えびす顔の造花卸売問屋元社長からの手紙

かすかな希望を抱いて幸せを自慢する尊大な手紙。重複掲載御免。造花仏花の造花輸入卸売問屋ニューホンコン造花提供

「没後10年高仁鳳の軌跡」から1年

2024年03月04日 08時10分00秒 | コリア
 能登のみなさん こんにちは

 大阪・生野区民センターで昨年3月4日に開催した「没後10年 高仁鳳の軌跡」集会からちょうど一年経ちました。高さんが創業した多言語翻訳印刷会社ケイビーエスさん(大阪市生野区勝山北2-16-17、https://www.kbsjapan.com/) の社報で、振り返らせてもらいました。よろしければご覧ください。上の写真と下の写真です。
 
 集会の写真パネルを制作をしてくれた古河潤一さんも一文を寄せています。素晴らしい文章です。こちらはぜひご覧ください。
 

 集会の様子は以下のブログをご覧ください。

 写真で見づらい方は、司元の分だけですが以下の原稿をご覧ください。

 高仁鳳さんは朝鮮戦争を体験されています。2000年ごろだったでしょうか。そのことに話が及びました。私は高さんに、「朝鮮戦争について日本は大きな責任がある。その後の朝鮮半島の南北分断についても責任がある。日本人として申し訳ない」と謝りました。そして「今日本に、日本人に、私に出来ることはないでしょうか」と尋ねました。すると高仁鳳さんは苦虫を嚙み潰したような顔と声で、「岡田さん、もう遅すぎる」とつぶやきました。いつも陽気で笑顔の高さん。初めて見たお顔です。私は返す言葉がありませんでした。
 その言葉は、高さんが亡くなられた後も、私の胸の奥に棘のように突き刺さっています。チクチクと痛みます。その棘は痛みだけではなく、私に力をも与えてくれます。日々過ごす中で示唆も与えてくれます。それは私だけの痛みではなく、実は高さんの痛みでもあった。私に分けてくれたんだ。2012年12月12日に高さんが亡くなられてから気がつきました。
 昨秋、高さんの妻林芳子(イム・パンジャ)さんから、「高仁鳳が亡くなって10年目の節目になる。ついては集会を開きたい。実行委員長を引き受けてくれ」と依頼されました。その際、真っ先に思い浮かんだのはこの高さんの言葉「もう遅すぎる」です。「日本人の私が委員長でいいのだろうか」「もっと適任の方がいらっしゃるはず」と戸惑いながらもお受けしたのは、胸がうずいたからです。
 朝鮮戦争で兄を徴兵され、母を病気で亡くし孤児になった高さん。その壮絶で悲惨な体験から「戦争は絶対にダメだ」の強い信念を持ち、「朝鮮半島と日本の友好親善」、「南北の平和的自主統一」に力を注ぎました。がんに侵され亡くなる3か月前には、大阪商工会議所異業種交流会フォーラム・アイの平和を考える勉強会で150人の聴衆を前に平和を訴えました。自転車で韓国を巡り、その自転車で38度線を越えるのが夢でした。日本に戻り始めた印刷業では、韓国語と日本語が同時に編集できる電算写植機を世界で初めて導入するなど、画期的な業績を残されました。学校法人白頭学院建国校幻のフィルムも制作しました。
 昨年3月4日に大阪市立生野区民センター・リゲッタIKUNOホールで開いた「没後10年 高仁鳳の軌跡 ~ソウルと大阪の狭間で~」において、高さんの生涯のいくばくかを「講演、映像、思い出語り、歌唱、展示」で蘇らせました。多くの方々のご協力の下、200人を超える方にお集まりいただきました。
 高さんからもらった棘は今も私の胸の中にあり、時折痛みます。私は周りにこの痛みを分けていこうと思っています。尊大な言い方になりますが、高さんと私の痛みを、高仁鳳没後10年集会に参加された方々に少しはお分けできた。それは、高さんの平和への希望、すなわち「朝鮮半島と日本の友好親善」、「南北の平和的自主統一」を叶えることに一歩でも近づいた。痛みとともにかすかな希望を抱く200人の一歩となって。
 高さん、遅すぎませんよね。
              没後10年高仁鳳の軌跡実行委員長 岡田 光司

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