狭山福音教会の聖書ショートメッセージ・レジメ・コラム・例話(キリスト教 )

大阪狭山市にあるプロテスタントキリスト教会。JEC狭山福音教会の牧師による聖書ショートメッセージ・コラム(説教 例話)。

メッセージコラム#1706-3(川崎 豊信師)

2017-10-21 14:03:17 | キリスト教

時:2016年6月26日

聖書:1サムエル2:18~26

題:「人を育て自分も育つ」

 昨年のロンドンオリンピックで、無足ランナーとして有名になった人がいます。南アフリカのオスカー・ピストリウスという選手です。彼は400メートルの陸上競技に出て、準決勝で敗れるんですが非常に注目されたんですね。彼、生まれた時から両すねの骨がない状態で誕生しました。彼はずっと義足で生活するんです。でも彼はその困難を乗り越えてパラリンピックに出場するようになり、彼は敵なし、というほど速くなるんですね。でも彼は、パラリンピックではなく、オリンピックに出たい、と夢を持つんです。でもその彼のパラリンピックでのタイムが抜群に速いので多くの人から批判を受けることになります。「あの義足は加速装置だ。」とか「道具によるドーピングだ。」と言われたんです。彼は、出場規定のハードルをいくつも乗り越えて、やっとロンドンオリンピックに出場したというんですね。

 あるインタビュアーが彼にインタビューしました。「オスカーさん、あなたはなぜこんなにも困難を乗り越えてオリンピック出場という夢を実現することできなんですか?」彼はこう答えたんです。「私は十年前に亡くなった母親のことばを忘れることができません。母親は私にこう言ったんです。”オスカー、敗者とは最後にゴールする人じゃない。初めから出場をあきらめちゃう人をいうんだよ。”私は私のルーツであるこの母親のことばに励まされてこのオリンピックに出場したんです。」

三綿直人 聖書と福音

アウトライン

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A ハンナの祝福(18~21節)

-信仰深さ(従順)-

 

B エリのまちがい(22~26節)

-子との悔い改め(まちがいは詫びる)-

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A ハンナの祝福(18~21節)

-信仰深さ(従順)-

 

 2:18 サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、【主】の前に仕えていた。

 2:19 サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。

 2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「【主】がお求めになった者の代わりに、【主】がこの女により、あなたに子どもを賜りますように」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。

 2:21 事実、【主】はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。

 l  18節→「エポデ」「巻く」腰に巻いて使った。12部族の石。祈りのために使用。無地の亜麻布で作った袖なしの長衣のことで、祭司全員が身に着けていた。大祭司のエポデには特別な装飾が施されていた。あざやかな色とりどりの刺繍を周囲に施してあり、金で縁どられ肩ひもの付いた胸当てが取り付けられていた。胸当てには12個の宝石が取り付けられており、宝石の1つ1つがイスラエルの部族を象徴していた。

l  18節→サムエルは祭司エリの助手となった。助手として、サムエルは幕屋の扉を毎朝開けたり(3:15)、家具を掃除したり、床を掃いたりしていただろう。また成長するにつれて、エリがいけにえをささげる手伝いもしたと考えられる。亜麻布の衣(祭司のみが身につけた衣服)を着ていた事実から、サムエルは見習い祭司であったことがわかる。サムエルはエリの助手であった以上、神の助手でもあった。あなたが他者に奉仕するとき- 普通の仕事をしていても- あなたは神に仕えているのだ。究極的には神に仕えるのだから、どんな仕事にも尊厳がある。

l  20節「エリは、エルカナとその妻を祝福して」→エリは強い祭司ではなかったが、彼の祈りは聞かれたし、彼のカウンセリングはハンナにとって有効なものであった。祈りは2人以上でする時に、どちらかの信仰が働く。またカウンセリングも受ける側の真摯な態度のゆえに効力を発することがある。

 

参照聖句→マタイ18:19-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事で、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 (中心的聖句A)

l  21節→神は信仰深いハンナの願いを尊重してくださった。神はサムエルのほかにも、ハンナに5人の子どもたちを授けられた。神は私たちが想像もしていない方法で、しばしば私たちを祝福してくださる。神の祝福は今すぐ来ないかもしれないが、神がみことばで語られたことを私たちが忠実に行うなら、いずれ祝福は来る。

 

参照聖句→申命記30:19「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 

参照聖句→ヤコブ5:14「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 

(例話A

アブラハムは神様との歩みの中で従順に神様に従った人ですが、創世記22章に記されている試練ほどに厳しい試練は他になかったのではないでしょうか。

神様のアブラハムへの命令は「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節a)というものでした。

 

この命令を受けたアブラハムは驚きを隠せなかったに違いません。イサクは約束の子だったからです。しかしアブラハムはどう反応したでしょうか?

アブラハムは即座にこの命令に従いました。命令を受けた次の日朝早くにはもうしもべ二人、ロバと愛する息子イサクをつれて、薪をもって出かけたのです。

このような訳の分からないとも言える神様の命令に言い訳一つもせずに従ったアブラハムは神様に栄光を帰しました。この姿勢は私達が見習うべきものです。アブラハムがしたように、私達も神様のご計画が一番良いものであると信頼して、従順を示すならば神様のご性質の名誉を高め、賛美を捧げることができるのです。

 

B エリの失敗(22~26節)

-子との悔い改め(まちがいは詫びる)-

 

2:22 エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。

 2:23 それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。

 2:24 子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が【主】の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。

 2:25 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が【主】に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころであったからである。

 2:26 一方、少年サムエルはますます成長し、【主】にも、人にも愛された。

 

l  22節→「女たちと寝ている」→エリの息子たちは祭司であった。にもかかわらず恥ずべきことをしていた。それは周囲からエリの耳に入って来た。つまり全てが明白な事実であった。

l  23節→エリの息子たちは人々を騙し、誘惑し、略奪し続け、故意に神に逆らい続けた。私たちが無知から罪を犯した場合でも、罰に値する。しかし意図的に罪を犯すならば、その結果はより厳しいものとなるだろう。罪に関する神の警告を無視してはならない。罪が生き方そのものとなる前に、罪を手放そう。

 

l  25節→〈彼らを殺すことが主の桑こころであった〉は「主は彼らを殺すのをよしとされた」で、宿命論的な野蛮な神観でなく、聖書の宗教に本来的な思想である(出九12、10 10 27、Ⅱサムニ四1、イザ六9、マル四18、ヨハ12 37-43、ロマ一24 26など)。その自由意思にゆだねられたのである。しかしながら悔い改めるならば道は違っていたかもしれない。

 

参照聖句→エレ18:8「わたし(神)がわざわいを予告した民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」

 

(中心的聖句B

l  29節→エリは単に反抗的な息子たちに手を焼く父親、というだけではなく、自らの監督下にある祭司たちの罪を見過ごす大祭司であった。その結果、主はエリが行おうとしない必要な処分を行われたのである。エリは息子たちの罪深い生き方を放置することで、神よりも自分の息子たちを大切にするという罪を犯した。あなたの人生、家族、または仕事の中で、間違っていると知りつつ放置している状況はないだろうか。もしそうなら、その悪行に加わった人間として有罪になるおそれがある。

 

参照聖句→申30:17「しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」

参照聖句→箴言13:24「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」

 

参照聖句→エペソ6:4「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

 

(例話B

「同志社を創立した新島襄に有名なエピソード(自責の杖)があります。カンニングをした学生を責めるとき、新島襄は「私が悪い」と言って、いきなり持っていた木のむちで自分の左の手のひらを打ち始めたのです。

むちは折れ、手のひらに血がにじみました。それを見た学生たちに感動が走ったことは言うまでもありません。もう一つ、学生たちはカンニングがいかに重い罪であるかを初めて知ったのです。これは新島襄だけにとどまりません。わたしたちもキリストの十字架に出会って初めてわたしたちの罪の深さに気がつくのです。このときの新島襄はいわばちいさなキリストとしてそこに遣わされていたのです」。

一八八〇年四月十三日、火曜日の朝のチャペルの時間に新島校長が劇的な振る舞いに及んだことについては、その場に居合わせた生徒のうち原田助という生徒がそのときの感動を日記に記しています。原田はのちに同志社の総長になった人です。

また堀貞一という生徒は、感激のあまりその杖の破片を拾い、自分の宝として持ち続け、後年同志社教会の牧師になったときには、その破片を示しつつ、あのときの新島校長の姿を実演してみせて、聴衆に深い感銘を与えたのでありました。その折れた杖は現在、新島遺品庫に保管されており、同志社が新島に関する特別展を開催するときには、しばしば出品されています。

北垣 宗治           

同志社大学名誉教授

 

(例話B)

スマイリー・ブラントンという精神科医はこう言いました。「幸せになりたければ『あの時ああしてたらよかった』と言う代わりに、『この次はこうしよう』と言うことだ。」過ぎてしまったことをいつまでもくよくよしていても仕方がありませんね。今、目の前にある、やがてやって来る未来に目を向けて、そして自分の目の前にあるチャンスをつかむということが人生を祝福に至らせることなのだと言うのです。

 

(結論)

A ハンナの祝福(18~21節)

-信仰深さ(従順)-

 

B エリのまちがい(22~26節)

-子との悔い改め(まちがいは詫びる)-

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