★真夜中のひとりごと★

二児の母「たっちー」のひとりごとです。

ケン:発達性読み書き障害と再診断

2018年11月23日 | ★育児
今日も、LDディスレクシアセンターに行きました。
最初の検査からたいぶ経過しているので、どのくらいの能力になったのかを再検査しました。
するとこのような結果に。




やっぱり「発達性読み書き障害」を認められると診断を受けました。
しかし、だからと言って私は悲観することはありません。
本人も、既にしっかり自分の障害を受け入れています。
みんなと同じにやりたくてもできなくて、少々暴れることはありますが…。


特に小学校のクラスのみんなに字が汚いことでバカにされることはないようです。
先生も理解してくれているので
「もっときれいに書きなさい。」
「どうして書けないの?」
などと言うこもはありません。

だって、そんなこと言われても「障害」なのだから、みんなと同じようにひたすら書いて覚えることはできないんですからね。努力してもできないことをさせられても何にもなりません。

私は小学校の先生に、
「テストの点数なんてどうでも良い。少しでもできることを増やしてあげて欲しい」
と伝えています。


子どもに「自分にはどうせできないんだ」と悲観させずに本人にあった学び方でどうやったら学習できるかを考えることが大切だと思います。

それは、学習障害があるとか、発達障害だからとか、きっと関係ないですね。すべての子どもたちに言えることだなって思います。

ケンはこの世の中に、学校に、大人達に、そして、子どもたちにも、教えれるためにこの障害を持って生まれてきたのかもしれません。

読み中心の漢字テストでは、毎回、100点を取っています。書くのは苦手でも、読むことはトレーニングでだいぶよくなっていると感じます。本人もそれは感じているようです。

ここまで、担任の先生や通級指導学級の先生に恵まれて、自信をなくすことなく学ぶことができました。
来年は最高学年の6年生。

担任の先生次第では、潰される可能性があります。
そして、中学校。
教科ごとに先生が変わってしまう。
ケンが進学する中学校はどこまで合理的配慮に理解があるのか…。

まだまだ支援体制がしっかりできていない状態なので、延々と説明に行かなければならないだろうな。

もし、先生に自信を潰されるようなことになったら、
「学校にいかなくてもいい。家で勉強しなさい。」
と言ってあげようと思う。
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砂沼マラソン大会

2018年11月18日 | ★道をひらく
前日はミュージカルを観るために、東京に遅くまでいましたが、次の日の早朝からコウと一緒に親子マラソン小学3年生2km部門に頑張って参加しました。コウが参加したい!というので申し込みました。



私は一週間前から練習をしました。
2km、なかなかきつかったです。
コウはちょうど学校で持久走大会があるので学校で練習できていました。



私たちの成績はビリから2番目の

62位 13分53秒

でした。
最初からどんどん置いてけぼり。

しかし、私はスタート前から決めていました。どんなに遅くてもけして、歩かないでゴールを目指すぞ!と。
ビリになってしまった親子のお父さんは、あまり練習しないで出場したのか、途中で走れなくなり、歩いていました。私に追い抜かれまいと何度か頑張っていましたが、結局、最後は走れなくなっていました。
私は唯一、その方を抜かすことができました。

でも、少しの練習でも、最後まで走れるようになるんだな~と実感。コウには退屈させてしまったけど、二人でマラソンができて、いい思い出になりました。



最後まであきらめないで走りぬいたのを、子ども会育成会で一緒に役員をしているコウの同級生のママが撮ってくれました。遅くてもあきらめなかったのが、とてもカッコよかったと褒めてくれました。ありがとうございます!
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コモンビート

2018年11月17日 | ★道をひらく
家庭教師にきてくれているぷーさんのお誘いで、ミュージカルを観に行きました。


↓観に行ったミュージカルの公式レポートです。
【フォトレポート&公演アンケート】第48期東京公演が無事に終了しました!(2018/11/18)

NPO法人コモンビート
https://commonbeat.org/

コモンビートとは、様々な立場の素人の方々が100人集まり、本番までの100日間を一緒に練習します。

【作品から多様な価値観を感じとる】
ミュージカル「A COMMON BEAT」の作品のテーマは「異文化理解~違いを認め合うこと~」です。この作品を演じることで、「違い」というものを認めること、「違い」でつながっていくことの意味を考えます。作品のシーンから、戦争の残酷さ、命の尊さ、命のつながりなど、生きる上で大切なことを出演者同士で考えて、語り合います。そこには正解はなく、それぞれが考えている価値観を互いに共有することこそが大きな意味となります。




まさにこれからの時代に求められていることですね。
違いを認め合える社会になってほしいと私は思います。
ケンとコウも違いを認め合える人になってほしいですね。

演劇のプロではない方々が100人が参加するミュージカル。
1人1人が輝いていました。もちろん、ぷーさんも。

ケンとコウが何かいいものを感じ取ってくれたらいいなと思います。
ぷーさんとの出会いは、息子たちにとって大きいなと思います。
ステキなお兄さんに出逢わせてくれて、ありがとうございます。
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市P連・教育懇談会:「いじめ」を経験して

2018年11月16日 | ★道をひらく
市内小中学校のPTA会長さんや女性ネットワーク委員会の役員の方々、教育委員会の職員の方々、小中学校の校長先生など、公立小中学校のPTA関係者が集まる教育懇談会が開催されました。



ケンとコウの小学校の校門にいた市PTA連絡協議会の会長さんに
「私はこの学校でいじめられたんですよね。」
と、何気なく話したことで、教育懇談会の発表者になってほしいとお声がけをうけ、なんと「いじめ」についての私の実体験を発表することになりました。ずっと誰かに伝えたかったことなので、このチャンスをいただけて有難く思い、とても嬉しくも思いました。

ここに内容を記します。
この文章が誰かのお役に立てたら、嬉しいです。

-----

平成30年11月16日(金)午後6時
市PTA連絡協議会・教育懇談会

【「いじめ」を経験して】


ただいまご紹介いただきました、「たっちー(実際は、本名を言いました^^)」と申します。よろしくお願い致します。

私は現在、地区子ども会育成連合会の会長をしております。小学校の前で、毎日、先生といっしょに子どもたちを見守ってくださっている、市P連会長のSさんとお話したのがきっかけでご依頼を受け、このような発表することになりました。

私の体験が皆様の何かの気付きになればと思います。長くお話するのは初めてで、かなり不慣れですが精一杯お話させていただきますので、恐れ入りますが、しばらくお付き合いお願いします。

私には小5と小3の息子2人と夫、私の両親の6人の家族がいます。夫は隣町から、お婿さんに来てくれました。ですので、私の苗字は生まれたときのままで、変わっていません。私はこの名前が好きで、女だからという理由で、結婚で苗字を変えたくありませんでした。
小5の息子は発達障害の自閉症スペクトラム障害と発達性読み書き障害(発達性ディスレクシア)があり、毎日大変な育児をしています。そんな手のかかる息子を幼稚園や、小学校の先生方には、たくさん助けていただき、本当にありがたく思っています。

私は、これからお話する「いじめ」のせいで、心の傷が治っておらず、今も苦しめられています。カウンセリングで治療を受けているところです。息子がまもなく、私がいじめにあった年齢の小学校6年生になろうとしています。自分では、普段考えないようにしていても、子育てする中で何度もフラッシュバックし、トラウマに悩まされることが多いです。このまま治療しないと精神的に危うくなると感じ、カウンセリングを受けることを自分から決めました。「いじめ」というのはこうして、30年以上たっても、その人を苦しめ続ける、恐ろしく、卑怯な行為だと思います。

それでは、まず、私がどんな人かをお話ししましょう。
埼玉県生まれで、4才まで団地で育ちました。きょうだいはおらず、一人っ子です。5才から茨城県に引っ越して、県内を2回ほど引っ越しました。
両親の仕事は、住み込みで共働きでした。家が仕事場で、朝7時から夜中の2時まで仕事をしているという特殊な環境で育ちました。友達が簡単に来ることができない集落から離れたところに住んでいたため、友達と気軽に遊ぶことができずに、寂しい思いをして育ちました。私の友達は、飼い犬だけでした。
そんな中でも母は、懸命に育ててくれました。当時では珍しく、女の子なんだからこうしなさいと言った性別で決めつけた育て方をしませんでした。それは母親自身も嫌だったからです。そのため、私は周りから言われる性別による差別や決めつけをものすごく嫌いました。「女のくせにでしゃばるな。」と言われることにとても腹が立ちました。そして、みんなが当たり前だと思っていた、女の人が結婚するときに苗字を変えなければいけないことにも納得できませんでした。
いい意味で自分の考えがある子どもでしたが、当時の先生方には面倒な異端児にしか映らなかったと思います。小学校一年生の時は担任の先生にくってかかりました。
「先生の言っていることは間違っている。謝らない限り、木から下りない!」
と抗議しました。そんなことをやらかす、とても気が強い子どもでした。しかし、多勢に無勢で、少数派の私の言葉を聞いてくれる大人は誰もいませんでした。
母はいつも忙しく、父は暇なくせに構ってくれず、先生にはそうやって楯突くので、私の話を真剣に耳をかしてくれる大人はいませんでした。そうして、私はだんだん萎縮し、自信を失っていきました。
そんな寂しい毎日を送っている中、「ドラえもん」が私の心のオアシスでした。いつしか、私がマンガで助けられているように、マンガで私のような辛い思いをしている人を助けたいと思うようになり、小学3年で、マンガ家を目指すようになりました。
その後も、ずっと誰にも話を聞いてもらえない状態が続き、私は生きている価値があるのだろうかと小学4年生の時に自殺未遂をしました。坂の上に座り込み、そのまま母親が見つけなければ、坂を昇ってきた車にひかれて死のうとしました。母親が私を気にかけて、見つけてくれるかを試したのです。運良く、母親が見つけてくれました。だから、今、生きているのですけど。一応、気にかけてくれているのかと確認して、仕方なく生きることを選びました。
小学5年生の時から反抗期も重なって、私は次第に荒れはじめました。小学校の先輩には「おまえは必ず不良になる」と言われたくらいでした。私は「おまえが不良になっても、私は絶対に不良にならない!」と心に決めました。その強い負けん気がのちに幸いすることになります。

小学校6年生の時に、両親の仕事の関係で、この市内へ引っ越してきました。私は親に心配かけまいと、強がって祖母との二人暮らし、両親との別居を自ら選びました。寂しいけれど、早く自立して、頑張ろうとしました。
ある時、近所の友達になった同級生のお母さんが、私の母親の成績がよかったことを誰かから聞いて、
「たっちーちゃんに負けるな。あなたは進学校に入るんだよ。」
と友達と私の目の前で言い放ちました。それからというもの、友達が友達ではなくなり、受験勉強の敵になってしまいました。大人達の学力主義、点数主義の歪んだ考え方で私たちは、友達の仲を引き裂かれてしまいました。
 友達だった子は、私を無視するようになりました。私は学校に自分の居場所を失っていきました。そのうち、登校拒否もするようになっていきました。いじめてくる人たちにどうやって対抗すれば良いのかわかりませんでした。苦労している母親に心配かけたくない。その一心で、ひたすら耐えました。正直、とても怖かったです。たった一人では立ち向かうことができなくて、とても心細く感じました。
学校にいかない日が増えて、祖母が心配し、祖母から連絡を受けた母親が尋ねてきました。なかなか理由を話さない私を見て、どうしたらいいかわからなくなった母親が泣きました。私は仕方なく事情を話しました。母親が学校の担任に言ってくれましたが、結局、何もしてくれませんでした。こんなに辛いのなら、苦しみからの逃れるために自殺してしまおうか、と思う心と、あいつらのせいで自分の居場所を奪われたんだと思う憎しみもわき起こりました。次第に「殺してやろうか」と言うおぞましい気持ちを我慢しながら、学校に通うようになっていきました。「暴力をふるってきたら、ただじゃ置かない」「今に見ていろ」と言う復讐心を持ちながら、気持ちを奮い立たせて、なんとか生きていました。一触即発状態でした。

なんとか辛い状況を耐え抜き、中学校に進学しました。
中学一年の時、今度はそこで、美術の教師によるいじめがありました。私はマンガが大好きで、絵や工作がとても得意でした。しかし、ちゃんと作品を作っても、すべてに難癖をつけてくる美術の先生。私はそんな先生に反抗して、授業をボイコットするようになりました。その時は、担任の先生が気にかけてくださり、助けてくれました。次の年に、美術の先生は異動になりました。
次は、中学二年の時に悔しい思いをしました。県知事賞の準特選を中学校で二人もらうことになったのですが、そんなに何人もいないから、私も壇上に上がれるのかなと、ウキウキしていました。しかし、壇上にあがったのはPTA会長の娘だけでした。私はショックを受けました。何らかの理由があったのかもしれませんが、当時の私にはえこひいきにしか思えませんでした。
「大人ってなんて汚いんだ。」
子どもの心を踏みにじる大人達の汚い心を憎みました。その時、納得できるように説明してくれれば、こんな気持ちにならなかったと思います。

いじめた同級生、その保護者、追い詰めた先生たちを絶対に許さない!
大人になってからも、私の心は傷ついたまま、ずっと荒れていました。

そんな時、大平光代さんの「だから、あなたも生き抜いて」の本を読みました。
大平さんは、14歳の時にいじめを苦に割腹自殺を図り、転落の人生をたどり、16歳で暴力団組長の妻になります。養父に悟され22歳で離婚。司法試験に合格し、弁護士なりました。

大平さんが養父のおっちゃんに言われた言葉があります。
「ええか、世間に復讐したらええんや。 
でもな、復讐の方法を間違えたらアカンで。
 最大の復讐は,自分が立ち直ることや。」
その言葉が私の心に響きました。
そうだ、これだ!私が、自分の周りから、日本の社会をよい方に変えていこう。私のような悲しい思いをする子どもを一人でも減らして行こう。私が将来子どもを産むことができたら、私のような悲しい思いをさせない育て方をしよう。全力で、いじめから、子どもを守り、くじけない子に育てようと思いました。
私をいじめた同級生、その保護者、ひどい仕打ちをした先生たちを見返してやる!
このやり場のない憎しみと怒りのパワーを、社会や地域をよい方に変える原動力することを決めました。仮面ライダーが、敵と同じ力を持ちながら、人間をを支配するためではなく、人を守る力にして闘うように復讐のパワーを使おうと思いました。

日本の社会を良い方へ変えるには、まず自分の子どもからでも新たな意識で育てた方が未来が確実に変わると思いました。そして、色々考えるうち自分の子どもだけでなく、周りの子どもたちの教育環境をよいものにしていきたいと考えました。それにはどうしたらよいかをひたすら考え、たくさんの本を読み、ネットを検索しました。子どもが、自分の持てる力で、周りの人と協力して、困難を乗り越えて、簡単にへこたれずに、力強く生きていけるようなるには、どういう育て方がいいのかをひたすら探し、今も本を読み続けています。

子どもは大人にうまく言葉で伝えることができません。助けを求めるのも下手です。親を守るために辛さをすべて引き受け、我慢してしまったりします。困っている子どもにいかに気づけるか、大人が本気でおせっかいなくらい関われるのかで、その子の人生を良い方に変えていけるのではないかと思います。私は子どもの時、困っている時に、ちゃんと向き合い関わって、寄り添ってくれる大人が欲しかったです。

市PTA連絡協議会のテーマ「大人が変われば、子どもが変わる」ということですが、大人の関わり方が違うことで、子どもがどう変わるのか。
大人はどう変わっていけばよいのか。

この後の時間で、皆さんと一緒に話し合っていきたいと思います。
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ツリークライミング

2018年11月11日 | ★育児


ケンが参加している里山のわんぱく自然塾の後に、ツリークライミングを体験しました。
年長さんの時、体験しているのですが、その時は手足の力がなく、上に登っていくことができませんでした。

でも、今は小学5年生。
身体も大きくなり、手足に力がついたので、コツをつかむと、少しずつ上に登って行きました。
とても楽しそうでした。

仮想現実(バーチャルリアリティー)ではない、本物をたくさん実体験して、ちょっとやそっとじゃくじけない本物の「生きる力」をつけてほしいと願っています。
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置き勉

2018年11月03日 | ★道をひらく
どこでも市長室で、市長にお願いをしました。

その中で、市長が「置き勉」について、早速教育委員会や校長会に掛け合ってくれて、実現してくれました。

担任の先生に言ってもきっと変わらないから、市長から教育委員会に「指示」として出してほしいとお願いしました。

そして、学校から文書が届きました!


結局は、4教科の教科書とノートを持ち帰るので、実際ランドセルの中身はあまり軽くならなくて、劇的には変化しませんでした。学校の先生の意識を変えることが難しいんだなと感じました。

しかし、意見を伝えることで、こうして変えられることがあるということがわかり、とても嬉しいです。

市長!ありがとうございます。
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