行事は、伊勢神宮での八朔参宮に影響を受けた可能性があるのではないか。
 次に東予地方の今治藩領内関係の史料を紹介しておく。今治藩士戸塚政興が文政六(一八二三)年頃までに完成したといわれ、今治藩の文化年間頃までの諸雑記を集録した『今治夜話』(『伊予史談会双書第二集今治夜話・小松邑志』六一頁)には「田実、此地八朔之祝事也。世以八朔曰頼母之節、或曰田之実節者、共祝秋熟之儀、所以求親睦之和者乎。此物、方今三都及余国更無所聞者也矣。蓋田実者以新穀為団子造人物及鳥獣之形。大一寸五分、其彩乎以丹砂・緑青点之耳。其様古雅也。女児集之遊賞、或贈答之、似桃節雛遊。蓋伝古風者焉。(図挿入)女児呼之曰頼母、鬻者云之田実也兮田実也。一物二名、是亦一奇事也。」とある。この記述からは文化年間においては八朔の祝いの名称が「タノミ」であり、「頼母」・「田実」に漢字をあてていたが、どちらかに確定はしていないことや、当時の江戸・京・大坂の三都や他の国でも聞くことのできない行事であることが認識されていたことがわかる。また、新穀で人や鳥獣の形をした団子を作り、それを女児が鑑賞する点は三月の雛遊びに類似するとしている。
 なお、今治藩における八朔行事に関する史料は、明治時代中期に国分村の旧庄屋であった加藤友太郎が編纂した「国府叢書」巻二十三(『今治郷土史 国府叢書 資料編近世二』一〇一五頁)にも見られる。この「国府叢書」巻二十三は正月から節句、盆、大晦日までの年中行事、農作業暦、衣食住などを詳述しており、時代としては江戸時代末期から明治時代初期にかけての今治地域の民俗事例が把握できる史料である。ここに八朔について「田ノ実節句(八朔ト云) 八月朔日なり、此日ハ団子ニテ人形其他種々之物ヲ拵ヘテ、之レヲ祭リ、尚家内ノ諸神ヘモ、餅抔ヲ拵ヘ献スルモノ也、其他の供物ハ、御酒、飯等ニシテ、夜間ハ前夜及此夜ニ、燈火ヲ点スルモノ也、此月ハ海水田ノ実汐トテ、例年高ク満ツルト云、如何ニ也」とあり、団子で種々の人形を作って、家の中の諸神とともに餅、酒、飯などを供え、前夜と当夜は火を燈していたことがわかる。なお、この時期の大潮を「田ノ実汐」と呼ぶことは、吉海町誌に「この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている」とあるように、近年でも使用されている。
 以上、八朔に関する史料を3点羅列してみた。今、このテーマに興味を持って情報収集してるのだが、追って、このブログで八朔習俗を紹介する場を設けたい。

2005-08-28

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「かんかんづくし」と盆踊唄

2005年08月25日 | 口頭伝承
 NHK教育テレビの番組「にほんごであそぼ」のエンディングに「かんかんづくし」という唄が流れている。歌詞はこんな感じ。「かーんかんかんかんかん かんかんづくしを言おうなら かーんかーんかんかんかんかん かーんかーんかんかんかんかん みかん きんかん 酒にかん こども羊かん やりゃ泣かん 親のせっかん そりゃいかん そりゃいかん そりゃいかん 不信感 関取裸でかぜひかん ハークション悪寒 やかん あきかん ドラムかん 降ってもぴーかん 体育館 おまえどんかん 気がきかん 気がきかん 気がきかん 先入観 わたしゃ やまかん はたらかん 同感 時間 空間 宇宙間 ついでに音感 リズム感 歌はじゃっかん かいかん かいかん かいかん 達成感 人生達観 せにゃいかん ふーんふん いけすかん かんかんづくしを言おうなら かーんかーんかんかんかんかん かーんかーんかんかんかんかん 完」。
 ウチの2歳の子供も唄って楽しんでいるほど、幼児に親しまれている唄だ。NHKもよく作曲したものだと思いきや、『愛媛県民謡保存調査報告書』(昭和57年、愛媛県教育委員会編、184ページ)に、南宇和郡西海町(現愛南町)内泊に、類例が載っているではないか。盆踊りの際の音頭のさし言葉として紹介されている。「早口」言葉として「エーサー かんかんづくしで やらうなら みかんきんかん 酒のかん 子供に羊かん やりにやかん 親のせっかん 子が聞かん 田舎の姉さん ヤレコリャー 気がきかんよー ヨーホイヨーホイ ヨイヤナー エーサー」とある。
 この「かんかんづくし」は一時期、全国的に流行したものなのだろうか。

2005-08-25

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鞆の浦散策

2005年08月23日 | 年中行事

先日、広島県福山市の鞆の浦を散策した。主な目的は三つ。①安国寺の石造地蔵菩薩坐像、②沼名前神社の石造物、③「鞆の津八朔の馬出し」の八朔馬の見学である。
 安国寺の地蔵菩薩像は、寺前の地蔵堂にあり、舟形光背を背負う丸彫の石像で、石材は花崗岩。解説によると、光背裏面に沙弥円乗・比丘尼妙蓮の逆修を目的に造立したもので、銘に「元徳二年庚午卯月廿三日、願主、藤原貞氏」とあり、1330年の製作である。鎌倉~室町時代にかけての石造の地蔵菩薩像を実見できる機会は少なく、愛媛でも中世に造像された石造の地蔵と思われるものがあるが、銘文が確認できないと造像年代を断定できないため、石造物を見る眼をを肥やす意味で前々から拝見したいと思っていた。それが実現できたので、第一の目的は達成。
 次に沼名隈神社の石造物である。愛媛(伊予)の商人がどれだけ寄進しているのか、確認したかったのだが、ちょうど、福山市鞆の浦歴史民俗資料館で沼名前神社の玉垣等の石造物の拓本等を紹介する展示が行われていて、しかも資料館の刊行物として『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』が販売されていた。銘文のデータも記載されており、訪れた甲斐があった。
 そもそも鞆の浦は、瀬戸内海中央部の「潮待ち」の港であり、全国から商船が寄航するところとして知られている。沼名前神社に海上安全祈願をする参拝者は多く、玉垣には、広範囲の寄進者の名前が刻まれていることを以前から聞いていたので、具体的な伊予の寄進者を確認したかった次第。
 さて、『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』から、伊予関係を抜粋すると次のようになる。
①「ニの鳥居」と呼ばれる寛永2(1625)年建立の鳥居(広島県重要文化財)に、「大工豫州住人左兵衛尉」とある。伊予のどこの石工なのかは不明であるが、銘文にはもう一人、「大工肥前住人中島弥兵衛」とあり、佐賀県小城郡の肥前石工と思われる人名が見られる。銘からは肥前石工と同等の扱いをされており、伊予にも石工集団が存在したことが推察できるが、具体的なことは不詳である。17世紀の鳥居といえば、伊予では八幡浜市矢野町の八幡神社の延宝6(1676)年の鳥居があるが、そこには石工の名前は刻まれていない。江戸期の伊予の石工について情報を集めてみる必要があることを実感した。
②寛政8(1798)年築造の玉垣に、「豫州三津濱 唐津屋治郎右衛□」、そしてこの玉垣を明治29年5月に補充しているが、そこに「イヨ壬生川 川上角治」とある。
③大石段北側の内側の玉垣には、伊予の者の名が多く刻まれている。この玉垣は、同書の解説によると、八籠屋與一郎と大阪屋萬右衛門の取次により、取引先や神社崇敬者の協力により大石段の拡張工事にあわせて築造され、文久3(1863)年の完成したとのこと。伊予、備前、備中、周防、豊前、豊後、大坂の寄進者が多い。伊予関係は「豫州川之江(四国中央市) 高津善兵衛吉徳」、「同所(川之江)下分屋源次吉充」、「豫州川之江 進藤長次英通」、「豫州川之江 岸井四良右衛門勝房」、「馬島(今治市馬島か?)撫屋冶兵衛」、「御生(御荘か?)吉田喜兵衛・濱田多兵衛」、「雨井(八幡浜市保内町雨井?)小松屋為蔵」、「下灘(伊予市双海町下灘?)□谷屋六太郎」、「雨井 福吉丸□右エ門」、「宇和島 濱田大兵衛」、「御生 吉田喜兵衛」、「川之濱(伊方町川之浜?) 神□丸三□良」、「同所(川之浜?) 金毘羅丸宗助」、「宇和島明神浦(伊方町明神)明神丸久次良」、「宇和島大江浦(伊方町大江)妙見丸嘉兵衛」の以上である。
 これを見ると、愛媛の東端の四国中央市川之江と、西端の佐田岬半島、宇和海沿岸が多く、松山周辺の中予地方や、地理的に鞆に近い今治地方の者の名前は見られないのが特徴といえる。越智郡島嶼部では、「鞆の祇園さん」として、庶民の沼名前神社に対する信仰は篤く、今治周辺の名前が出てこないのも不思議に思ったが、寄進者が商取引先であることから考えれば、沼名前神社に対する伊予における信仰圏域は、比較的近い今治・越智郡周辺では庶民(漁民)の海上安全祈願が主であり、その外縁にあたる川之江や佐田岬半島、宇和海沿岸部では、庶民信仰というよりも、経済的な繋がりが前提の信仰であったと理解すべきなのだろう。
 沼名前神社に限らず、瀬戸内の海岸部に位置する神社の石造物調査からは、地元の氏子を第一次信仰圏、日帰りもしくは数日で参拝することができる第二次信仰圏、そして、商人の寄航以外では訪れることが滅多にない第三次信仰圏というように、同心円状に信仰圏を設定できる可能性があることを感じた。
 とにもかくにも、福山市鞆の浦歴史民俗資料館による『沼名前神社の石造物―石が語る鞆の津の歴史―』は、非常に有難い調査成果といえる。
 次に、第三の目的の「八朔の馬出し」。今年は開催日が9月4日(日)なので、当然、その行事自体は見学できなかったが、福山市鞆の浦歴史民俗資料館に八朔馬が展示されており、それを見学できただけでも満足だった。観光案内所で配布されていたチラシには次のように記されている。「『潮待ち』の港町として栄えた鞆は、『海』を通じて様々な文化が伝わり、豊かな独自の文化を築いています。江戸時代、鞆町人は、子どもの誕生を祝い、健やかな成長を願って、勇壮な「八朔の馬出し」を出現させました。三年前、この行事を約70年振りに復活し、今年も風情豊かな町並みの中で鞆ならではの「八朔の馬出し」を楽しく行ないます。大小約10数台の「八朔の馬」を、太鼓や音頭のリズムにあわせて、古い町並みの中を引きまわします。大きいものは、実物大の勇壮な馬もあります。どうぞ皆様ご声援ください。」とある。この行事は、文化年間頃の「諸国風俗問状答」にも「鞆津馬出しの図」の挿絵があるので、200年近く(それ以上?)の歴史があると思われるが、八朔(旧暦8月1日)に馬を造る慣習は、広島県や香川県に見られる。愛媛では八朔の作り物といえば、タノモサンであり、東予地方では米粉細工で小さな人形や動物等を象って飾り、松山地方では紙人形を飾るが、全国の八朔行事の中でも最も盛大なのが、この鞆の八朔の馬出しである。復活してから四年目ではあるが、全国の八朔習俗を考える上では見逃せない行事である。当日、見学に行けないのは残念だが、現地で情報収集できたのは収穫であった。

2005-08-23

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明浜町の権現山(石鎚)

2005年08月20日 | 信仰・宗教
西予市宇和町・明浜町の境にある「山岳公園」近くにあった役行者像。「山岳公園」は、明浜町狩江の権現山の山頂に作られた展望公園。宇和海が一望できるので、これまでも附近を車で通る際に、何回か足を運んでいたが、「山岳」・「権現」のキーワードに心惹かれて、先日も、その周囲も散策してみた。公園脇には石鎚社が祀られており、手水鉢の銘には「弘化三年」とある。明浜の人に聞くと、山頂にある公園から下に50メートル程のところに鳥居もあるとのことで、探してみようと思い立ったわけだが、管理されていない雑木・雑草だらけなので、道がわからない。遭難してもいけないし、蛇も出そうで恐かった。結局、鳥居は確認できず、諦めて公園に戻ろうとしたところ、石仏を確認。それがこの役行者像。南予地方における石鎚社の勧請・建立は、石造物の銘から江戸末期が多いという印象だが、この権現山もその一例かもしれない。山岳公園の周囲には、他にも石鎚に関する石造物があるはず。秋から冬にかけて、雑草の生い茂っていない季節に、鳥居等を探しにいきたいものだが、一人でいくのはやめておこう。遭難だけはしたくない。

2005-08-20

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行事紹介:愛媛民俗学会公開講座の開催(ご案内)

2005年08月11日 | 日々雑記
愛媛民俗学会は、愛媛県内の民俗文化に関する調査・研究・普及活動を実践する会員で構成され、年4回程度の例会を開催しております。この度、下記のとおり、愛媛における民俗文化の普及活動の一環として、一般市民を対象とした公開講座を開催することとなりましたので、ご案内いたします。

テーマ:「教育現場における『民俗』の活用・実践」
日 時:平成17年8月27日(土)10:30~16:00
会 場:愛媛県生涯学習センター 第4・5研修室(松山市上野町甲650番地)
主 催:愛媛民俗学会
定 員 60名(参加費無料、先着順)
<報告内容>
佐々木正興「学校教育における民俗学の成果の活用」
井上 浩二「柳田国男の教育論」
宮本 春樹「宇和海中学校での実践報告」
佐藤 秀之「次世代への祭りの継承‐西條祭りを事例に‐」
宮本 昌枝「八幡浜川上小における児童の神楽体験」
高嶋 賢二「博物館と学校との連携」
藤井 玄 「若者と生活体験―国立大洲青年の家での実践報告―」
コメント・質疑応答(コメンテーター:森正康 松山東雲短期大学教授)

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友の会「民俗クラブ」

2005年08月01日 | 日々雑記
愛媛県歴史文化博物館友の会「民俗クラブ」(第1回)

愛媛県内各地の盆行事の紹介を行うとともに、盆行事等の年中行事に関する調査方法を解説します。また、昨年度の博物館実習生、坂本真理子さんをゲストスピーカーとして、当館所蔵の吉田祭礼絵巻や吉田祭の調査成果を報告していただきます。

日 時 平成17年8月13日(土)13:30~
会 場 愛媛県歴史文化博物館研修室(西予市宇和町卯之町4-11-2)
内 容 大本敬久「年中行事の調査について―盆行事ほか―」
    坂本真理子氏(ゲストスピーカー)「吉田祭について」
対 象 愛媛県歴史文化博物館友の会会員
参加費 500円(年間)
問合先 愛媛県歴史文化博物館友の会事務局 0894-62-6222

参 考 本年度の友の会民俗クラブの予定は次のとおりです。
    第1回 8月13日(土) 愛媛の年中行事(夏~秋)
    第2回 9月 3日(土) 愛媛の民俗芸能
    第3回 9月24日(土) 愛媛の信仰と石造物
    第4回 11月5日(土) 愛媛の年中行事(正月~春)
    第5回 12月24日(土)愛媛の人生儀礼

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