狭山福音教会の聖書ショートメッセージ・レジメ・コラム・例話(キリスト教 )

大阪狭山市にあるプロテスタントキリスト教会。JEC狭山福音教会の牧師による聖書ショートメッセージ・コラム(説教 例話)。

メッセージ@2009年6月28日(川崎豊信)

2009-06-30 20:04:32 | 日記
日時:2009年6月28日
所:狭山EC
聖書箇所:創世記4:13~26
タイトル:「あわれみ」

 9歳の男の子が、授業中、小便をもらした。
 男の子のズボンは濡れ、床には水たまりができた。戸惑いのあまりその子の心臓は止まりそうだった。これがほかの男の子に見つかったら、いつまでもからかわれ、女の子に見つかったら、今後、口を聞いてもらえないだろう。
 やがてその子は、うつむいて祈り始めた。「神さま、緊急事態です。助けてください。 5 分もすれば、まくはみんなから馬鹿にされます。」頭を上げて前を見ると、さも見つけたぞといった目をした教師が、向こうからやって来た。教師が、その子を備み上げようとすると、水のはいった金魚鉢を運んで来たクラスメイトのスージーが教師の目の前で転び、その子の膝の上に水を、ぶちまけた。その子は怒る振りをしたが、心の中で神に感謝した。
 今やその男の子は、からかいの対象ではなく、同情の的になったのだ。教師がその子を大急ぎで教室の外へ連れ出し、ズボンが乾くまではくようにと体育用の短パンを渡した。
 ふたりが教室へ戻ると、クラスじゅうの子どもたちが、はいつくばって床を拭いていた。この子に示された同情心は、すばらしいものだった。しかしそうは簡単に物事は収まらない。彼が受けるはすだった潮笑が、スージーに向けられたのだ。時がたつにつれ、同情の声は広がり、潮笑の声は減っていった。
学校が終わり、帰りのバスを待つ停留所で、その子はスージーのほうへ歩み寄りささやいた。「スージー、わざとやったんだろ」。「前に私も、ズボンを濡らしたことがあるの」。スージーはささやき返した。
 その後、この男の子は、スージーに頭があがらなくなったが、同時に弱者にやさしくなったという。人は哀れみを受けたなら、人に与えるようになる。
人は、強制や懲らしめというエネルギーによるよりも、愛や期待また赦しといったエネルギーによって変わることの方がより大きな効果を期待できる。そのように変化した人はバックスライドが少ない。
創世記4章のカインは、人類初の殺人者であった。被害者は弟のアベルであった。カインの犯罪によって、カインはさまよい人となった。カインは自分の罪の償いをしたのである。しかし同時に主なる神はカインを守り、カインの子孫には産業・文明の担い手とした。
 またカインには弟が与えられた。この弟セツの息子は、神を礼拝する者となり、この時から礼拝が始まった。
 神は私たちを愛してやまない。あわれみの神であるからだ。罪の失敗をしても、大きな懐で赦して、立たせて、歩ませてくださる。もちろん人は犯した罪に対して、現実的な罪の償いをしなければならない。しかし神は霊的には罪を赦し、永遠の刑罰から救い出してくださる。そればかりか悔い改めるものには信じられない恵みを用意してくださるのだ。
 本日の箇所では、失敗→あわれみ→礼拝について書かれている。失敗は神によって覆われる。そして人は
それ故に感謝と賛美の礼拝を主にささげるのである。
 アウトラインは以下のようになる。

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A 殺人者となったカイン(13~24節)
―神はあわれみの方―
B 与えられたもう一人の子供セツ(25~26節)
―礼拝について―
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A 殺人者となったカイン(13~24節)
―神はあわれみの方―

4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」。
4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。
4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

(固定的メッセージA)
 15節「・・・だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」を中心として教えられることは次のようである。カインは殺人の罪により自分も殺されるのではないかと考えた。しかしカインには殺されないような印が与えられた。神の守りが約束されたのだ。
 カインの子孫となったレメクには三人の息子が与えられた。3人の息子ヤバル、ユバル、トバル・カインは、結果として文化産業のそれぞれの祖となった。畜産、文化芸術、鉄鋼業である。これらは今日の第1次産業~3次産業となっている。またカインの弟として生まれたセツの子孫は、礼拝行為を始めるようになる。この時から、祭司の職務が誕生したのだ。神はカインの失敗を覆い、産業・文化・宗教の祖としてくれた。
 神は哀れみの方である。悔い改めるならば失敗を覆う。また人生と子孫を回復してくださるのだ。

(例話A)
 フランスの作家で政治家のビクトル・M・ユゴー(1802ー85)の名作に、『レ・ミゼラブル』がある。
今もって読者に多くの感動を与え続けているが、次の場面は、「自分だったら?」とだれもが考えさせられるものである。
 デューニュの町の司教ミリエルのもとで十九年ぶりの温かい夕食と、ふかふかのベッドに休んだ前科者ジャン・バルジャンは、朝早くだれにも礼を言うことなく、教会から出て行ってしまった。
 司教が朝食をとっているところへ憲兵が、ジャン・バルジャンを捕らえてやってきた。「司教さま。この男は教会の銀の燭台を盗んだ悪党です」。そういって燭台を司教にわたそうとすると、それをとどめてミリエルは言った。
「それは昨夜、その方が今までの罪を悔い改めていたので、記念にあげたのです」。これを聞いて、憲兵は不服そうに立ち去って行った。
 司教はやさしくジャン・バルジャンに言った。「もうだいじょうぶです。あなたはその燭台をもっておでかけなさい。あなたがまことに善人になった記念のその燭台をもってね」。
 別れをつげる司教の目には涙があった。
 これを機会に改心したジャン・バルジャンは、努力の末市長となり、人間愛あふれる生き方へと変わっていった。
 この司祭は、神のような方だった。対する人によって接し方は違う。ジャン・バルジャンの内面と将来性を見越しての行為であった。この行為によって、ジャンバルジャンは、真の愛の人へと変えられた。「ああ無常」とは、無常である世にあって輝く、ジャンバルジャンの真実の愛の物語である。
 私たちは「申し訳ない」という思いによって変わることが出来る。哀れみに触れるよう祈ろう。

B 与えられたもう一人の子供セツ(25~26節)
―礼拝について―

4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。


(固定的メッセージB)
 26節「・・・セツにもまた男の子が・・・そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」を中心として本日この箇所から学ぶべき点は次のようである。セツとは「土台」「よりどころ」の意である。カインは弟アベルを殺したが、神は次の弟セツを与えた。このセツの息子エノシュから主の名による祈りが始まったのである。この祈りは礼拝の基となる。
神の恵みに感謝し、拝むことが礼拝である。礼拝は生活と人生の土台となる。人生が祝福される土台は礼拝を第1とすることである。心を尽くし力を尽くし思いを尽くし、主に礼拝を捧げよう。

 礼拝の定義→「礼拝とは神をあがめて拝むこと」である。→詩篇100:1~「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」

 礼拝のスピリット→「全身全霊をもって礼拝をささげる」→マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。

 礼拝の種類→①公同の礼拝 ②小グループでの礼拝 ③個人での礼拝

(例話B)
 リック・ムーチュー牧師はサドルバック教会の16年目のワーシップパスターである。リック師は次のように述べている。
 「コンサートの後に、夜遅くに帰ると妻が大好物のフルーツサラダを作ってくれた。妻はこういった。『フルーツも野菜も作ったのは神様、私は並べて盛り付けをしただけよ』。礼拝に対するコンセプトは私たちは礼拝を作り出すことは出来ない。言葉も音楽もアートも全て神様のプレゼントである。私たちはそれをどのように盛り付けるのか。そして重要なのは愛である。バナナをむいてポンと置いたものと、美しく切って盛り付けられたフルーツサラダの違いは歴然としている。礼拝は神様に栄光を帰すためであって、その中心は愛である。」。 
 
 礼拝とはギ:プロスキニシス「尊敬」という言葉から来ている。プロスクネオーは「伏せて口付けをする」という派生形動詞である。だから礼拝とは、神を尊敬し拝する人間から神に対してなす行為である。英語では「サービス」という。これは神に仕える行為、あるいは神の栄光に仕える意味があるからだ。
ユダヤの祭りの一つに「安息日の祭り(シャバット)」がある。これはプロテスタントの日曜礼拝に相当する祭りである。つまり礼拝とは祭りでもある。神の栄光を現す祭り(セレブレーション)」であるのだ。
 ともあれ、礼拝が生活の土台となるならば、その人の人生は祝福される。

(結論)
 神のあわれみは尽きないと聖書にある。すでにアダムとカインの時代からあわれみは示されていた。真の悔い改めは、神のあわれみに対して申し訳ないと感じることからくる。そして赦された喜びは、真の礼拝を生み出す。神のあわれみに浸り、礼拝する者となろう。


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1 コメント

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iine (kwsk)
2009-07-04 18:02:56
Its nice to you.

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