時:2016年8月7日
聖書:Ⅰサムエル3:1~13
題:「主よしもべは聞いております」
アメリカのエール大学の精神科医でジエームズ.D・カマー博士は「心の病は、苦労せず、努力せず、行動しないで、気ばかり使っている人に、多く発生する」と言っています。
精神的に問題を抱えている人はちょっと行動が足りない、ということなのでしょう。
アメリカの有名な神学者であるチャック・スミスは、「神は、駐車している車を操作することはできないなどとおもしろいたとえを使いました.みなさんが止まっている車のハンドルをきっても、どこにも行きません。同じように、アクションのないクリスチャンを、神は導くことはできない、と彼は言うのです。走っていれば、例えその方向が間違っていても、的外れでも、ハンドルをきれば正しい方向に導くことができます。でも、止まっている人は、導きようがありません。神は、とにかくアクションを起こしている人を導くことはできるのです.だから行動しようと彼はチャレンジしました。神が求めているのは、愛について説明できる人ではありません。愛の人です。喜びについて説明できる人ではなく、喜んでいる人なのです。
~~~~~~~~~~~~~~アウトライン~~~~~~~~~~~~
A 少年サムエルがエリの前で主に仕えていたこと(1~3節)
-神に聞き、応答することは、神との関係において不可欠である-
B 主がサムエルを3度呼んだこと(3~9節)
-年齢や地位ではなく召しに基づいて与えられる-
C 主がサムエルにエリの裁きを語ったこと(10~13節)
-神への奉仕を求めるあまり、自分の家族を無視してはならない-
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A 少年サムエルがエリの前で主に仕えていたこと(1~3節)
-神に聞き、応答することは、神との関係において不可欠である-
3:1 少年サムエルはエリの前で【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。──彼の目はかすんできて、見えなくなっていた──
3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている【主】の宮で寝ていた。
l 1節→神はモーセ、ヨシュアに直接聞こえる形で語られたが、士師たちが治めた300年間の間には、みことばが与えられることはほとんどなくなっていた。エリの時代まで、イスラエルに神のメッセージを語る預言者はいなかった。なぜだろうか。エリの息子たちの態度を見てみよう。彼らは神のみことばに耳を傾けることを拒んだか、あるいは神と自分との間に負欲が入り込み、交流を阻むままにしたのだ。
l 1節→ユダヤ教伝承は、この時のサムエルが13歳になろうとしていたと考えた。この年齢は、今日もユダヤ人が「ヘ:バル・ミツワー(戒めの子)」と呼ぶ成人式の年齢であって、この時からユダヤの男子は神の律法のすべてに一人前の義務を負い始める。だから、サムエル召命物語は、彼らにとって成人式の典型的物語でもある。我々は、この事実から、子供の宗教的巣立ちがかなり早くから成立するという大事な教訓を学ぶことができる。日本で言うと中学一年生ぐらいの時に、子供が宗教的には一人立ちできるように考え、またそうなるように宗教教育を施しつつ育てている親は、どれほどいるであろうか。「賢者ダニエルは12歳にして神の霊を宿し、空しく白髪を運ぶ長老たちを、偽証人また人妻の美を貧るものとして黄めた(外典『スザンナ物語』)。サムエルも、ほんの子供の時、90歳になっていたエリを、神よりもわが子に誉れを帰すると叱責した。」
l 3節→〈神のともしび〉は単数形で、七つの枝のある燭台(出25:31)であろう。ソロモン神殿では十台の燭台(1列7:49)に変えられたが、第二神殿では再び七本の枝の燭台が造られていたことが、ローマのティトゥスの凱旋図中の戦利品から知られている。〈まだ消えていず〉は夜明け前の時刻を示す(レビ24:3)。
(中心的聖句A)
1節→神はモーセ、ヨシュアに直接聞こえる形で語られたが、士師たちが治めた300年間の間には、みことばが与えられることはほとんどなくなっていた。神に聞き、応答することは、神との関係において不可欠である。神は常に人の声を用いられるとは限らないが、みことばを通していつもはっきりと語られる。神のメッセージを受け取るには、私たちは心を備えて聞き、語られることに従ってすぐに応答しなければならない。サムエルのように、神から行動を起こすよう召されたら「私はここにおります」と答えられるよう備えておこう。
参照聖句→ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられること、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです」
(例話A)
コンスタンチヌス大帝は紀元313年に、ミラノ勅令によってローマ帝国での信教の自由を保障した。このことによって長年迫害に苦しめられてきたキリスト信者達は、自由に礼拝ができるようになった。
コンスタンチヌス大帝の母は、ヘレナといってキリスト信仰に熱心な人物であった。ヘレナは軍人専門の宿屋の出身であった。だからある宿泊者から福音が伝えられ、キリスト信者になったという。
ヘレナはある夜、十字架の木を持った天使の夢を見た。そしてこの夢をきっかけとして紀元324年に聖地巡礼にでかけた。
ヘレナはベツレヘムやエルサレムなどゆかりの地に石を積んでビザンチウム(現在のイスタンブール)に戻ってきた。この旅行の時に、ゴルゴタの丘近郊の貯水地で3本の十字架の木を発見したという。彼女はこの木を持ちかえってキリストの教会がイスラエルに出来るのを祈ったという。
その後に息子のコンスタンチヌス大帝は、母の積んだ石のあった地に次々とビザンチンン様式の教会を建てて行った。ナザレの受胎告知教会とベツレヘムの生誕教会、エルサレムの聖墳墓教会である。
ヘレナは、まさか自分の次の代に教会が聖地に建設されるとは思ってもみなかった。しかし聖霊に導かれた彼女の旅行と3本の十字架の木が、後の時代の3つの教会建設の土台となったのである。
主につながり、そして動き出すと、不思議なことが起こる。
B 主がサムエルを3度呼んだこと(3~9節)
-年齢や地位ではなく召しに基づいて与えられる-
3:4 そのとき、【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります」と言って、
3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。
3:6 【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ」と言った。
3:7 サムエルはまだ、【主】を知らず、【主】のことばもまだ、彼に示されていなかった。
3:8 【主】が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、【主】がこの少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『【主】よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。
l 7節→〈まだ、主を知らず〉は、一般的信仰や敬虐の意でなく、個人的直接的語りかけとしての主との面識を体験したことがないという意味。〈示されて〉は啓示を表す語。
(中心的聖句B)
8節→神の御声は少年サムエルにではなく、祭司エリに与えられるはず、と考えても当然だ。エリは年上で経験も豊富であり、ふさわしい地位にあった。しかし神のご命令は、年齢や地位ではなく召しに基づいて与えられる。忠実な信者を見出されるにあたり、神は予想もしない方法を用いられることがある。よもやと思う時と所に神の啓示があるという驚くべき発見は、燃えない柴に近づくモーセ(出3:5)、敵味方を知らぬ主の万軍の将に近づくヨシュア(ヨシ5:13)。アビエゼル人ヨアシュの子ギデオン(師士記6:11)
参照聖句→エレ1:4 次のような【主】のことばが私にあった。1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」1:7 すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──」
(例話B)
●愛で仕える
ジャッキー・ポリンジャーは、三十年以上香港で貧しい人々に仕え、伝道している。
大学を卒業したてで二十歳の彼女に、ある日主はこう告げた。
「船に乗って、フランスから出て行きなさい」
1966年彼女はその声に従って、行き着いたところが香港だった。
主はやがて、彼女を九龍城砦に導いた。
警察さえ踏み込むことをしない、暗黒街であった。
不潔とすべての悪と、不法がはびこるソドム、ゴモラの地である。
五エーカーの土地に、次から次へと嵩上(カサア)げした不法建築に、十万人がかさなって生きていた。
「イエスさまは民衆に対して多くを語りませんでした。
『愛している』とだれにも言いませんでした。
ただ大きく目を開き、耳をそばたて、そして彼らをいやしたのです。
私もイエスさまのようにしました。
彼らがお腹をすかせていたら、食べ物を与えました。
眠るところがなかったら、その場所を提供しました。
とても具体的なことです」
彼女はこのイエスの行為に見習った、愛の行為をもって、ひたすら人々に仕えた。
イギリス領香港が1997年6月末で中国へ返還されるにさきだって、九龍城砦は壊され一掃された。
この事によって彼女の働きの場は、中国、東南アジアへと拡大されていった。
C 主がサムエルにエリの裁きを語ったこと(10~13節)
-神への奉仕を求めるあまり、自分の家族を無視してはならない-
3:10 そのうちに【主】が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。
3:11 【主】はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。
3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。
3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。
l 11節→「二つの耳が鳴る」、というのは、「これから語ることが、あまりにも衝撃的で、耳にこだまして残る」ということ。
(中心的聖句C)
13節→エリは全生涯を神に奉仕して過ごした。彼の任務は、イスラエルで行われるすべての礼拝を監督することであった。しかし、この偉大な任務に心を注ぐあまり、彼は自分の家庭で果たすべき責任を無視した。神への奉仕を求めるあまり、自分の家族を無視してはならない。さもないと、あなたの使命は自分探しの旅になり下がり、あなたに放棄された家族は苦しむこととなるだろう。
参照聖句→Ⅰテモ5:8「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」
(例話C)
●自己像を高める
牧師でカウンセラーの柿谷正期(マサキ)さんは、「子どもの自己像を高めるため」の方法をこう教えている。
1 所有感
子どもは自分を愛してくれる人、受け入れてくる人と一体感を持ち、
安心感をいだく。
家庭の温かさ、共同意識、家族に誇りをもつことが大切です。
2 価値観
自分に価値があり、愛され、敬われているのだということを認識すること。
3 与えられる力にしたがって、自分は何でもやれるという感じを持つこと。
(結論)
A 少年サムエルがエリの前で主に仕えていたこと(1~3節)
-神に聞き、応答することは、神との関係において不可欠である-
B 主がサムエルを3度呼んだこと(3~9節)
-年齢や地位ではなく召しに基づいて与えられる-
C 主がサムエルにエリの裁きを語ったこと(10~13節)
-神への奉仕を求めるあまり、自分の家族を無視してはならない-
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(例話B)
クリスチャン女性がタマーラン・トラナエヴの埋葬をした 愛 行い 敵を愛す 祝福
Christian Woman Helps Bury Tamerlan Tsarnaev
タマーラン・トラナエヴはボストン爆弾事件の実行犯兄弟の一人であった。彼は追われて射殺された。この悲劇があって後に、彼の遺体を埋葬をしても良いという墓地は見当たらなかった。どこの町であっても市民が反対したからだ。
マルタ・ムレンというクリスチャン女性はこの事に心を留めた。民営ラジオは彼女の働きをレポートしたのだが、マルタはタマーランの埋葬のために動いたのである。片っ端からイスラム系の葬儀会社を当たった。そしてついに、バージニア州ドスウェル市にある葬儀社が受け入れたのである。
民営ラジオ局のアウディ・コーニッシュはマルタにインタビューした。「あなたはタマーランの親族とは一面識もないのに、なぜこんな厄介な物事に顔を突っ込んだのですか?もしかしたら、タマーランを憎む者たちから命を狙われるかもしれないのですよ?」。
マルタは答えた。「キリストはあなたの敵を愛しなさいと言いました。タマーランへの悪口は聞いています。しかし聖書のよきサマリヤ人への例えの箇所から、私の隣人を愛するようにと導きを感じたのです。私の隣人とは、必ずしも心地よい人達ばかりとはかぎりません。
時には悪人であっても、導かれたら愛を示すことが必要なのではないかと思ったのです」。
Submitted提出 by Keith Mannes, originally reported by Audie Cornish, "All Things Considered," National Public Radio (5-10-13)