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宅録ミュージシャン雑記「月の裏表・総集編」~trifling beetleブログ~

宅録ミュージシャンtrifling beetle
が書き倒してきた怒涛のブログのバックアップ(笑)

旅の重さについて

2013-04-28 12:07:41 | 日記



 
pm2.5や黄砂、花粉…いろいろなものが空気中を浮遊しているようで、くしゃみが止まらない。
ついでの鼻水も然り。
辛い時期だなぁ。




青々とした水田の中に、まるで白鷺のような下着姿の女が映えている..。
四国のどこまでも続く水田を見ていた時、遥か昔の夏休みに、友達の家でなにげに見た映画の冒頭シーンを思い出した。

高橋洋子主演の映画「旅の重さ」。
この映画の舞台が、実はまんま四国南西部であるということは、さっき知ったところである。

子供の頃に見たときには「なんやわけわからん感」満載で、後味超悪かった。
ただ初めに流れた吉田拓郎の「今日まで、そして明日から」のメロディーはなんか心地よく残った。

今こうやって改めて観てみると、この映画のテーマは、重く、そして暗く、しかしながら希望という光輝くもので満ち満ちている気がする。
いや、とにかく暗い。
暗すぎて嫌になる。
暗すぎるから、ほんの小さなロウソクの明かりでさえも、限りなく光り輝くオーロラのように見えてしまう。
そういう映画だ。

拓郎の歌が使われているということも、実に示唆的である反面、皮肉に満ちているとも言える。
全てにおいて、捻りに捻ってあるのだ。
なので反対に、全く何の捻りもないように思える。
これもこの映画の仕掛けの一つだと思う。

要するに、一見、これといったドラマ性を全く排除させた「モノクロチックな心理劇」が淡々と進行してゆくだけのように見えて、実はいろいろな雑多なものが詰め込まれ、それらで満ち溢れている「仕掛けと捻りだらけな作品」なのだ。
また、高橋洋子(当時新人)の演技が自然すぎて、逆にリアリティの全てを削ぎ落としているように見える。

こうやって非日常的な蓑をまとった「ごく日常的レベルの展開」が、特に急展開を見せることもなく、だらだらとだらしなく、ひたすらシークエンスとして穏やかに展開するだけ。

ラストも、救われたような、救われないような..そんな奥歯にものが挟まったような曖昧なものである。



70年代のの映画は、どうしてこんなに巧妙かつ狡猾なんだろうか。
特にATG勢はホンマにすごい。
「青春の蹉跌」、「サード」にしても、「龍馬暗殺」にしてもそうだ。
「祭りの準備」もしかり。
舌を巻く以外に感情を表す術がない。

いや、マイッタ。

感情や情操、魂までをも、あたかも犯罪者が脅かすように、恐ろしい程に執拗に揺り動かす映画が、今どれくらいあるのだろうか。
それは少なくとも、シネコンにはないと思う。



ところで主人公は最後には、曖昧で不確定なものであるのだが、自分なりの居場所というものをなんとなく見つける。
確実じゃない、決して安定していない、安全とも言い切れない、そんな場所を、「自分のいるべき場所(そうかもしれないし、そうでないかもしれない場所)」として、なんとなく定めて、そしてとりあえず「そこにいる」ことにする。
なんとなくではあるが、今の時代を生きている人々の、慌ただしくも、どこか諦観した人生観と重なるのではなかろうか。

ここではないどこかは「あるのかもしれないし、ないのかもしれない」。
しかしとりあえず、「なんとなく、ここにいることにする」。



家の中には家財道具らしいものなど少しもありません。戸棚ひとつなく、ラジオもないの。この家にあるものといえば、履き古した下駄とか古びたゴム靴とか破れた番傘とか七輪とかです。でもね、この生活からいわゆる貧乏というものが顔をだしていないのが不思議なの。なんだかこの家の昼間でも薄暗い部屋の中には、一種の庵の雰囲気があります。最初この部屋の中で意識をたしかにした時から、それを感じていました。夕飯を食べながら、壁にべったり張りついたくもの糸の七色に光る美しさや、頭上に垂れ下がった電気の笠の古典的な三角形の美しさや、猫の目の豪華さや、かつおのさしみのまだらな鈍い朱さや、じぶんの箸を握った手の細長い棒切れのような影の美しさなどを次々と眺めているうちにそれを感じたのです。






今日までそして明日から-70年9月16日 - YouTube


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