愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和島・凱旋桃太郎

2010年10月18日 | 祭りと芸能
毎年10月29日に行われる宇和島市の宇和津彦神社の祭礼。昭和2年3月に愛媛県学務部社寺兵事課が県内の神社における特殊神事をまとめて『愛媛県に於ける特殊神事及行事』を刊行している。その中に八つ鹿踊りや牛鬼など、宇和島の祭礼に関する記述も見られるが、現在は廃絶している「凱旋桃太郎」についても紹介されている。(上記の写真は『愛媛県に於ける特殊神事及行事』掲載の凱旋桃太郎である。10年程前に神田の古書店にて入手したものだが、愛媛県立図書館などにも所蔵され、閲覧することができる。)

「名称 凱旋桃太郎」

「期日 十月二十九日」

「行事 桃太郎ニ扮装セル一名ノ少年及雉子、犬、猿ニ扮装セル三名ノ少年ハ直垂ヲ着用セル八名ノ少年カ唱フル歌謡ニ合セテ鬼ヶ島ヨリ凱旋ノ状ヲ演シツヽ舞踊ス外ニ赤鬼青鬼アリ一名ハ旗ヲ持チテ前行シ一名ハ宝車ヲ牽キツヽ随行ス。例祭当日先ツ神社ニ参拝シ拝殿ノ前面ニ於テ舞踊シ神輿出御ニ先チテ御道筋ヲ巡行、御旅所ニ至リテ再ヒ舞踊ス、又巡行ノ途次氏子惣代、神社評議員、区長等ノ門前ニ於テモ舞踊ス。」

「歌謡
 一 ひけやひけひけ宝の車 鬼か島から取つたる宝
     宝取つたは日本一の 桃から生れたこの桃太郎
 二 ひけやひけひけ宝の車 積んだ宝は金銀珊瑚
     綾も錦もあるその外に かくれ蓑笠打出の小槌
 三 ひけやひけひけ宝の車 鬼が島から取つたる宝
     鬼にひけせて犬猿雉が ワンキヤンケンケン囃して行くよ。」

「氏子崇敬者トノ関係 氏子内裏町五丁目居住ノ少年奉仕ス。」

「由来伝説 古来牛鬼ノ邌物ヲ出ス慣例ナリシカ大正十四年ヨリ本行事ニ変更ス。」

以上のように記載されているが、注目すべきことは2点ある。

一つは、裡(裏)町五丁目からは牛鬼が出されていたところを、大正14年10月の祭礼からこの凱旋桃太郎に変更しているが、この記述は昭和2年3月刊行であり、実際には大正14年、15年の二ヵ年しか行われていないものである。これを愛媛県内の特殊神事として掲載している点である。このような記録には新しい行事よりも、昔から伝承され、しかも地域性のあるものが優先掲載されそうなものを、牛鬼からの変更後2年しか経過していない凱旋桃太郎を取り上げるとは、よほど祭礼執行者側の思い入れが強かったのだろう。

なぜ、牛鬼から凱旋桃太郎に変更したのか?この理由はよくわかっていない。当時の『南豫時事新聞』を見ても明らかな変更の理由は見当たらない。凱旋桃太郎については、先般刊行された木下博民氏『お国自慢お練話 回想のお練・宇和島「凱旋桃太郎踊り」』(南豫奨学会、2010年1月)に詳しいが、この中でも牛鬼の頭(かしら)が古くなったためではないかと紹介されている。私の推測では、大正11年に摂政宮が宇和島行啓で、八ツ鹿などを台覧に供しているが、その前後に八ツ鹿は、都おどりの影響を受けて舞踊が変更となったり、五つ鹿から八つ鹿に変更したりと、近代的な変貌を遂げている。同じく、宇和津彦祭礼の他のねり物も近代的変容を遂げやすい時期にあったのだと思う。そして、一つの契機は鶴島神社(後の南予護国神社)の10周年記念祭が大正14年11月に大規模に行われている点にあったと推測する。凱旋桃太郎は、宇和津彦神社という近世からの伝統のある神社祭礼のねり物であるが、ここに鶴島神社という近代に宇和島のシンボルとなる神社の発展の中に組み込まれ、牛鬼というストーリー性の乏しいねり物を変更して、桃太郎という極めて近代的なストーリーを持つねり物を選択したのではないか。宇和津彦祭礼の近代的変容の一事例といえるのではないか。そのように考えている。

二つ目の注目点は、「ひけやひけひけ宝の車」の歌である。これは木下氏の著書に詳しく紹介され、昭和初期に凱旋桃太郎を経験した方から情報を得て、歌詞や旋律を記録されている。この木下氏が収録した「記憶による歌詞」と、昭和2年の『特殊神事』の歌詞はほぼ一致する。異なるのは『特殊神事』では「綾も錦もあるその外に」が「その中で」となっていることと、「ワンキヤンケンケン」が「ワンワン・・・ケンケン」となっている点だけである。

木下氏の著書にもあるが、この歌は著名な児童文学者の巌谷小波の作詞であると伝わっているが、それを地元では疑問視する者もいるという。私も平成8年頃に地元の方に牛鬼や凱旋桃太郎の話をうかがった際に、巌谷小波作詞は本当かどうかわからないと言われていた。

しかし、この『特殊神事』を改めて見てみると、凱旋桃太郎の写真とともに楽譜も紹介されており、そこには次のように記されている。

「凱旋桃太郎(宇和島市裡町五丁目邌)大正十四年十月創造
  歌詞 巌谷小波作
  曲譜 深瀬常子作
  振附 深瀬 薫作」

つまり、『特殊神事』は昭和2年3月に刊行されており、大正14年からは1年ほどしか経っていない。しかも愛媛県社寺兵事課の刊行という公の記録である。これらの点を考えれば、巌谷小波作詞は、後の時代に創出された話ではなく、真実である可能性が高いのではないか。木下氏の著書には、宇和島出身で別府観光の父である油屋熊八の人脈で巌谷小波に依頼したという推測を紹介されている。しかも作曲者は不明という。しかし、この『特殊神事』には、はっきり作曲・振附の人名が出てくる。深瀬薫・常子夫妻である。

この2人は、高知県の児童音楽教育者で、戦後には高知県文化賞を受賞する人物である。深瀬薫は巌谷小波とも交流があり、常子は当時、大日本家庭音楽会高知支部を主宰している。巌谷小波への作詞の依頼は、明確なルートは不明であるが、油屋熊八に関するルートだけではなく、宇和島から地理的に近い高知の深瀬夫妻が関係している可能性も否定できない。(振附を深瀬薫が担当してるので、実際に宇和島に来訪したことも考えられる。)

以上、凱旋桃太郎からは、宇和島における「祭礼の近代化」が見えてくるのではないか。そのような展望が開けてくる。

※宇和島の「凱旋桃太郎」については不明な点も多く、私も集めた情報を未整理のままにしていましたが、木下博民氏が『お国自慢お練話 回想のお練・宇和島「凱旋桃太郎踊り」』を刊行していただいたこともあり、改めて注目する機会となりました。感謝!


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