愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

文化財レスキューと地域文化の再構築―西日本豪雨での愛媛県の被災・復旧・復興状況―

2020年07月05日 | 地域防災・事前復興
※本稿は、『芸備地方史』315・316号(2020.07)に掲載した原稿である。

文化財レスキューと地域文化の再構築―西日本豪雨での愛媛県の被災・復旧・復興状況―

一 被災状況と保全活動の概要

西日本豪雨―愛媛県の被災概況―
 平成三〇年七月上旬、広島県、岡山県、愛媛県をはじめ西日本を中心に記録的な大雨となり、各地で河川の氾濫や、土石流、地すべりの発生による大規模な水害、土砂災害が発生した。愛媛県内での被害は県下全域に及び、特に県東部の今治市や県中部の松山市において土砂災害が頻発したが、中でも甚大な被害が発生したのは県南西部の南予地方であった。七月七日に宇和島市吉田町において大規模な土石流、地すべり等が各所で発生し、この土砂災害で家屋、柑橘農地が多数被災した。また、大洲市、西予市等を流れる肱川では野村ダムと鹿野川ダムの二つの治水・利水ダムがあるが、緊急放流を行ったこともあり(野村ダムの安全とされる放流量は毎秒三〇〇トン。六時二〇分に「異常洪水時防災操作」を開始。最大放流量は七時五〇分に一七九七トンに達し、安全とされる基準の約六倍の放流となった)、ダム下流の西予市野村町、大洲市では河川氾濫により町の広範囲が浸水した。愛媛県全体では三二名が犠牲(関連死含む)、安否不明者一名、重傷者三五名という人的被害が出て、全壊六二七棟、半壊三一一六棟、一部破損一四九棟、床上浸水一九〇棟、床下浸水二五七五棟の総数六六五七棟の住家被害(平成三一年四月一日時点、愛媛県発表)となっている。当然、各地域で所蔵、保管されていた歴史資料等も数多く被災し、平成に入ってからでは平成一三年芸予地震、平成一六年豪雨に匹敵、またはそれ以上の規模の被災状況となった。

写真一 大洲市菅田町の浸水状況 

気象状況と過去の災害との比較
平成三〇年七月豪雨の気象状況であるが、六月二八日以降、中国大陸から日本海、北日本にかけて梅雨前線が停滞していたが、七月四日に北海道まで北上した後に南下し、翌五日に前線は西日本に位置し、その後停滞した。また、六月二九日にフィリピン東海上で発生した台風第七号が、沖縄本島の東、そして東シナ海を北上して、対馬付近で進路を北東に変えた後、七月四日一五時に日本海で温帯低気圧へと変わった。しかしこの台風七号から変わった温帯低気圧によって、暖かく湿った空気が梅雨前線に供給され続けたことが要因で八日まで西日本を中心に広範囲で記録的かつ集中的な豪雨となり、一府一〇県に特別警報が発表されることになった。
アメダスの観測では九州北部、四国、中国、近畿地方の多くの地点で降水量の値が観測史上第一位を記録したが、七月六日から八日にかけて観測史上第一位となったのは二四時間降水量では全国七六地点、四八時間降水量は一二四地点、八日までの七二時間降水量は一二二地点であった。愛媛県では、七日早朝までの二四時間雨量が肱川上流域の西予市宇和で三四七ミリ(それまで二九二ミリ)、八幡浜市で三〇七.五ミリ(同一九一ミリ)、四八時間雨量は西予市宇和四四二.五ミリ(同三三五ミリ)、八日までの七二時間雨量は西予市宇和で五二三.五ミリ(同三九三ミリ)、八幡浜市で三九五.〇ミリ(同三一八ミリ)、大洲市で三三一.五ミリ(同三一二ミリ)という記録的な雨量となった。
 なお、今回の豪雨について被災後に「未曽有の大雨」とか「一〇〇〇年に一度の降水量」と表現する向きもあるが、愛媛県内では昭和一八年七月豪雨で死者・行方不明者一三四名、昭和二〇年枕崎台風で一八二名に及ぶという大水害が発生し、この昭和一八年七月豪雨では七月二一~二四日の四日間降水量が松山で五三八.三ミリ、宇和島で九三七.五ミリ(気象庁数値)の記録がある。四日間降水量では平成三〇年七月豪雨の約一.五倍であり、過去の記録からすれば平成三〇年七月豪雨を「未曽有」と断定することはできない。

資料保管施設の被災状況
平成三〇年七月豪雨による愛媛県内の指定文化財関係の被害は、愛媛県教育委員会文化財保護課によると国指定等一六件、県指定一一件、国登録五件の被害が報告されている。松山市の松山城跡、今治市の能島城跡、伊予遍路道等で斜面崩落や路面洗掘、土砂流入等の被害があったが、史跡、建造物の一部被害が中心であり、文化財に指定された文書等の歴史資料が滅失するといった被害は幸いなかった。
愛媛県内の博物館等の公開、見学施設については、西予市にある愛媛県歴史文化博物館では玄関付近など多数の箇所で激しい雨漏りが発生し、七日は臨時休館となった。展示室、収蔵庫内の被害はなく、翌八日から通常開館している。同市の宇和米博物館では施設擁壁及び造成地にクラックが生じ一部擁壁が崩落したが、建物本体には影響がないため、通常開館している。
次に大洲市については、市内中心部の大洲市立博物館は大きな被害がなく、その後の資料保存活動の一つの拠点として、学芸員や市教育委員会の文化財担当者が水損した写真、図面等の復旧作業を行った。なお、大洲市内には肱川町に大洲城遺物整理事務所があり、市内の埋蔵文化財の保存施設として使用されていたが、鹿野川ダムから約三キロ下流にあり、浸水は推定高三mで天井まで達し、コンテナ約七〇〇箱分の考古遺物、調査図面・写真等が水損した。図面・写真類は大洲市立博物館に移動させて処置を行い、事務所内の遺物については七月一九日から市および県内の埋蔵文化財関係者、愛媛大学の教員・学生がレスキュー作業にあたり、散乱資料の回収、コンテナの排水を行い、現在、遺物の水洗が終了した段階である。
次に宇和島市であるが、市中心部の宇和島市立伊達博物館は大きな被害がなく、館の学芸員に加え、市教育委員会の文化財担当者が市内の歴史資料等の保全活動を積極的に行っている。ただし土砂災害の甚大であった同市吉田町にある吉田ふれあい国安の郷では、事務室や展示室もケース下まで浸水し、施設内や駐車場等に土砂が流入したが、復旧作業を進めて平成三一年三月に再開した。
 地域の歴史資料等を所蔵している図書館施設であるが、大洲市立図書館(本館)は館内で床上一〇センチ、駐車場で五三センチ浸水し、蔵書は高い位置に移動させて無事であったが、機械、ネットワークシステム関係に被害があり、休館していたが八月一日より開館した。県内図書館で最も被害が大きかったのが大洲市立図書館肱川分館(蔵書数一八〇五九冊、うち郷土資料一〇八〇冊、平成二九年数値)である。床上浸水二七〇センチにより、建築、設備は全損し、検索システム故障の上、水損した蔵書はすべて廃棄処分となった。郷土資料、図書についても七月中に即廃棄となり、資料保全の支援を行うことができなかった。肱川分館についてはその後、復旧作業が進み、一万一千冊を購入、三〇〇冊以上の寄贈や絵本購入費の寄付があるなどして令和元年六月一日に再開した。西予市では、西予市民図書館野村分館は周囲が大規模浸水したが、館は幸い微高地にあって被害は免れ、七月一二日から再開した。おはなし会等を通じて被災地の心の支援の活動を様々行っており、文化施設が被災地で果たすべき役割を示す事例として注目されている。宇和島市では吉田にある宇和島市立簡野道明記念吉田図書館(蔵書数七四〇八四冊、うち郷土資料四四二七冊、平成二九年数値)の被害が大きかった。床上一.四メートル浸水し、一階の蔵書の約三分の二が水損し、館内は七月中にエタノール消毒され、水損図書は廃棄処分となったが、郷土資料は二階以上に保管されており被害はなかった。蔵書の一部を移動させて、平成三一年一月四日から吉田公民館の一室にて臨時的に再開され、五月末に全面再開となった。

資料の保全活動
 七月七日朝までの豪雨の後、歴史資料の被災の連絡が最初に筆者のもとに入ったのはその日の夕方であった。大洲市の古学堂(八幡神社にあった私塾。幕末に多くの人物を輩出)の関係者から床上浸水し、土蔵も浸水、資料が水損したとの連絡があった。翌八日に愛媛県歴史文化博物館に和本、掛軸、屏風、古文書等の水損資料を搬入し、吸水、乾燥作業が始まった。この作業は甲斐未希子学芸員が中心となり、博物館ボランティアや愛媛大学の教員、学生、香川県立ミュージアムの学芸員にも作業のサポートをいただいた。大洲市内からは他にも個人宅の水損資料を搬入しており、それら作業が現在も続いており、この作業の過程、ノウハウについては甲斐氏が『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第二四号(二〇一九年三月発行)にて報告を掲載した。

写真二 大洲市内での水損資料の搬出(七月八日)

また、七日朝には宇和島市吉田町の立間公民館が一階天井近くまで浸水し、保管していた近代行政文書「旧立間村文書」(江戸時代末期から昭和三〇年代)約一三〇箱のうち約一〇〇箱が水損した。翌八日に愛媛県歴史文化博物館に被災の連絡が入り、直ちに、愛媛資料ネット事務局長である胡光氏に相談して七月一四~一六日に救出作業を行うこととなった。作業は愛媛資料ネットが主体となって愛媛大学の教員、学生、県内の文化財関係者、学芸員等で運びだしを行い、冷凍保存をしたが、この初動対応には愛媛県歴史文化博物館も公務として館長、学芸課長をはじめ複数の学芸員が参加した。この「旧立間村文書」は現在、愛媛大学において月六日程度、継続的に吸水、乾燥作業が行われている。
同じ宇和島市吉田町立間地区にある大乗寺(旧吉田藩伊達家の菩提寺)も床上浸水で所蔵資料が水損したが、この連絡は寺から資料を借用・展示して繋がりのある高知県立歴史民俗資料館経由で七月二七日に入った。この時点では愛媛県内の関係者では即応が難しく、愛媛資料ネットから、隣県のこうちミュージアムネットワーク(高知県立歴史民俗資料館、高知城博物館、高知大学等)に依頼する形で水損資料の搬出を行い、高知県内で吸水、乾燥の作業が行われた。
なお、隣県からの支援としては、水損写真の応急処置をどう行うのか、県内ではノウハウが充分ではなかったため、写真レスキューの実績のある宮崎歴史資料ネットワークの山内利秋氏に講師依頼をして、七月三〇日に八幡浜市旧双岩中学校舎を会場に、愛媛資料ネット、八幡浜市教育委員会、大洲市教育委員会共催で「体験講習 災害にあった写真を救おう」が開催された。

写真三 水損写真レスキューの講習会(八幡浜市 七月三〇日)

公文書関係では、野村ダムの下流にあたる西予市野村町内での被害が大きかった。西予市役所野村支所の地階、野村町保健福祉センターや、市役所の文書保管場所としていた旧大和田小学校一階が浸水し、旧大和田小学校だけでも六千冊以上の文書が水損した。七月一三日に愛媛県歴史文化博物館への一報の後、全史料協と西予市の連絡、相談、調整が始まり、八月上旬には林貴史氏、青木睦氏から現地指導をいただいた。九月上旬には全史料協と市ホームページに公文書保全の支援の呼びかけを開始し、九月一三~一七日の五日間、職員・ボランティアで集中的に救出作業を行い、参加人数は県内外からのべ約一〇〇名を数えた。その後も市職員を中心に乾燥作業を継続している。

写真四 西予市の被災公文書(旧大和田小 九月一六日)

今後に向けての取り組み
愛媛県歴史文化博物館では豪雨災害後に「中期運営計画」の改訂検討のタイミングがあり、それまで曖昧であった「災害時の歴史資料等レスキュー活動の支援」を項目として計画に組み込んだ。大規模災害時には、地域の文化遺産である歴史資料等のレスキュー活動を支援すること。また、平時より、歴史資料等のレスキュー活動を担うボランティア等の人材育成等に努めることを明記することとしたが、これによって、館の地域連携としての業務に位置づけられ、災害時に公的な初動対応が可能となるだろう。
また、愛媛県教育委員会文化財保護課では県・市町村連携の重点事業として「えひめ文化財の災害対策強化」を掲げ、豪雨災害一ヶ月前の六月一四日に「えひめ文化財災害対策会議」を開催していた。愛媛資料ネットや県建築士会(ヘリテージ・マネージャー)等と「えひめ文化財防災ネットワーク」の構築を進めることや、未指定文化財も含めた防災マニュアルづくりが平成三〇年度に行われ、令和元年度から県市町連携での取り組みが進められている。
体制や組織、マニュアルづくりは大切であるが、今回の被災資料の対応では、被災自治体の専門職員の配置に加え、地域資料保存の継続的かつ日常的な活動、そして幅広い人的ネットワークの存在が重要だと再認識させられた。大洲市、西予市、宇和島市には博物館施設に歴史系の学芸員がいて、さらに教育委員会には文化財の専門職員が複数名配置されている。埋蔵文化財の専門職が中心であるが、各職員は地域の歴史資料にも精通し、保護、保存の意識も高い。被災後、現地での連絡調整や作業実施の要として活動したといえる。
そして、愛媛県内では民間所在資料の救出ネットワークである愛媛資料ネットの存在が大きい。これは平成一三年芸予地震直後に被災資料救出のために立ち上げられ、愛媛大学の胡光氏を中心に平成一六年豪雨による被災文書の救出等にも尽力し、継続的、日常的に活動をしてきた実績があり、平成三〇年七月豪雨でも被災情報の収集や、行政機関、博物館等施設、民間等の連絡調整、そして資料保全作業の実施などで中心的役割を果たしたといえる。

二 愛媛県内の文化財等の防災ネットワーク

博物館ネットワーク
 平成三〇(二〇一八)年七月豪雨をはじめ、全国各地で地震や風水害による文化財等の被害が多数報じられるなか、災害時における被害を最小限に留め、万一、文化財等が被災した場合には、個別対応だけではなくネットワークを活かした適正かつ迅速な対応が求められている。
文化財等の防災に関する愛媛県内のネットワークとしては先述の愛媛資料ネット以外に、昭和三五(一九六〇)年設立の愛媛県博物館協会(加盟館五五館・事務局は令和元年度は愛媛県美術館)があり、年二回程度、博物館等職員を対象として研修会活動を行っている。西日本豪雨発生以前には、平成二八年七月の総会時に口頭報告「災害と博物館―防災・減災対策とネットワークの構築―」、平成二九年一月に研修会「災害時の連携とネットワークについて考える」を開催し、胡光氏(愛媛大学法文学部)「歴史文化遺産を守り伝えるために―博物館・学会・大学の役割―」、大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)「博物館の防災・減災ネットワークの構築に向けて」の講演があり、平成三〇年二月には歴史資料ネットワーク(神戸市)の吉原大志氏、永野弘明氏を講師に講演「災害から地域歴史資料を守る」、ワークショップ「水損資料の応急処置」が実施され、災害時の応急処置や県内の博物館ネットワークの構築の意識が高まる契機になっていた。
写真五 愛媛県博物館協会での水損資料ワークショップ(被災前)
西日本豪雨後の平成三一年二月の研修会では、尾形純氏(トウキョウコンサーベーション株式会社ディヴォート)「事故被災時への提言『絵画の組成構造から修復における初期対応の考察』」、胡光氏「西日本豪雨における愛媛資料ネットの活動」の講演、報告があり、令和元年度には各加盟館における防災、減災対策の現況をアンケート調査の上集計、分析し、令和二年度末の研修会で報告、討論する予定となっている。

中国・四国被災文化財保護ネットワーク
愛媛県内の文化財行政での防災ネットワークについては、まず広域ネットワークとして平成二五年に中国・四国の九県二市の文化財行政主管課間で策定された「中国・四国地方における被災文化財等の保護に向けた相互支援計画」がある。この計画は災害時の文化財被害に関して支援体制、保護対象、そして平時の活動(人的ネットワークの構築)等が明記されている。中国・四国地方の九県による災害支援協定で定めるカウンターパート制に従ってグループ一鳥取県 徳島県、グループ二岡山県 岡山市 香川県、グループ三広島県 広島市 愛媛県、グループ四島根県 山口県 高知県という支援体制となっている。支援の対象は「文化財等」と表記しているが、これは①文化財保護法に定める文化財、②展覧会における美術品損害の補償に関する法律に定める美術品、③博物館法に定める博物館資料、④図書館法に定める図書館資料、⑤公文書館法に定める公文書等と明記され、「指定文化財」の範疇よりも広い括りとなっている。西日本豪雨ではカウンターパートである広島県、広島市、愛媛県が同時に被災地域となり、この相互支援計画は充分に機能したとは言い難いが、この計画の存在が中国・四国エリアの広域ネットワーク構築の基礎となっており、また各自治体においても、地域防災計画等の改定にあたって保護すべき対象、つまり「どこまでが文化財なのか」を検討したり定義づけたりする際の指針となるべきものである。

県・市町連携の文化財防災ネットワーク
愛媛県(担当課は文化財保護課)及び愛媛県内の市町教育委員会では、平成三〇年度から県・市町連携推進プランの一環として、「えひめ文化財の災害対策強化」に向けて、文化財所有者をはじめ、「愛媛資料ネット」や「愛媛県建築士会」など関係機関・団体の協力を得て、文化財防災マニュアルの作成や現地災害対応訓練の実施などの取り組みを進めている。愛媛県では平成二二年度より、このような市町との連携推進プランを実践しており、二重行政の解消による経費削減や、行政の総合力の発揮等が成果として表れている。文化財関係では平成二四年度から「県文化財マンパワーの活用による市町文化財行政における専門性の確保」、「愛媛県と松山市の埋蔵文化財センターにおけるイベント等の共同実施」、平成二七年度から「文化財の保存・活用に関する情報共有や文化財建造物の修理・修復に係る人材・資材の確保」が実践されてきた。
 先にも述べたように、県・市町連携の文化財防災ネットワーク構築の動きは西日本豪雨発生前から始動しており、平成三〇年二月に県と市町が協議検討して「えひめ文化財の災害対策強化」プランが策定され、防災マニュアルの作成や災害対応訓練の実施、そして文化財防災フォーラムの開催等に取り組み、オール愛媛による「えひめ文化財防災ネットワーク」を構築し、国民的財産である文化財を災害から守り、次世代へ継承する計画が策定された。これを受けて平成三〇年度からプランは始動し、豪雨災害の一ヶ月前、平成三〇年六月一四日に愛媛県生涯学習センターにて、県、市町の文化財担当者が出席し、県内外の文化財関係機関の専門家(愛媛資料ネット、愛媛県建築士会、愛媛県歴史文化博物館、徳島県教育委員会が出席)からの助言を受けながら、「えひめ文化財防災マニュアル二〇一八」の作成に向けて意見交換を行った。このマニュアル案では、自然災害や火災、盗難を想定し、平時の予防、災害発生時の応急、被災後の復旧の三段階時に行う役割分担を明記し、予防の項目では、県や市町が文化財の一時保管施設を整備し情報共有を進めることなどが内容として盛り込まれている。
 豪雨災害発生後は、プランに明記された災害対応訓練として、平成三〇年一一月一日に松山市の重要文化財「伊佐爾波神社」の文化財所有者と松山市消防局が訓練を実施し、愛媛県、市町教育委員会に加えて、中四国における相互支援のカウンターパートとして広島県教育委員会の関係者も参加して、①災害情報の伝達、②人の避難誘導、③災害への初期対応(特に不動産文化財)、④文化財の避難(特に動産文化財)の訓練が行われた。
 平成三一年一月三一日に県、市町文化財担当者約七〇名が出席して「えひめ文化財防災フォーラム」が開催され、作成を進めていた「えひめ文化財防災マニュアル二〇一八」の最終案を検討したが、西日本豪雨前に提示された案から、大災害時には、市町の担当者が人命救助や生活復旧に従事し、迅速な文化財保護に手が回らない問題があるため、市町単独で文化財被害の把握が困難な場合は、要請を受けた県が職員らを派遣するなど人的支援の調整を行うとされ、また県、市町は被災文化財の一時保管場所の提供や確保に努めることが盛り込まれ、マニュアルは策定された。
このマニュアルに基づいて、令和元年七月一八日には、愛媛大学を会場に、愛媛県県教育委員会文化財保護課と愛媛資料ネットの共催で「えひめ文化財等レスキュー訓練」が実施され、県、市町文化財担当者、愛媛資料ネット関係者が参加して、天野真志氏(国立歴史民俗博物館)による歴史資料等の被災対応に関する講演や水損資料の吸水・乾燥作業の実技訓練を行われ、今後も県、市町連携の防災ネットワークの取り組みが継続されることとなっている。

三 有形民俗文化財等の保全

 平成三〇年七月豪雨では河川の氾濫や土砂の流入によって全半壊、床上、床下浸水等の被害が出て、愛媛県内では六六五七棟の住宅被害となった。被災直後は指定文化財や未指定でも既知の古文書、考古資料等がレスキューの対象となり保全活動が進んだが、生活用具等の民俗資料は被災直後ではなく、多くの被災家屋の解体作業が進み始めた平成三〇年秋頃から保全の相談が愛媛県歴史文化博物館等に入るようになり、その種の相談は現在も引き続き入っている。ここではその保全活動で受け入れた民俗資料等の一部を紹介する。

「六時四四分」で止まった時計
平成三〇年七月七日(土)未明から早朝にかけて、宇和島市吉田町では集中豪雨により、各所で土砂災害、広範囲の河川氾濫が発生し、吉田町を構成する吉田地区、立間地区、喜佐方地区、奥南地区、玉津地区の五地区すべてで大きな被害が出た。本資料はタイムレコーダーであり、被災の時刻を記録する。原所蔵者は吉田地区の本町一丁目で江戸時代から続く商店の出身者で、被災後、復旧作業を行う過程で当館に寄贈となった。商店自体の浸水被害は軽微で済んだが、その倉庫が立間地区にあり、そこが床上約九〇㎝の浸水被害があった。その立間の倉庫にて使用されていたタイムレコーダーは水、泥をかぶり、時計は立間川の氾濫によって浸水した「六時四四分」で止まっている。平成三〇年七月豪雨による災害の記憶、記録を後世に伝える資料として愛媛県歴史文化博物館で受け入れている。

写真六 豪雨で浸水した時間に止まった時計

柑橘発祥の地の生活用具
愛媛県歴史文化博物館では、平成三〇年七月豪雨で特に被害が甚大であった宇和島市吉田町立間・奥白井谷集落の柑橘農家である赤松家から民具の寄贈を受けた。豪雨により母屋・土蔵・柑橘貯蔵庫に土砂が流入し、家族は吉田町西小路の応急仮設住宅に移ることとなったが、家屋は、土砂の撤去の後、災害ボランティア「吉田町救援隊」の拠点(Mステーション)として利用され、九ヶ月の活動期間中、北は北海道、南は沖縄からもボランティアが訪れ、利用者数は延べ二〇〇〇人を越えるなど、被災地吉田での民間ボランティアの中心的存在として活動していた。令和元年五月末をもって拠点機能は終了し、六月上旬に家屋は解体された。
写真七 明治時代建築の柑橘貯蔵庫(令和元年六月解体)
立間地区は、江戸時代後期に温州みかんが導入され、県下でも最初期の柑橘栽培地で、明治一〇年代には一般農家に普及している。その代表的な家が加賀山家と今回、被災した赤松家であった。「立間みかん」という名は、明治一七年の第一〇回全国農産物共進会で一等賞を獲得したことで広く知られるようになる。吉田町から船舶での販売ルートが確立し、生産量も増加したことで出荷のための貯蔵庫が必要となり、明治四四~四五年頃に赤松金吾が柑橘貯蔵庫を建築した。外壁を漆喰塗とした土蔵造で、腰壁を竪板張りとし、換気のための窓が多いことが外観上の特徴である。内部は、湿度を一定に保つために地下室を設けている。小屋組は和小屋で、内部は真壁造漆喰塗仕上げである。県下における柑橘貯蔵庫の最初期の例であり、また貯蔵庫の近代化過程を示す事例であったが令和元年六月に解体となった。立間蜜柑の隆盛を象徴するものであり、ここで保管されていたみかん貯蔵箱、みかん籠等は、昭和三〇年頃に立間で使用されていたもので、愛媛の柑橘栽培の推移を示す資料として受け入れ、保管している。

宇和島市吉田町の牛鬼
愛媛県歴史文化博物館では、宇和島市吉田町立間尻で活躍した牛鬼張り子職人・斧家満氏(大正一二年生、平成二八年没)が製作した牛鬼頭二点、獅子頭一点の寄贈を受けた。平成三〇年七月七日の豪雨により斧家氏の自宅は床上浸水、被災し、令和元年五月上旬に解体されたが、自宅には約一〇〇点もの牛鬼や獅子舞の作品が保管されていた。その大部分は廃棄となったが一部を博物館等で保存した。斧家氏は、南予地方の祭りの地域的特徴である牛鬼の製作を、昭和五〇年代後半から手掛けていた。旧宇和島市内にて、牛鬼製作の伝統技法である張り子細工、一閑張りの製作技法を学び、自宅で製作し、魔除けの飾り物としてや、趣味の創作展等へ出品をしていた。祭りに登場する牛鬼とは形状が異なり、牙の数を多くしたり、くちびるをめくれあがらせたり、また表面の塗料に小さな砂を混ぜて表面の風合いを工夫するなど、現代における創作牛鬼といえる。平成一〇年頃には、牛鬼製作の名人として新聞、テレビでも紹介され、創作牛鬼の作者として広く知られるようになる。牛鬼の現代的様相の一形態として、そして張り子細工の伝統技法により製作されたものとして受け入れ、保管することとなった。

写真八 斧家満製作の牛鬼頭


西予市野村町の明治~大正時代の古写真
西予市野村町野村石久保地区にあった野雀酒造(屋号:東緒方)の緒方家で保管されていた写真資料である。東緒方は平成三〇年七月豪雨で浸水し、建物は全壊となり令和元年六月に解体された。この写真は土蔵一階の高い場所にあり、浸水は免れていた。平成三〇年一二月に西予市教育委員会、城川文書館、愛媛県歴史文化博物館等が資料の保存状況等の調査に入り、その際に所在を確認した写真(ガラス乾板)である。なお、大福帳等の歴史資料は西予市教育委員会が保管することになった。
 東緒方の建物については、肱川右岸の河岸段丘上にあり、西から東に南面して納屋、蔵、門、蔵、醸造蔵と続き、主屋を中心として西、北、東面にも納屋、蔵、離れがあり、敷地全体を建物で囲む構成になっていた。戦前からの醸造業の建造物として歴史的価値は高いと評価されていたが、保存はかなわず、解体となった。
 残された写真は八四点あり、着物の多くに家紋の三つ鱗が入っており、東緒方の家族、親族が写されていると思われる。撮影年代は「明治四十二年」の箱書があり、ガラス乾板に「大正二年」の墨書きがあるものがあり、明治時代末期から大正時代中期に撮影されたものと推定される。明治から大正時代の愛媛県山間部における衣生活、髪型などの世相を知る上で活用ができる資料として保管することとなった。

写真九 西予市野村町の古写真(明治末~大正時代)

八幡浜市日土町の御札
 八幡浜市日土町の旧家の兵藤家は平成三〇年七月七日の早朝、裏のみかん山が崩れて江戸時代末期建築の母屋に大量の土砂が流れ込み、全壊となった。令和元年五月に母屋の解体をしていたところ、建物上部から二〇四点の木製、紙製の御札が見つかり、愛媛県歴史文化博物館で学芸員やボランティア、学芸員実習生が整理作業を行った。文政一三(一八三〇)年から昭和までの御札コレクションであり、江戸時代末期の金毘羅大権現、石鎚山に関する御札や、現当主の祖父が出征する際の武運長久祈願の木札が確認された。一〇月二七日には地元日土町で整理報告会を開催することで、この御札コレクションを基に地元の住民と身近な歴史、民俗を振り返った。

写真一〇 八幡浜市の旧家の御札(江戸後期~昭和)


四 無形文化遺産の被災対応

無形文化遺産の被災対応
 西日本豪雨では災害直後から、有形文化財に比べて速やかな被災対応ができていないと実感したのが、祭りや民俗芸能などの無形文化遺産(無形民俗文化財)への対応であった。特に最も現場に近い被災自治体の文化財担当者は、避難所の開設や運営に従事する合間に有形文化財の被害確認や対処にあたるのが精一杯で、「無形」までは手が回る状況ではなかった。
そんな中、西日本豪雨から一一日目の七月一七日に愛媛の大手地方銀行・伊予銀行から愛媛県歴史文化博物館に電話があり、被災した祭り用具等の被災状況の確認や修理、新調に対して経費助成を行う準備があるとの話があった。伊予銀行は平成四(一九九二)年から「地域文化活動助成制度」を立ち上げ、文化と経済両面から地域を支援したいとの趣旨のもと、祭り、民俗芸能、音楽、文芸、郷土史研究など、愛媛で文化活動を継続的に行っている団体に対して活動資金の一部を助成している。平成三〇年現在、のべ一一四九団体に二億一八二四万円の助成金を贈呈し、うち祭り、郷土芸能には、半数にあたる五五二団体に対して道具の新調、修繕、記録保存等への経費助成の実績がある。数日中に筆者が松山市の伊予銀行本店に出向いて、被災地のどの地区にどのような祭り、民俗芸能が継承されているのか、当館で作成していた所在目録を持参し、銀行側に情報を提供した。これを基に各支店で被災の可能性のある無形文化遺産の状況把握に努めていただいた。
そして八月一日から被災地における民俗芸能をはじめとした文化活動団体を対象に「伊予銀行地域文化活動助成制度(特別募集)」を開始し、令和元年八月現在、大洲市村島の獅子舞や西予市野村町野村の「おねり」の道具新調等、一三件の申請があり、随時、助成が行われている。自治体の文化財担当者では被災後、即応できていなかった分野に対してそれを補う形で企業メセナ型レスキューが行われた事例といえる。

写真一一 被災した大洲市村島獅子舞の獅子頭

被災後の祭りの実施・中止
 宇和島市内で最も被害の大きかった吉田町では、八幡神社の秋祭り「吉田秋祭り」(愛媛県指定無形民俗文化財、例年一一月三日開催)の開催の可否をめぐって八月、九月に住民の間で様々な意見が取り交わされた。この祭りは江戸時代の吉田藩伊達家の陣屋町から続く町並みを牛鬼、鹿踊、人形屋台「練車」等の賑やかな行列が進むことで知られ、南予地方を代表する祭礼とされる。被災後、神社総代は早くから中止の方針を固めていたが、九月一八日に例年は祭り準備の打合せ会として行われる「吉田秋祭り振興会」において総代や自治会長らが開催の是非などを協議した。会では「復旧作業が続く中で開催していいものか」との声もあったが、「復興祈願」の意味合いも込めて実施すべき、という意見でまとまり、開催が決定した。幸い、祭礼用具は保管場所が浸水した場所もあったが、用具自体は高い位置に保管しており浸水を免れ、祭り実施には影響はなかった。一一月三日の祭り当日は宮出しを済ませた三基の神輿が例年のルートではなく、豪雨の爪痕の残る立間地区の山あいの三つの集落(奥白井谷、柏木、中ノ谷)を元気づけようと特別渡御をした。また吉田町西小路に設置された応急仮設住宅も廻るなど「吉田秋祭り」の実施は「復興のシンボル」ともなった。
写真一二 宇和島市吉田町立間の奥白井谷集落への特別神輿渡御
 次に、西予市野村町の乙亥大相撲である。乙亥大相撲は嘉永五(一八五二)年に野村で大火があり、防火を祈願して愛宕神社を勧請し、奉納相撲を始めたのが起源である。野村町では相撲人気が高く、町のシンボルとして両国国技館を模した乙亥会館が平成一七年に建設されたが、豪雨による肱川氾濫で土俵のある多目的ホールが水没し、会場施設、用具が被害を蒙った。しかし八月二一日には場所を野村公会堂に移して一一月二七日に実施することが決定された。例年は二日間の日程のところ被災状況も考慮して一日間とし、例年どおり愛宕神社からの神輿も会場に運ばれて、地区別の小中学生の対抗戦、個人戦、大相撲力士とアマチュア選手の取組、力士による「稚児土俵入り」等が行われた。なお、野村では氏神の三嶋神社が三.七m浸水し、拝殿は大規模に損壊し、社務所は流された。一〇月一四日の秋祭りは「復興祈願祭」と位置づけ、神輿一基が社殿を周るだけとし、地区内への神輿渡御や牛鬼、鹿踊等の「おねり」は中止となった。社務所に保管していた用具も流され、複数の助成金制度を活用するなどして祭り再興に向けて取り組みが進み、令和二年一〇月に「おねり」が復活した。
大洲市については、大洲藩領総鎮守とされる阿蔵の八幡神社で一一月二日に行われる御神幸祭「お成り」が行われた。江戸時代中期から継承された大矛や御楯等の道具を持ち練り歩く行事である。肱川流域に位置する神社の付属施設やその周辺地域も広範囲に浸水したが、「お成り」の参加者は、例年約二五〇名のところ、平成三〇年は二三六名と減少した。御神幸保存会は例年七月に同年度分の会費を集めることになっているが、今回は多くの氏子が被災し、会費徴収が進まず祭りの運営経費が減少したことで参加人数が少なくなった。今回は「お成り」では行列の最後に「祈 安寧」「祈 復興」の旗を掲げ、また、鈴神楽を行う巫女達が被災した地域を祓い清める意味で「鈴祓い」も実施も行われた。また、大洲市内では地区の大部分が浸水した菅田町の宇都宮神社では秋祭りどころではないということで、神輿は出さず、神社総代のみが参列し神事のみが行われたというところもあった。

地域結集の原点としての無形文化遺産
豪雨災害から一年余りが過ぎた現在、時が経つにつれて、被災地の祭りや郷土芸能の伝承者の状況は、集落の過疎、高齢化がますます進行して変容し、風化の度合いが増しているともいわれる。集落が消滅する事は、地域共同体で創りあげ、継承されてきた祭りや郷土芸能の無形文化遺産は当然、滅びることになる。また、今なお厳しい現実に直面している被災者にとって「文化どころではない」という思いがあるかもしれない。
しかし、祭りは「先祖」から世代を越えて今に伝えられた文化であり、住民が主体的に参加し、交流を深める場となっている。いわば住民を束ねる「箍(たが)」のようなものであり、祭りが無くなると「箍」が外れて地域は地域でなくなってしまう。祭りは地域を守り、活かす原点の場ともいえる。ここでは西予市野村町の祭り・郷土芸能を事例に地域文化のプラスの側面も考えてみたい。
愛媛県内の祭り文化は東中南予で著しく異なる。東予では太鼓台など豪華絢爛な屋台が登場し、中予では神輿の鉢合わせが見どころで、南予では牛鬼や鹿踊りなどの練り物が登場する。西予市の野村秋祭りでは、各地区から牛鬼、四ツ太鼓、五ツ鹿踊り、獅子舞、お多福、猿田彦、浦安の舞が登場し、神輿渡御を彩る独自性がある。これらは「当たり前」と思いがちだが、「おねり」の多様さは県下、いや全国的に見ても顕著な地域性を持ち、広く情報発信できる文化資源である。

写真一三 野村秋祭りの四ツ太鼓(令和二年一〇月)

先にも紹介したように平成三〇年七月豪雨では、野村の氏神・三嶋神社が三.七m浸水し、拝殿は大規模に損壊した。社務所は流され、保管していた猿田彦等の用具も流失した。被災三ヶ月後の一〇月の祭りは「復興祈願祭」として行われたが、神輿が社殿を周るのみで、神輿渡御や牛鬼、鹿踊等の「お練り」は中止となった。その後、町内外からの寄付や伊予銀行地域文化活動助成を活用するなどして、祭り再興に向けての取り組みが進められ、令和二年一〇月一三日、快晴のもと、二年ぶりの神輿渡御、「おねり」が盛大に行われた。
野村秋祭りの歴史は、祭礼用具に江戸時代後期に製作されたものが確認できることから、約二〇〇年前には現在と同様に行われていたと推定できる。復活した秋祭りを多くの観客が見ることで、数世紀の長きに渡って変わらず継承されてきたことを再発見し、地域で培われてきた伝統の力を地域内外の者がともに実感することになった。
災害に見舞われるまでの暮らしは地域ごとに多様であるように、被災から立ち上がる過程も一律ではなく、地域それぞれで異なってくる。復興の中で、足もとの独自の文化を見つめ直すことは地域の特徴(いわば「顔」、「表情」)を再確認する作業であり、それは復興や未来への原動力にも繋がっていく。
災害の直後だからこそ、伝統の祭りによって、地域が一つになる意味は大きい。祭りの担い手の多くが被災するなど厳しい現実の中で、地域全体で前を向いて一歩を踏み出した。復興はまだまだ途上だが、野村には祭り、乙亥大相撲など地域内を結集させる伝統文化が確実に息づいている。これが野村の町・人の力強さの源であり、宇和島市吉田町、大洲市の祭りも同じく地域結集の原点といえる。

五 地域文化を活かした被災地支援活動

地域文化の再構築
 愛媛県は東西に長く、瀬戸内、宇和海沿岸部それぞれの生活風土を有し、平野部、そして中山間部に居住地は広がり、それぞれの環境に適応した多様な生活様式をもとにした地域文化が育まれてきた。このような地域文化は、一見、都市化やグローバル化によって見えにくくなった印象を与え、しかも、近年多発する大規模災害の結果、それまで受け継がれてきた地域文化が継承されず消滅してしまう事例も多く見られる。
一方で、災害からの復興において、地域文化の果たす役割の大きさが指摘されるようにもなってきた。平成二三年の東日本大震災では、全国から多くの人々が被災地を訪れ、復興に向けたさまざまな支援活動がおこなわれたが、震災前には地元では「当たり前」のようにあった生産・生業の道具や、季節ごとにおこなわれていた祭りや郷土芸能、そしてコミュニティ内で築かれてきた人間関係にも注目が集まり、これらの地域文化を核とした活動がさまざまな形でおこなわれてきた。平常時において特に注目されることのない地域文化を「再認識」、「再発見」し、被災後の地域において復旧、復興や心の支援に活かすという取り組みである。
平成三〇年七月豪雨においても、災害を契機としてさまざまな地域文化に関する再認識が進み、「保存」、「活用」が強く意識されるようになってきた。被災後に大きく変容した地域社会をよみがえらせるための取り組みとして、まったく新しい文化を産み出すのではなく、それぞれの地域社会の歴史や伝統に根ざした文化を見直し、それらを今後の糧とすることが宇和島市吉田町、西予市野村町、大洲市等で試みられている。災害からの復興にとって縁遠いと思われる土地ごとの歴史や文化が、実は大きな意味を持ち、その土地でのくらしを根本のところで支えていることに改めて気づかされることも少なくない。

西予市野村町での事例
ここでは平成三〇年七月豪雨直後から愛媛県歴史文化博物館が関わってきた「地域文化の再構築」、いわば地域文化を活かした「心の復興支援」の事例を紹介したい。
平成三〇年七月七日の豪雨直後、愛媛県歴史文化博物館への依頼、相談が多かったのは被災した歴史資料等のレスキューや保存に関するものであった。被災から約一ヶ月を経たお盆前後になって、子どもや保護者を対象とした被災地支援の相談が入るようになってきた。愛媛県歴史文化博物館では八月一九日に西予市宇和町で行われた「虹の輪まつり」に職員を派遣して、未就学児から小学生を対象とした地域の歴史、伝承を題材とした紙芝居の上演を行った。これは豪雨で地域行事やイベントの中止が相次ぎ、子ども達に夏休みの思い出を作ってもらうことを意図した企画であった。八月二二日には被害が甚大で多くの住民が避難所生活を送っていた西予市野村町の西予市民図書館野村分館にて同じく未就学児、小学生向けに紙芝居を上演し、以後、同図書館や地元の放課後子ども教室、幼稚園主催で筆者が講師、ナビゲーターとなり、月一回のペースで、小学生及び保護者を対象に地元の伝説や産業を紹介するスライド上映会やご当地かるた「野村町かるた」を活用したり、図書館の郷土図書を使った地域学習会を開催している。
この野村町での取り組みは、会場を図書館や公民館等の屋内で実施してきたが、被災から一年が経過して住民の生活の状況が少し落ち着いてきたことから、令和元年七月からは放課後子ども教室の一環で「町あるき(フィールドワーク)」を実施している。この町あるきでは、地元の町並み(建造物や史跡、自然、地形、地質含む)を見学、解説することで、被災後、解体が進んで変容が続く町の現状を注視するとともに、参加者にとって継承したい町の遺産が何なのかを主体的に考える機会として場を設定した。子ども対象だけではなく、一一月二四日には四国西予ジオパークの事業「せいよ自然と暮らしのカレッジ」の一講座として、地元の大人や県外からの復興支援で野村に携わっている方々が参加して町あるきを実施している。

写真一四 野村町内の児童・生徒対象のフィールドワーク

宇和島市吉田町での事例
宇和島市吉田町では地元の文化遺産のシンボルとなっている吉田秋祭りの実施について、豪雨災害から二ヶ月後の平成三〇年九月から愛媛県歴史文化博物館にも相談の電話や訪問が相次いだ。一一月三日の吉田秋祭りの実施までの経緯は(原稿一-一八)にて紹介したが、この祭りを地元の住民で再認識しようという取り組みが被災前に増して機会が増えてきた。令和元年九月二三日には宇和島市教育委員会主催で「復興ふれあい市」にあわせて宇和島歴史講座「そこどこや」では「祭り文化と災害からの復興」をテーマに、愛媛県内の祭りの概要、吉田秋祭の歴史、西日本豪雨での祭りの持続・中断の状況や課題について紹介した。同内容の講演は、豪雨の年は開催中止となり二年ぶりに一一月九日に開催された吉田町文化祭でも行われ、吉田秋祭りの文化財的価値を多くの住民で再認識し、祭りの継承に向けた意識がさらに醸成されたといえる。吉田町では、三間町につながる十本松峠の保存、整備が住民主体で行われているが、それをテーマとしたシンポジウムが、豪雨で浸水して一一ヶ月休館していた宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館の再開記念として六月九日に行われ、筆者も講師で参加し一〇〇名を超える参加者があった。

写真一五 吉田町図書館再開記念講座(令和二年六月)

また、豪雨で土砂が流入して全壊となった吉田町沖村の旧家で、土蔵が令和元年一一月中旬に解体されることになり、一〇月に筆者が現地に資料調査に行ったところ、昭和一〇年代から三〇年代前半のブローニー版のネガフィルム(約一〇〇〇コマ)を確認した。地元の行事や農村風景が写っており、単に家の記憶をとどめるだけではなく、地域共有の記憶を示す写真であった。その写真を愛媛県歴史文化博物館と予土歴史文化研究会の会員がライトボックスで光を照射して一眼レフで撮影し、パソコンで色反転の作業を行った。その写真を解体直前の一一月五日に鳥首集会所にてスライド上映会を実施し、地元の高齢者約一五名が参集した。被災地域における古写真を活用した地域回想法の取り組みであった。

写真一六 古写真整理後のスライド上映会(吉田町鳥首)

さいごに―将来の大規模災害に向けて―
これまで愛媛県では「気候が温暖で災害が少ない」という言説が広く語られていたが、果たしてこれは「事実」なのだろうか。愛媛を代表する地誌で昭和二八(一九五三)年刊行の村上節太郎著『愛媛県新誌』には「気候もまた内帯と外帯の双方のタイプを有し恵まれてはいるが、天災特に台風・洪水の被害も少なくない」と記されるなど、昭和二〇年代には愛媛は災害が少ない県だという認識は見られない。水害、土砂災害については、平成三〇年七月豪雨だけではなく、平成一六年七月から一〇月にかけての豪雨災害で県内二六名の犠牲者が出たことは記憶に新しく、明治三二(一八九九)年八月二八日の水害では東予地方を中心に愛媛県内で九〇〇名を越える死者、行方不明者が出ており、昭和一八年七月の水害では重信川や肱川が決壊、氾濫して松山市、松前町、大洲市等で広範囲に浸水し、死者、行方不明者一三四名の被害が出ている。また昭和二〇年九月の枕崎台風でも死者、行方不明者は一八二名に及び、昭和一〇~二〇年代は数年ごとに台風による大きな災害に見舞われ、愛媛県は水害、土砂災害の頻発してきた地域だといえる。とても「災害が少ない」と断言することはできないのである。
 地震に関しても、平成一三(二〇〇一)年以降、愛媛県内では平成一三年芸予地震などで震度五弱以上の揺れを五回観測し、特に南予北部では平成二六年から三年連続(二六年三月伊予灘地震、二七年七月大分県南部地震、二八年四月熊本・大分地震)で震度五弱以上を観測している。ところがその前の昭和四六年から平成一二年(一九七一~二〇〇〇年)までの三〇年間には震度五以上の地震は一度も観測されていない。近年、地震活動が活発化していることがこの数字を見るだけでもわかるが、それ以前の数十年間、大きな地震被害が発生していないことから昭和四〇年代以降に「災害が少ない」説が定着したといえるだろう。
そして、愛媛をはじめ西日本で忘れてはならないのが「南海トラフ」を震源とする海溝型の巨大地震である。このタイプの地震は周期的に発生するとされ、前回は昭和二一年一二月二一日に発生し、全国で一三三〇名、愛媛県内で死者二六名の大きな被害が出ている。この地震か七〇年が経過したことで、人々の記憶が薄れてきていることや、地震発生が第二次世界大戦の終戦直後で、いまだ混乱期の災害であったことから被害の内容が詳細に後世に伝えられていない状況にあり、この大きな地震災害も「忘却」されようとしている。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉があるが、「愛媛県は災害が少ない」という言説は、真実、事実を表しているのではなく、過去の災害を「忘却」することで生まれてきた言説であり、災害に対する防災意識の醸成、向上のためにも「災害が少ない」という「誤解」は克服される必要がある。そのため地方史研究では各地域の災害に関する史料の掘り起こしや、市民向けの啓蒙活動が重要になってくる。①災害史の調査研究、啓蒙活動、②文化財等の資料の保全活動、③被災後の地域の復興、再構築に向けた地域文化の活用、これらを一連の活動ととらえて現在進行中の西日本豪雨からの復旧、復興に務め、同時に今後起こりうる大規模災害の防災、減災を見据えておくことが必要であろう。


参考文献
拙稿「愛媛県における災害の歴史と伝承」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』二一号、二〇一六年三月)
胡光「愛媛資料ネットの活動と活用」(『第二回全国史料ネット研究交流集会報告書』同実行委員会、二〇一六年一二月)
拙稿「愛媛の災害史と文化財防災の現状と課題」(『第三回全国史料ネット研究交流集会報告書』同実行委員会、二〇一七年一二月)
『平成三〇年七月豪雨愛媛大学調査団報告書』(同調査団、二〇一九年三月、資料レスキュー関係は胡光執筆)
甲斐未希子「平成三〇年七月豪雨における水損資料レスキュー―愛媛県歴史文化博物館での活動について―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』二四号、二〇一九年三月)
拙稿「平成三〇年七月豪雨における資料保全活動―愛媛県の事例―」(『記録と史料』二九号、全国歴史資料保存利用機関連絡協議会、二〇一九年三月)
拙稿「豪雨災害と祭りの持続―西日本豪雨での愛媛県の事例―」(歴史系総合誌『歴博』二一五号、国立歴史民俗博物館、二〇一九年七月)
『四国・愛媛の災害史と文化財レスキュー』(愛媛県歴史文化博物館編、発行、二〇二〇年二月)

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