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宅録ミュージシャン雑記「月の裏表・総集編」~trifling beetleブログ~

宅録ミュージシャンtrifling beetle
が書き倒してきた怒涛のブログのバックアップ(笑)

マーブルスカイ

2012-10-31 14:03:28 | 日記
ZABADAK - マーブルスカイ
http://sakikanai.269g.net/article/1355457.html


忘れてただけなんだよ
何も見えないわけじゃない
世界中が 境界線
捨ててしまっただけだよ

ほら いま マーブルに溶けた
そら さえ まわりだす

何の予感も信じない
君と僕と そして夜の
境い目さえ消えた時に
船を漕ぎだそう
二人だけの船

花と星 星と君が
ひとつになったみたいだね
闇のなか 踊るような
声が聞こえてきたんだ

もう いま 愛してた記憶
それ だけ 抱きしめて

忘れないで いつまでも
君の中に流れてる
たくさんの声があること
その歌で漕ぐよ
二人だけの船
今 海をかける

藍色の夜の向こうから 眠る君の白いまぶたを
見つけた時 くちづけ 吐息をただ確かめる
君のいのちを

この 手に 愛された記憶
それ だけ 乗せてゆこう

忘れないで いつまでも
君の中に流れてる
たくさんの声があること
その歌で漕ぐよ
二人だけの船
失われた海へ



ポリアンナ症候群

2012-10-25 13:57:20 | 日記
ハンカチ王子の斎藤佑樹が消えて、随分経つ。まあ、消えて、といっても二軍調整しているだけで、もちろん引退ではないが。

<現実を直視できない>
 二軍調整を続ける日本ハムの斎藤(24)が13日、社会人のJX―ENEOSとの練習試合に先発。6回10安打4失点でKOされた。三回以外は毎回先頭打者を出す始末で、五回には3点本塁打も浴びた。
「逆球のホームランだったね。ミスしてやられるのはもったいない」
 とは、わざわざ視察に訪れた栗山監督の落胆コメントだ。二軍降格後の6試合で計27失点。ついにはアマチュアにまでボコボコにされたにもかかわらず、当の本人はショックを受けている様子もなく、こう豪語したから周囲は目が点になった。
「結果じゃなく、やりたいことをやった。いつ(一軍に)呼ばれてもいい準備をしたい」
 この日だけではない。8月にフューチャーズ(若手主体の混成チーム)戦で6回6安打5失点と炎上したときも、「一軍で打たれなくても、二軍で打たれる選手もいるじゃないですか」と豪語。毎回安打を浴びた今月4日の西武二軍戦後も、平気な顔でこうである。
「二軍で吸収したものを上でも出せるようにしたいですね」
 プラス思考といえば聞こえはいいが、チーム内では「どういう神経をしてるんだ?」という声が出ることしきり。「前向きなんじゃなくて、現実逃避してるだけなんじゃないですか」なんて言う選手も少なくないのだ。
「『ポリアンナ症候群』というのがあるでしょ。盲目的なポジティブシンキングによって、問題を解決する努力を放棄し、自分の良い部分だけを見て満足するというアレです。斎藤の言動を見ていると、まさにそんな印象を受ける」
 と、放送局関係者。精神科医の西村鋭介氏に聞くと、「ナントカ症候群というのは社会学者が用いる言葉で、精神科の医者は使いませんが」と前置きしてこう続ける。
「現実が見えていないという印象は確かに受けます。甲子園優勝をはじめとして学生時代に大きな達成感を得たことで、今と真剣に向き合っていないように思う。恵まれたキャリアからハングリー精神がなく、プロで成功しなくても、引退後も十分にやっていける、という安心感が、楽天的な発言につながる。甲子園優勝の経験から、自己流を貫けば報われる、と信じ切っているということもあるでしょう」
 心配だ。


でその「ポリアンナ症候群」って一体なんやねん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4


ちなみに「ポリアンナ」と言うのはエレノア・ポーターの小説に出てくる少女で、どれだけ苦しい状況の中からでも「よかった探し」をする8歳ちゃん。アニメ「世界名作劇場」において「小公女セーラ」に続いて放送されたという「愛少女ポリアンナ物語」のタイトルで知っている人も多いのではないであろうか。
1913年アメリカで、この原作が出版された時も、主人公の名前であるPollyannaは「極めて前向きな楽観主義者」の意味として使われ、その後心理学分野での用語「ポリアンナ効果」「ポリアンナ症候群」が生まれたそうだ。
シンドロームがあれば、効果もあると。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E5%8A%B9%E6%9E%9C

タレントのベッキーにもそういう疑いがあるとか、いや、もう乱用も甚だしい。そんなこと余計なお世話だとは思うのだが。
どうもこういう時代なので、ポジティブに考えていたり、それがちょっと目障りだったりしたら相当叩かれるのかもしれない。

大体において、根拠の曖昧な言い掛かりというものも、そういう点について粘着することのほうが多いと感じる。







今井美樹 Miki Imai - 彼女とTIP ON DUO (LIVE)


蚊と塩

2012-10-20 14:06:04 | 日記



下鴨にて trifling beetle




オシオというあだ名の役者?歌手がいましたね。
かなり壮大に世間を騒がせて収監とか。

昔、言いがかりをつけるのを、生きがいにしている、とても、寂しい、中年ネットストーカー女・まに(IITSCNSMWMANI=himy71)に、突然わけわからないことをブログに書かれましたが、その中の一つのネタが「オシオ男」(核爆)(/ω\)!!!

はぁ??なんすかぁ???
それわ???
マジキチか????


もんでしたねぇ~www。


蚊によく刺されます。いや、死ぬほど刺される。
9月はおろか、10月の蚊にも刺される。
10月の蚊って、もう勢いもなく、ひ弱なんだけど、そいつにまでやられます!!
痒いのなんのって。たまらんわぁ。

ところで、血液は外気に触れると凝固してしまいます。
そして蚊は血を吸う際、血液を凝固し難くする液を口から血管に注入するのですが、その液が痒くなる原因。
その液は、弱酸性。
それゆえに弱アルカリ性の物体で拭けば中和されて行き、しいては痒みが治まるらしい。

これは知っていてお得なことですね。
弱アルカリ性のものであれば、何でも良いのですが、身近なもので塩がある、ということ。

商店街~変わりゆくアレコレ~

2012-10-18 00:23:05 | 日記
先日帰省した時に御池の地下街「ZEST御池」に行ったがほとんどがシャッターをおろしていました。

ほとんどというか、全部だったのかもしれない。

意味がないじゃん、ただの通路やんと思いつつ何とも言えない寂しさに駆られました。

いや、出来た頃の思い出がたくさんあるから、なおさら、せつなかったなぁ。
よく待ち合わせとかもしたし、仲間とたむろしたりもした。
冬は暖かいんですよね、地下街は。

そうやって時の流れにつれて、いろいろなものが移ろってゆく。
仕方のないことではあります。

しかしながら、仕方ないと分かりつつも、その矛盾に胸を塞がれた気分になってしまう。
なんか、わかっちゃいるけど、無常感ってのとは一生仲良くなれそうもない。



大貫妙子 突然の贈り物 – YouTube 


ひとをおくる

2012-10-12 14:09:23 | 日記
身内や他人を、年相応に、何人か見送ってきた。

いつも思うのだが、人を見送ることに対して、イマイチ烈しく感情移入できないなあと。
そもそも実感がない。
実感がなかったら感情移入も難しくて当然であろう。
なんでなんやろ?今まさに、この世からその存在を消そうとしている人に対し、さまざまな感情が湧き過ぎてしまい、結果、収拾がつかなくなってしまう。
ついてはひどく混乱してしまい、それを回避するために、自分の心が、その実感というものを消してしまうのだろうなと、僕は思っている。

だから僕にとって人を送ることは、いつも、「相当に浮世離れしている、現実味のないエピソード」に他ならぬ。
お葬式の途中で感極まって涙することもある。
立ち上る煙を見つめてどうしようもない喪失感に打ちのめされることもある。
しかしどことなくそれは、現実から乖離した他の世界での出来事にしか思えない。

逆にこんなこともある。
人が死ぬことを、必要以上に生々しく、かつ神聖化して考えているなと。
今まであった肉体や、呼吸や、体温が、次に瞬間にはZEROになることを、必要以上に気高いものと捉えているというか。
畏怖の念しか抱けない時がある。

リアリティに溢れているのだ。
自分にとっての「特別な存在」の死などに間接的に接したときなどがそうだ。
「偶像」「心酔している、憬れの対象者」。
身内や親友などのように相互的親密感でつながっていないもの、こちらからの一方的な親近感のみのもの、お葬式や告別式などに直接参加したりしていないものなどがそれに当たる。
例えばジョン・レノンしかり、忌野清志郎しかり。
直接的にその人の死に接していない、直接接していないのなら、なおさら実感がないはず、と思いがちだが、実はこれがその限りではないのだ。
やけにリアリティがあり、要するに実感まみれなのだ。

まるで自分の死に接しているくらいに生々しい。
自分の肉親、親友などの死をリアリティに欠けた「他人事みたい」だと感じ、自分の偶像たちの死を「まるで自分の事のように」生々しく感じる..なんという、罰当たりな人間なのだろうか!
本当に、どうしようもないくらいに腐っているのかもしれないなと、深い自己嫌悪に陥る。

そもそも肉体なんて、魂の入った容れものにしか過ぎないというのが持論だ。
その肉体が消えるだけのことだ。
人が死ぬとはそういうことだ。
そういう考えで日々生きているからか、死というものに対して甚だしく無頓着。

換言したならば、死を極々身近なもの、日常レベルのイベントの、One of themだと捉えているということだ。

死は、決して特別なことではない。
だから、僕の日常生活は、死というものに対してのリアリティで、あり得ないほど満ち溢れている。
死と隣り合わせというのとはまた、若干ニュアンスが異なるのだが..

「明日生きているかどうかなんて、誰にもわからない」..うまくは表現できないが、強いて言えばそういう感覚だろうか。
死に限りなく近づいた経験があることが、そう思わせる最大の要因だということも確かにある。

また、そのことに対して、何の矛盾も違和感もない。
ないくせに、葬式や告別式に接するとなると、逆に全てのリアリティがZEROになってしまう。
突然スイッチが切り替わったみたく、感情や情緒が身もあられもなく、無味乾燥になってしまう、色合いをなくしてしまう、温度感が消えうせてしまうのだ。
死ぬこと、送られることが、「自分とは無縁の世界での出来事」となってしまい、味気のなさの中で、ただ役割を演じているだけになるのである..。

今日、まだ死んではおられないが、しかし、もう明日には..と言う方と対面し、その方の顔をしっかりと見据えるという機会があった。
今にも消えそうな炎を見て、今日もまた例外なく、実感というものを喪失した。


情けないと、思う。



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