哲学者のオルテガは、その著作「個人と社会―ひとと人びとー」の中でこんなことを書いていたという。
「この世に生を受けた私は何かをしなくてはいけない」。
彼が言うには、人間には周期的に繰り返される三つの契機がある。
すなわちそれは、
1.自己疎外…物の中で難破して、自己を失ったと感じること。
2.自己沈潜(観想的生活、思索的生、思索)…エネルギッシュな努力を重ねて、自己内面に引き篭もり、物について思索し、物を支配しようとすること。
3.行動(行動的生活)…予定計画に従い、世界に働きかけるために、再び世界に没入すること
…だという。
非常に興味深く、食指をそそられる思想だと思った。
テレビを眺めていると、やたら保険に関するコマーシャルが多いことに気付かされる。
先行き不透明な時代、不安は日常を根本から覆っている。
だから確かな保証に餓えているのか。
そうなのだろう。
需要があるから供給がある。
保険が蔓延していることも、今の時代性を正確に投影した、ひとつの尺度か。
まあ、誤解を恐れずに言えば、「長生きすることこそが人生最大のサクセスなのだ」という風潮が、必要以上にはびこっているのではなかろうか。
長寿は素晴らしいことで、命の重さはなにものにも変え難い。
それは正論だと思う。
しかしだ、長生きするために人は生きているのだろうか?
人生の目的が長生きなのだろうかと思う。
しかも、長く生きることに意義や意味、中身がなければ、それはどうなのだろうかなとも思う。
ふと意地悪にも懐疑的になってしまうほど、今現在、この国の人々がもつ「生きることの価値観」のベクトルというものに、どうしようもなく違和感を感じてしまうのだ。
こういう違和感は、時に自己の知らない部分、不明確な部分にしっかりとスポットライトを当ててくれるので、僕としては非常に好意的なものだと、かなりポジティブに捉えている。
己を知る依り代のひとつなのだ。
人が仮に、「何かをするため、しようとするため」に生を受けたのだとすれば、「何かを為さんとすることを目的とした人生」に、「長く生きること」とはあくまでも二次的、三次的、付加的な問題に過ぎないのであり、それ自体にそれほど重要な意義があるとは思わない。
直接的には関係ないというか…。
そもそも「生きること」に「生きることの目的」を置いていないのだ。
時間的観念や「生きるために生きることの呪縛」に、必要以上に縛りつけられることもなく、自分がやりたいこと、やるべきことに邁進する、これは自分にとって「人生の理想型」に他ならない。
あくまで理想ではあるのだが。
そう、生きている間に何かを成してみたいのである。
それは必ずしも成功という、万人に明確な形でなくても一向に構わない。
自己満足の世界で充分だ。
生きてきた意味や意義は人それぞれ。
自己満足でないものが正解であり、正論だという理屈は、たんなる歪なものにしか過ぎないからだ。
生ある間は、自分が今ここにいること(この世に生まれてきたこと)、そして現在進行形で生きていることに、最大限の敬意を払い、喜びをかみしめて、そして自分なりに意味を持たせ続けたいと思うことしきり。


夢のめがね - Songbird [AcousticaJPN] - YouTube
ORIGINAL LOVE 「夜の宙返り」 - YouTube
「この世に生を受けた私は何かをしなくてはいけない」。
彼が言うには、人間には周期的に繰り返される三つの契機がある。
すなわちそれは、
1.自己疎外…物の中で難破して、自己を失ったと感じること。
2.自己沈潜(観想的生活、思索的生、思索)…エネルギッシュな努力を重ねて、自己内面に引き篭もり、物について思索し、物を支配しようとすること。
3.行動(行動的生活)…予定計画に従い、世界に働きかけるために、再び世界に没入すること
…だという。
非常に興味深く、食指をそそられる思想だと思った。
テレビを眺めていると、やたら保険に関するコマーシャルが多いことに気付かされる。
先行き不透明な時代、不安は日常を根本から覆っている。
だから確かな保証に餓えているのか。
そうなのだろう。
需要があるから供給がある。
保険が蔓延していることも、今の時代性を正確に投影した、ひとつの尺度か。
まあ、誤解を恐れずに言えば、「長生きすることこそが人生最大のサクセスなのだ」という風潮が、必要以上にはびこっているのではなかろうか。
長寿は素晴らしいことで、命の重さはなにものにも変え難い。
それは正論だと思う。
しかしだ、長生きするために人は生きているのだろうか?
人生の目的が長生きなのだろうかと思う。
しかも、長く生きることに意義や意味、中身がなければ、それはどうなのだろうかなとも思う。
ふと意地悪にも懐疑的になってしまうほど、今現在、この国の人々がもつ「生きることの価値観」のベクトルというものに、どうしようもなく違和感を感じてしまうのだ。
こういう違和感は、時に自己の知らない部分、不明確な部分にしっかりとスポットライトを当ててくれるので、僕としては非常に好意的なものだと、かなりポジティブに捉えている。
己を知る依り代のひとつなのだ。
人が仮に、「何かをするため、しようとするため」に生を受けたのだとすれば、「何かを為さんとすることを目的とした人生」に、「長く生きること」とはあくまでも二次的、三次的、付加的な問題に過ぎないのであり、それ自体にそれほど重要な意義があるとは思わない。
直接的には関係ないというか…。
そもそも「生きること」に「生きることの目的」を置いていないのだ。
時間的観念や「生きるために生きることの呪縛」に、必要以上に縛りつけられることもなく、自分がやりたいこと、やるべきことに邁進する、これは自分にとって「人生の理想型」に他ならない。
あくまで理想ではあるのだが。
そう、生きている間に何かを成してみたいのである。
それは必ずしも成功という、万人に明確な形でなくても一向に構わない。
自己満足の世界で充分だ。
生きてきた意味や意義は人それぞれ。
自己満足でないものが正解であり、正論だという理屈は、たんなる歪なものにしか過ぎないからだ。
生ある間は、自分が今ここにいること(この世に生まれてきたこと)、そして現在進行形で生きていることに、最大限の敬意を払い、喜びをかみしめて、そして自分なりに意味を持たせ続けたいと思うことしきり。


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