「日和田峠は檜皮峠?」の記事
先日、「日和田峠は檜皮峠?」と書いたら、ふりかけさんからコメントがありました。
<ふりかけコメント>
へ~ 萩原にも日和田峠ってのがあるんですね。一瞬高根かと思いました。高根の日和田の地名由来にも良質の檜皮を産したからという説も聞きますが(少々植生的に厳しいような気もしますが)、焼畑を意味する「火畑」であるとか、「陽のたわ(日当たりのいい場所)」を意味するなどの説もあるようですよ。
この、コメントを見て、好奇心が沸いてきました。
何で、日和田の地名について斐太後風土記に何かヒントは無いか?と。
ず~と、馬瀬郷の村々の記事を読んでいたら、最後にある下山村のところに、下山の名の由来のところが目に止まりました。
下山という地名の由来の理由が気になりました。
何が書かれていたかというと「上馬瀬には川上ヶ嶽の内、一ノ谷・二ノ谷等、上木繁茂の山あり、此下馬瀬にては、此村に字厚谷と云て、檜・椹・栂・樅・槻等の、上木繁茂の山あれば、上馬瀬の山に對へて下山と云るにや」
何が書かれているかというと、「上馬瀬の川上岳には、一ノ谷・二ノ谷等に上木が繁茂している山がある、下馬瀬の、この村には厚谷という谷があって、檜(ひのき)・椹(さわら)・樅(もみ)・槻(けやき)等の、上木繁茂の山がある、上馬瀬の山に対して、下山という」という内容となっています。
上木は、経済価値の高い樹木のことを、示している言葉のようで、馬瀬には川上岳と下山はヒノキの産地であったことが推察できます。
斐太後風土記は明治時代になって発行されていますが、編纂されていた頃は、江戸末期。江戸末期の飛騨は幕府直轄の天領の時代です。
馬瀬で産出されるヒノキは幕府の官材として切り出され、馬瀬川を流していたと思われます。
斐太後風土記をみていると、ヒノキを流送する時は、山で斧で製材され柱にした状態で流されていたことが推察できる絵図が所々で見て取れます。
尾張藩のほうも製材された状態で、幕府が必要としない部分は、労働者の対価として引き渡されていたということと同じことが幕府直轄天領でも行われていたと私は考えています。
そう考えると、馬瀬で伐採されたヒノキの皮は、山で剥がされ、庶民の手に渡っていたのでは?と考えることができます。
その、ヒノキの皮である檜皮を担いで峠を越えていたのでは?檜皮を担いで越える荷歩(ぼっか)が多い峠なので檜皮峠ということになったんじゃないだろうか?と考えたのでした。
まぁ、私の仮説ですので真偽のほどは定かでは無いですが・・・
ちなみに下山村は、今は岩屋ダム湖の下で今は廃集落となっていて、厚谷には離村した人達が、不動滝の脇に今でも不動明王を祀っています。
檜皮峠とは関係の無いことですが、気が向いたら厚谷の不動滝と不動明王について、徒然写真帳で紹介したいと思います。
最後に、少し木材の流送が気になったのでネットで調べてみたら、飛騨の運材について書かれた「官材画譜草稿」をネットで見つけました。これは木曽式運材図絵の元となった書籍だそうで、とても気になったので、即ネット通販で衝動買いをしてしまいました・・・近々やってくるので正月の私の楽しみになりそう?(管理人)
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何で、日和田の地名について斐太後風土記に何かヒントは無いか?と。
ず~と、馬瀬郷の村々の記事を読んでいたら、最後にある下山村のところに、下山の名の由来のところが目に止まりました。
下山という地名の由来の理由が気になりました。
何が書かれていたかというと「上馬瀬には川上ヶ嶽の内、一ノ谷・二ノ谷等、上木繁茂の山あり、此下馬瀬にては、此村に字厚谷と云て、檜・椹・栂・樅・槻等の、上木繁茂の山あれば、上馬瀬の山に對へて下山と云るにや」
何が書かれているかというと、「上馬瀬の川上岳には、一ノ谷・二ノ谷等に上木が繁茂している山がある、下馬瀬の、この村には厚谷という谷があって、檜(ひのき)・椹(さわら)・樅(もみ)・槻(けやき)等の、上木繁茂の山がある、上馬瀬の山に対して、下山という」という内容となっています。
上木は、経済価値の高い樹木のことを、示している言葉のようで、馬瀬には川上岳と下山はヒノキの産地であったことが推察できます。
斐太後風土記は明治時代になって発行されていますが、編纂されていた頃は、江戸末期。江戸末期の飛騨は幕府直轄の天領の時代です。
馬瀬で産出されるヒノキは幕府の官材として切り出され、馬瀬川を流していたと思われます。
斐太後風土記をみていると、ヒノキを流送する時は、山で斧で製材され柱にした状態で流されていたことが推察できる絵図が所々で見て取れます。
尾張藩のほうも製材された状態で、幕府が必要としない部分は、労働者の対価として引き渡されていたということと同じことが幕府直轄天領でも行われていたと私は考えています。
そう考えると、馬瀬で伐採されたヒノキの皮は、山で剥がされ、庶民の手に渡っていたのでは?と考えることができます。
その、ヒノキの皮である檜皮を担いで峠を越えていたのでは?檜皮を担いで越える荷歩(ぼっか)が多い峠なので檜皮峠ということになったんじゃないだろうか?と考えたのでした。
まぁ、私の仮説ですので真偽のほどは定かでは無いですが・・・
ちなみに下山村は、今は岩屋ダム湖の下で今は廃集落となっていて、厚谷には離村した人達が、不動滝の脇に今でも不動明王を祀っています。
檜皮峠とは関係の無いことですが、気が向いたら厚谷の不動滝と不動明王について、徒然写真帳で紹介したいと思います。
最後に、少し木材の流送が気になったのでネットで調べてみたら、飛騨の運材について書かれた「官材画譜草稿」をネットで見つけました。これは木曽式運材図絵の元となった書籍だそうで、とても気になったので、即ネット通販で衝動買いをしてしまいました・・・近々やってくるので正月の私の楽しみになりそう?(管理人)
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