2010 06 25(金)
前回に引き続き、金龍山浅草寺境内に建つ諸堂を拝見。
朱塗りの影向堂(ようごうどう)は平成6年に浅草寺中興の祖・慈覚大師円仁生誕1200年を記念して再建されました。
棟飾りに金箔の鴟尾を据え付ける時、「鴟尾の取り付けには必ず雨が降る。」の言い伝え通りに、日照りにも関らず突如として驟雨になり人々を驚かせたそうです。
影向堂に安置された聖観世音菩薩像と干支12支の守り本尊の8尊像。
影向堂の左にある古いお堂は「六角堂」(都重文)。
六角堂の本尊様は「日限地蔵尊」(ひぎりじぞうそん)。日数を定めて祈願すれば必ずや霊験があると言われる有り難い御地蔵様です。
近くの木立の中に鎮座しているのは「三峰神社」の摂社。
三峰神社については ⇒ 三峰神社 上。
三峰神社 中。
浅草寺境内の西奥には淡島明神とも呼ばれる淡島堂。
左手前にある宝塔は「写経供養塔」、信徒が書いた写経の功徳のため平成6年に建立されました。
和歌山県にある加太神社を勧進したもので、加太神社のある小島が淡島と呼ばれます。
淡島堂の祭神は少彦名命(すくなひこのみこと)。
堂内には本地仏の虚空蔵菩薩坐像が穏やかな笑みを浮かべ善男善女を癒します。
淡島堂は江戸時代から女性の守り神をして信仰を篤めていました。
お堂の前に一風変った石灯籠が・・・?
江戸時代から子供を石灯篭の下をくぐらせると、幼子の虫封じや疱瘡に効くとされる「胎内くぐりの石灯篭」です。
淡島堂の前にひときわ大きな天水桶(1770製)がありました。
第二次世界大戦の東京大空襲の時、この天水桶に浅草寺の御本尊の聖観世音菩薩像を隠し地中に埋めて、戦災の難を逃れたそうです。
淡島堂の右側に二つの石碑が建てられて「いました。
左の石碑は昭和57年建立の「針供養塔」。
毎年2月8日に針と縫裁に感謝し、この場で針供養の法会が行われます。
右側の塔は「浅草大平和塔」。
浅草大平和塔の基部に湯川秀樹博士が揮毫した「みたまよ とこしえに 安らかに われら守らん 世界の和」の石碑が世界平和を訴求していました。
可愛らしい石地蔵様は「戦災供養地蔵尊」。
大東亜戦争での痛ましい戦災犠牲者を供養するために造立されました。
淡島堂から北へ50mほどの場所に建っているのが「融通銭塚地蔵尊」。
沢山の幟旗がはためく参道を銭塚地蔵堂へ・・・。
銭塚地蔵堂の内陣、御本尊の銭塚地蔵様は紫幕に囲まれ拝顔する事が出来ません。
「融通銭塚」とは少しエゲツナイ名前ですね、融通手形ってここから発券されたのでしょうか・・・?
銭塚地蔵堂の脇に御姿を留めない地蔵尊像がありました。
通称「カンカン地蔵尊」と呼ばれ親しまれているお地蔵様です。
お参りする人が前に置かれた黒小石で軽く御身を叩くとカンカンと鳴る事から「カンカン地蔵尊」と言われ、叩きながら願うと霊験があるそうです。
長年に亘り叩かれ削られた御姿が痛々しいです。
金龍山浅草寺境内にはまだまだ沢山の名跡がありますが、今回はここ迄と致します。
観音様の金龍山浅草寺から映画館街へ「花やしき通り」を歩きます。
花屋敷遊園地には人影が見当たりません。親子連れで喧騒を極めた昔日の面影は何処へ・・・・・。
飲食店や土産店が立並ぶ「花やしき通り」を案内する人力車。
化石燃料は全く使いませんから、地球に優しい究極のエコカーですね。
大正時代と昭和前半に繁華を極めた浅草六区の劇場・映画館車通り(浅草六区ブロードウェー)。車禁止のホコ天ですが、人影は疎らで寂しさが募ります。
エノケンやロッパが人気を博し、東洋一の繁華街と謳われた浅草面影は遠い昔話になりました。
戦後の浅草で数多く上映された人気だった映画は任侠ヤクザものやロマンポルノ系でした。
今でも路上看板には往時の雰囲気が・・・。
浅草六区の映画街には浅草世界館・名画座・中央劇場・ロック座・シネマ座など・・・営業中。
ストリップ小屋が消えて個室ビデオ店など増え、風俗の世界も激しく移り変わっていました。
昭和の香りいっぱいの懐かしい映画が上映中でした。
勝新太郎の「座頭市」、渥美清の「寅さんシリーズ」、小林明とペギー葉山の「南国土佐を後にして」、三船敏郎と鶴田浩二の「暗黒街の対決」など・・今では当たり前のカラー映画を当時は総天然色映画と珍しがられていました。
因みにロマンポルノ映画ではカラーフィルムが高価だった為、濡れ場シーンだけをカラーフィルムで撮ったパートカラー映画ってのもありましたね、諸兄も秘かにご覧になったことと思いますが・・・。(笑)
2010 07 20(火)記。 前橋市 最高気温37.3℃ 酷暑の上の痛暑!!
おまけコーナー。
寝ているビキニ女に氷水をぶっかけると・・・!?
Ice Waterfall On Hot Bikini Girl Prank
〓1985年8月12日の月曜日JAL123便事件〓
18:12:10離陸テイクオフ(前後方向加速度3G)
18:12:30。800feet通過 18:12:35機首方位180度指示 18:15:55機首方位200度 (事故調査委員会報告では18:18)
ニューヨーク報道 「離陸3分後問題発生」 18:16:22「日航123便SIDコースの2マイルより右寄りだ通常の航法に戻せ」 ※ハイジャック対策リモートコントロール技術開発中で民間航空化する前の123便がターゲットに ゆっくり山岳地帯にコースを逸脱させられる。 添付写真(2、3~5)犠牲者小川哲氏機内から撮影で朝日新聞1990年10月14日朝刊掲載三浦半島が手前に有ります。奥に富士山が有り相模湾の上空に入りつつ有ります。矢印はFIREBEEです。其のボディには日本開発の(米ステルス機用ステルス塗料のオレンジ色※塗料が塗られてます)やはり日本開発で純国産ミサイル(ターボジエット方式に切替。低周波発生する。ブースター付。ASM-1発展型)開発中の頭脳搭載してます。撃墜事件後ステルス爆撃機を開発中の発表してます。護衛艦まつゆきファイアービーを移動式発射台から打ち出します。
アメリカ調査官NTSBサイドレン調査官 落合由美氏に証言を聞く為に多野総合病院訪問する。 「異常発生時刻は18:25だった時計を見た」 スコーク77受信側の東京管制発表した時刻は18:25:10 精確命中を目的とすれば時報同時命中は必然的です。 週刊サンケイ1985年9月19日号 元電気通信大学講師井上氏談話「フライトレコーダーを見ると既に24分10秒には方向蛇が右に飛んでいる…」 異常発生時刻18:25:00を18:24:35、6にしたと考えると:25、6前つまり:25:00-25、6=18:24:35、6には、謎の飛行体を回避運動でかわしたと解釈出来ます。 つまりかなりの乗員と乗客が謎の飛行体を目撃したと考えられます。 &n bsp;初期フライトレコーダーの記録航路を見ますと衝撃音「パーンバリバリ」「ドーンガラガラ」の前に右に航路がずれていた。そうしますと正しい記録は以下の通りと推測可能です。
18:24:30~35「ライトターン」 18:24:37 「スイッチを押してトイレへ行きたいとおっしゃる方がいらっしゃるんですが、宜しいでしょうか」「気を付けて」「じゃあ気を付けて御願いします」「手早く」「はい有難う御座居ます」「気を付けて下さい」
突然に低周波MHZ(巡航ミサイルターボジエット音)音記録された後…18:25:0、50「パーンバリバリ」前後方向加速度0、047G。前向き外力11t。後方右斜め上より垂直尾翼衝突し左下方突き抜ける。(爆薬未搭載)沼津市上空で「ドーン」を聞いた人有ります。18:25:02一瞬停電 キャビン非常灯点灯 白霧発生 18:25:03「まずい何か当たったぞ」18:25:07「スコーク77入れるぞ」 「えっ」三浦半島三崎港灯台から南西8、1海里地点 & nbsp; 18:25:13「ライトターン」「ライトターン」「…(回避運動)しました」 極めて素早い行動をしておりまして、スコーク77発信迄短い事が分かります。8/12PM23:53山下運輸相記者会見「此迄の情報ではパイロットミスはなさそうだ」「全く予見出来無い事故で唖然としている」と示唆的な発言。
此の後機長は、18時25分20秒頃から日本航空社内無線でベテラン機長と操縦輪と機体の反応がおかしい点を話し合います。最大出力「マックパワー」つまり離陸推力で伊豆半島に向かいます。 伊豆半島の伊豆急行河津駅目撃者「普段の2倍の大きさで見えた」14200feet付近と推測可能。 河津駅上空でライトターンして大島方向に機体を向ける為に操作するが45度の右旋回に止まる。焦るクルー操縦輪操作するが…18:26:18「バンクとんな、そんなに」右旋回を試みるが…「何でこいつ」効か無いんだ。即時レフトターンを試みるが余り効か無い。其のまま駿河湾に出てしまう。 其の内に左右旋回全く不可能に成り18:29:00「バットナウ・アンコントロール」と機長は叫ぶ。 18:30静岡県焼津市小川港高草山(501m)上空をスレスレ低空飛行する。乗客遺書「急速に降下」「ジャンボ機は、静岡駅南西方向から駅方向に右旋回し、今度は左へ翼を傾けS字状旋回翼上下3度程繰り返し北の雲 の中に消えた」焼津市石津町原崎三夫氏(57) リモートコントロール側とパイロットの側との操縦権の争奪戦です。
関東南A空域C-1在空事実有り。岐阜航空実験団改良電子戦機。 公式未納入状態で使用してます。 電子戦機の誘導電波に逆らって羽田空港に戻る努力を続け航路が左右ふらふらに成ってます(初期航跡図) 富士山大野キャンプ場 「随分低くく左右に揺れながら飛ぶ」 垂直尾翼安定板分析 尾翼右側衝突 機首方向左側伸長力加圧され比較的痛みが少ない。上部外板捲れ上がり右側圧縮力で加圧され押し潰 されてます。 18:30 神奈川県相模原市上空座間ポイント東約9km高度約5400m上空より JAL123便機影ANA757便東京発小松機長 「何とか機首を羽田方向に立て直そうとしている様だった」「初めは4発エンジンの大型軍用機といった感じで(尾翼欠損し鶴のマーク殆ど無し)日航機には見えなかった」「123便は大きくなったり、小さくなったりして見えた。北から東へ針路変更をしようとしている様だった」「約3分後右後方へ去る」18:34「踏 ん張ってろよ」 18:35落合可之氏妻由美氏証言 「ゆっくりと左右に大きく旋回している様な動きが始まる。酸素マスクを外してみても苦しさは感じませんでした」 18:38「椅子の下にある救命胴衣を取り出して付けて下さい」ベスト着用開始。 「機体の左右の傾き揺れ角はじっと立っていられ無い程に成る」 機内アナウンス「急に着陸する事が考えられますから…」「北方から飛来し秋山村上空で360度以上急旋回をして北方へ低空飛行」山梨県秋山村藤本重則氏(37)舵左一杯でも右旋回の機首を抑制出来ず…リモートコントロール制御。18:40「別に苦しく(酸素)無かった」機体左側に富士山を見る。富士山3779m中腹アルバイト住み込みの人帰宅途中ふらふら飛ぶ飛行機を見る。「其の飛び方は飛行機と思えない。」と証言する。18:41日航
「其の飛び方は飛行機と思えない。」と証言する。18:41日航社内無線で、東京コントロールと連絡 (後日18:35に変更されます) 18:42「管制塔からの交信はキヤッチ出来ています」
1985年1月から8月航空自衛隊の岐阜航空実験団F-4EJ性能向上型F-4フアントム■テスト(秘話装置機能…交信内容は、秘匿をかけると受信機で雑音入る。但し通達距離も多少短く成る)一方F-15J撃墜目的在空。18:26:29「あー123便違います貴機を呼んでいない」在空戦闘機接触開始する。高度差4、5000mから低空飛行の速度が遅い123便をロックオン可能。 0、25G60t前向き外力発生した。18:56:02……18:56:04「あーっ」サイドワインダー(AIM-9L空対空ミサイル。全長287cm。直径12、7cm。87kg。接近戦用射程8km。翼幅64cm。弾頭9、5kg。爆発破片数10m範囲拡散。モジュラー構造で交換可能)命中18:56:092本目命中
「胴体から煙を噴きながら超低空で東北方角へ飛行」南相木村栗生主婦
「川上村の人達は、飛行機は北東の方へ炎をあげて飛んで行ったと話している」北相木村菊池村長
「もうぶっかると思ったが、機首をグッと持ち上げて山の斜面を這う様に上昇(6)して行った。機首の上部が後ろから見える程の急角度のままやっと尾根を超えた。姿が見えなく成って数秒後に黒い煙が、続いて白い煙が上がった」川上村梓山実家の畑で神奈川県在住石川哲氏
生存者吉崎博子氏「やがて飛行機は激しく揺れ出しました。ジエットコースターにでも乗っている様な感じで(6)」 速度108knot機首39゜の状態「頭上げろ、頭上げろ、パワー」「ストールするぞ」 「真っ逆様に落ちて行きます。窓の外の景色がどんどん変わりました。機体は何回かガクンと方向を下げて(7変則的旋回…事故調査委員会報告の大月上空に移動。実際は秋山村で円形)行きます」生存者吉崎博子氏 最後迄右旋回する為に努力したと認められる。「上空700~800m付近を飛行機が旋回しながらゆっくりと降下、北北東の三国峠の岩蔭に墜落閃光をあげて激突する」川上村伊藤剛氏 北緯35度59分54秒。東経138度41分49秒。横田タカン302度36マイル。入間タカン291度36、3マイル。群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内。墜落現場付近東大地震研究所に微小地震 3波有り &nbs p;18:56:50…1秒で減衰 18:56:53…1秒で減衰 18:56:55…10秒近く尾を引く(後で事故調査委員会の墜落時刻に合わせます。) 一本唐松(樹齢202年)地表から14m鋭利刃物切断した様に直径30cmの太さが折れている。 一本唐松通過後50~300m付近第4エンジン破片落下…フライトレコーダー第4エンジン出力0% 唐松より500m45度以上傾斜右翼の先でレ字形を尾根に残して進入方向へ木をなぎ倒す。機体後方接触し18:56:47圧力隔壁破壊音 18:56:50記録終了 数秒背面飛行後…迫撃砲命中して真直ぐ落下(写真添付7)するその後に小型核爆弾か高性能爆薬を使用する。 遺体の皮膚破れは熱線。地表約1m掘る必要が有りそうして元の地表露出して遺体発見。強烈なキノコ雲の上昇気によるもの。 土の中から炎が燃え上がるのが、ホットスポット現象。放射性降下物のフオールアウト(長時間火災)有り
123便乗客は、自衛隊の攻撃により長野側でばら撒かれた。
長野県南相木村で自衛隊岐阜航空実験隊の核ミサイルを被弾。
南相木村に、前部乗客断片を降らせたあと、群馬県上野村に入り、御巣鷹の尾根に墜落していた。(現在でも、現地一帯に入れば誰でも容易に検証可能。)
日航ジャンボ123便 蟻ガ峠方向で、核兵器が炸裂した瞬間を目撃した川上村住民談です。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/823.html
日航ジャンボ123便 長野のピカ現場でキャンプの人の決定的証言。 すぐ近くまで遺体の一部やら、手や足や・・散乱し
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak40/msg/885.html
右に虚空蔵様、おとりこ地蔵様、レイテ観世音様。
左に淡島大名神様、白木観世音様。
間違い等がありましたなら、これからも御教授ほど宜しくお願いいたします。