みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

鎌倉の母

2014-09-15 18:48:32 | Weblog
私には、鎌倉にも母がいた。
といっても実母ではない。
正確には、実父の正妻と言われた人。
別に、だからなんだという話ではない。
敬老の日になると私は必ずこの「鎌倉の母」のことを思い出すのだ。

長い間音信不通だったこの「母」との交流は、ある一本の電話をキッカケに始まった。
鎌倉という場所は、人を妙な気分にさせると私はいつも思っている。
 
浅草の小料理屋のボンボンで薩摩琵琶奏者の友人が、「自分がやっているのは平家琵琶だから、ここに近づくと源氏の亡霊が俺に来るな来るなと囁くんで、俺は、鎌倉で未だかつて安らかに歩けたことがないんだよ」とよく言っていた。  
 そんなバカな…と私は思ったが、それでも実際にはそうした(源氏の)怨念よりもこの場所に対する愛着の方が勝っていたのだろう。
八幡宮の大鳥居の前で琵琶を片手ににっこりと微笑む彼の写真をどこかの週刊誌のグラビアで見かけた。  
 
あいつも、有名人気取りでバカなことをやっているな….。

 
そんな不思議な街へ私もある一本の電話で引き寄せられることになった。
二十年近くも前の話だ。
電話の主は私が受話器をとるなりいきなり私の名前を呼んだ。
 
「トシちゃんね?トシちゃんだろう?宮崎の加藤文嘉だけんど、覚えているかい?」。  
 
それは、かなり年輩の人の声だった。
確かに私の名前を連呼しているところを見ると、間違い電話ではなさそうだった。
それに、宮崎は死んだ父親の出身地だから多少馴染みのある土地ではあった。
しかし、一体全体、この人は誰なのだろう?  
 加藤?加藤さん?加藤文嘉?
 頭の中でその名前を何度も反芻するが何一つ記憶が手繰れない。
私が、必死に電話の主と自分の父親の関係を探り出そうとしていると、向こうから説明を始めた。
 
「私は、トシちゃんのお父さんの部下だった加藤だけども、もう覚えとらんだろうな?三十年ぶり?いやもっとかもしれん。」。 
 
彼は、私がまだ小学校に上がるか上がらないかの時の話しをしているらしかった。
 
「渋谷のウチば何回か行ったことがあるけん、まだ小さかったから覚えとらんじゃろな」。 
 
おそらく私が四、五才ぐらいの時のことを話しているのだろう。
そんなことを、今、急に思い出せと言われても無理な話だ。 
 
私は、多少苛立ちを感じ始めていた。
すると、彼の口からとんでもないことばが飛び出した。
 
「鎌倉のお母さん。シゲさんが、トシちゃんに会いたいんだと」。 
 
鎌倉のお母さん? 
ン?  鎌倉のお母さんとは、あの人のことか?
 
私の実の母は、私が中学三年の時他界した。
父親が死んだのも私が小学五年の時。
ちょうどその時だった、私が初めて鎌倉に行ったのは。
母親に手をひかれ、まだ小学校一年だった弟と私は、父親の葬儀のために鎌倉を訪れた。
情景が今でも鮮明に蘇る。 
 
見知らぬおばさん、おじさんたち….。
お葬式なのに線香の煙りは一切なく母親に教えられるままに、榊という木の葉っぱを向きを変えながら父の写真の飾られる祭壇の前に飾った。
それが、神道式の葬儀のやり方だとわかったのはかなり後になってからのことだった。

 
「そう。シゲさんが、この一年ぐらい、トシちゃんと、弟さんの、何ていったかな、弟さんの名前?」 
 
「シュンです」。私は、ぶっきらぼうに答えた。
 
「そう、そのシュンくんと二人に本当に会いたがっているんだよ。会いに行ってやってくれないだろうか?アンタも、いろいろ感情的なこともあるだろうけど、もう時間も大分たっているし、お母さんも大分年だしね」。 
 
私の小さい頃、私の母親をあれほど罵っていた人が、今頃になって急に私と弟に会いたいと言ってきている。
そういうことなのだろうか。 
 
父の家庭に子供がいないことは、実母から聞かされていたから知っていた。
それにこのシゲさんと呼ばれる人が気性の激しい人だということも聞いていた。
そのシゲさんが、私と弟にひと目会いたいと言っているからぜひ会いに行けということを私の父のかつての部下が私に伝えている。 
 
それにしても、この加藤という人は、なぜゆえにかくも長い間かつての上司に忠誠を尽くそうとしているのだろうか。
それこそ、一文の得にもならないだろうに。

「ね、わかったでしょう?シゲさんは、子供に罪はないんだし、死ぬ前にちゃんと仲直りしておきたいと言っているんだよ。じゃあ、電話番号を言うからかけてみてね」。 
 
さっきから、この人はお母さん、お母さんと言っているが、鎌倉の「その人」は私の母親なんかではない。
第一、鎌倉の家と交流がなかったのも、父の墓参りをずっとさせてくれなかったのもこの人のせいじゃないか。
それを、何で今頃になって....。 
 
私は、彼にそう言ってやりたかったが、相手の強引な口調に押されてそのまま、私は電話番号を書き取らされていた。
 
私は、受話器を置き、ボールペンで走り書きしたその電話番号をじっと眺めた。 
 
そして、頭の中で「その人」の顔を思い出そうとした。

彼女に会ったのは二回だけだった。
一回目は、父の葬式の時。
二回目は、母の葬式。
どこで聞いたのか、誰が知らせたのか、母の葬儀の場にその人はいた。
右足を引きずり和服を着た初老の婦人は、父の「その人」に違いなかった。 
 
父の葬儀に、父が認知した子供二人を連れて一人乗り込んだ母の勇気にも私は感心した。
子供を連れていけば門前払いされることはないと思ったのだろう。
自分自身に財産を相続する権利はなくても、父の子供である私と弟には法律的な権利は残されているはずだった。
母親は、その権利を主張しに行ったのだろうか。 
 
そして、その母親が死んだ時、今度は、逆に正妻であるシゲさんが我が家に乗り込んできた。
別に、我が家に乗り込んできても、彼女が私の母や私の家から取れるものは何もない。
純粋に、母の死を悼みに来たと言うのだろうか。 
 
結戦中戦後を通じて長い間続いた親の世代三人の相克のドラマは、正妻であるシゲさんと私たち兄弟を残した形で幕を引いた。
と思っていたのに、また新たな幕が、今度は私を当事者にして始まろうとしていた。

私は、メモ用紙の上に書かれた電話番号を眺め、受話器をにぎろうとする衝動を何度も抑えた。 
 
私の頭の中で同じセリフが繰り返された。
 
「シゲさんですか?お久しぶりです。トシロウです。お元気ですか?」
どう考えても陳腐だ。
いや、それ以上に滑稽でさえある。
まるでドンキホーテじゃないか。
正体のまったく見えない相手に道化をしていても意味はない。 
 
私は、意を決し受話器を取った。
 
呼び出し音が聞こえてくる。
一回、二回、三回、と。
そうだ、あの人は、確か足が悪かったはずだ。
右足を引き摺っている。
小さい頃に小児マヒを患ったからそうなったのだと聞かされていた。

十回以上は待たなければ。自分にそう言い聞かせた。  
しかし、呼び出し音は意外に早く途切れた。
五回ほど聞いただろうか。 
 
「ハイハイ」。
明るいノビのある大きな声だった。 
 
とても九十歳近い老人の声には思えなかった  
別人が電話に出たに違いない。
 
「あのう、シゲさんはいらっしゃいますでしょうか?わ、わたしは、….というものですが…」。
声がうわずっている。あがっているのかもしれなかった。
 
しかし、相手はいきなりこう答えてきた。
 
「トシロウちゃんね?早く来んね。待っとるよ。いつ?明日かい?」。
 
思い掛けない展開だった。
このままでは、明日鎌倉まで行くはめになりそうだった。
私は、咄嗟に三日後の土曜日ではどうですかと答えていた。 
 
私の答えに満足したのか彼女は、土曜日ね、土曜日ねと何度も念をおしながら電話を切った。


私の両手には、朝顔の鉢と昼顔の鉢が一つずつぶら下げられていた。 
 
前日、入谷の鬼子母神の朝顔市で買ったばかりのものだった。
私が「その人」に土曜日と答えたのは、毎年七月の最初の週末に行われる朝顔市のことを思い出したからだった。
朝顔市の初日が金曜日。 
 
私の頭の中で、鎌倉と朝顔が何のためらいもなく結びついていた。
  
朝顔だけでは寂しい。
昼顔も持っていこう。

私は、朝顔を昼顔をひと鉢ずつ買った。 
 
七月の日射しと八幡宮から海へと通じる通りの照り返しは強烈だった。
額から汗が容赦なく滲み出てきていた。
しかも、両手を塞がれている私は、ポケットからハンカチを取り出すこともできない。 
 
私は、汗で目が霞みそうになるのをじっと耐えるしかなかった。
 
「確か、この辺りが小町のはずだが」と電柱の番地表示を見る。
 
郵便局を通り過ぎたあたりから小さな川が歩道に沿って見えていた。 
 
「そうそう。この川は、海まで通じているはずなんだ」。
私は、小さい頃の記憶を辿っていた。
 
小さい頃の記憶といっても父の葬式の時ではなかった。
それよりもずっと後、私の母が私と弟を連れて父の墓参りに来た時のことだった。 
 
北鎌倉と鎌倉とのちょうど中間あたりの寺に父の墓はあった。
鎌倉で唯一の尼寺だということだった。
大きな背丈の竹が見事におい茂る寺だったが、由緒のある大きな寺の多い鎌倉の寺の中では多少貧相に見える寺でもあった。 
 
確か、この寺に来たことが二回ぐらいあったはずだった。
しかし、母が死んだ後、私も弟も、私の親類は誰も父の墓を訪れなくなっていた。
いや、その話題を口にする人もいなくなっていた。 
  
父の墓は、今もあの尼寺の中にあるのだろうか。
それとも、まったく別の場所に移されてしまったのだろうか。
母と私たちは、父の墓に詣でた後必ずこの道を通って海まで行った。
 

私は、郵便局を通り過ぎしばらく行ったあたりを左に曲がった。 
 
地元の人間や観光客で、平日でも人通りの絶えることのない大通りを一本小道に入っただけでそこは古都鎌倉だった。 
 
どの家もゆったりとした敷地に石や竹、木の塀で家を取り囲み、他所ものを寄せつけない毅然とした門構えを持っていた。
 
左手に大きな寺の裏門があった。
その向いには、料亭なのだろうか、通りすがりの一見の客はお断りとその看板が無言で語りかけていた。
さっきまで聞こえていた自動車の騒音と人々のざわめきと入れ代わりに、寺の塀の上に突き出した竹林がさわさわと風にそよぐ音が聞こえてきた。
頭の上では、鳶が空高く舞っていた。 
 
私は、あの琵琶奏者の言った源氏の亡霊の声が今にも聞こえてきそうな気配を感じた。
 
もちろん、真昼の炎天下に出てくる亡霊などいるわけがない。
しかし、鎌倉には過去がいつもそこにある。
亡霊たちが真っ昼間か顔を出してきてもおかしくないほどの深遠で冷徹な雰囲気が備わっている場所だ。 
 
鎌倉の小学校のほとんどは戦前の古い校舎のままだ。
少しでも掘り起こせば、遺跡や人骨が出てくるからうかつに建て替えられないのだそうだ。
 

「確か、このあたりのはずなのだが」と番地と表札を照合すると、そこにはミツトミ・トシミ(確かに父の名だ)、ミツトミ・シゲと書かれた木の表札があった。
竹の格子戸のある古い一軒家だった。 
 
「この家がそうなのか?」。
 
私は、目の前の表札を見ながらその人の姿を想像した。
 
それにしても、なぜ三十年以上も前に死んでしまった父の名前がまだ表札には書かれているのだろうか。
私は呼び鈴を押した。
 
通りに面した古めかしい格子戸と家の玄関までは数メートル距離があった。
しばらくすると、玄関の引き戸ががらがらと音をたてて開いた。 
 
懐かしい音だ。
 
今は、一軒家だろうがマンションだろうが、引き戸の玄関などほとんど見かけない。
蝶番で開くドアの音は、オイルが切れていない限りほとんど無音だ。
現代社会は、ガラガラという音すら許容しないのだろう。
 
その「音」の向こうから現れたのは、小柄な和服姿の女性だった。

「トシロウちゃん。いらっしゃい。こっち、こっち」と言って、彼女は私を手招きした。
早く玄関の方に来いと言っているようだった。 
 
私は、格子戸を開け、みやげの朝顔を彼女に渡した。
 
「あら、朝顔ね。きれいだね。ありがとよ」。
彼女はそう言った。その声は近所中に響き渡るのではないかと思われるほど大きなものだった。 
 
「こっちに来なさい。今、全部案内してあげるから」。
そう言って、彼女は、私を裏庭の方に案内し始めた。
 
さほど広い庭ではなかったが、ボケ、カイドウ、柿、枇杷などの大きな庭木が生え、ゆったりした佇まいの風景はまさしく鎌倉ならではのものだった。
大きな枇杷の木には枇杷の実がたわわに実り、枝はその重みに耐え切れず大きく曲がり、川幅二メーターほどの先ほどの小川の方まで迫り出していた。 
 
「そこは、鯉もたくさんいるし、何だかわからないけど魚がたくさん上がってきているよ」。
 
きれいな小さな川の流れだった。
街の中にある川でこれだけ水の澄んだ流れを見るのは久しぶりだった。 
 
「トシロウチャン。これ、みんなあんた達兄弟にあげるからネ。私が死んだら、住もうと売ろうと、あんた達の 勝手だからネ。ちょっと古いけど、手入れすればあんた達でも住めるよ」。 
 
いきなり何を言い出すんだこの人は。
 
私は面くらった。
この人の頭の中では、父親が死んでからの三十数年は一体どこに行ってしまったというのだろう。
あれほど頑強に、私の母親と私たち兄弟の存在を拒み続けていた思いはどこに消えてしまったのだろう。
 
いくら子供がいないとはいえ、私はこの人の本当の子供ではない。
 
「私と弟は、あなたの父親が他所に女を作って産まれた子供です。その私たちに、いきなり家を継げと言うのですか?」

 
私の母親は、三人姉妹の一番末っ子。
鹿児島で生まれた母は、祖母や叔母たちと一緒に戦争中、台湾に疎開していた。
鹿児島は台湾に近い。 

三人姉妹の中でずば抜けた容姿を持っていた母が、日本の軍人たちが催すパーティに借り出され当時台湾総督府の要職にあった父の目にとまるのにそれほどの時間はかからなかっただろう。 
 
そんな事情を、父の正妻であったこの人はどれほどわかっていたのだろうか。


私は、案内されるまま家の中に通された。
茶室になっている居間には、小さなちゃぶ台と座蒲団が敷かれていた。
床の間には、南画の掛け軸とお茶の先生だというシゲさんが活けたのだろうか、百合の一輪ざしが置かれていた。 
 
「お昼、まだでしょう?今、用意しますからね」。
 
そう言われて、まだ昼を食べていなかったことを思い出した。
 
しかし、私は反射的に、「大丈夫です。お構いなく」と心にもないことを言っていた。  

聞こえているのかいないのか、私のことばなどまったくおかまいなしに彼女は食事の支度を始めた。
 
居間の目の前には廊下と廊下の向こうに縁側があった。
縁側に接する窓ガラスは全部開け放たれていた。
畳み十畳ほどの居間から廊下、縁側、そしてその前には草花の生い茂る庭が広がっていた。 
 
夏の日射しは高い位置にある。
縁側の上のひさしに遮られて太陽の光は家の中まで届いてこなかった。
時折、外から心地よい風が居間の方まで吹き込んでいた。 
 
庭の手入れもしっかりと行き届いていた。
梅の木には、梅雨の間にもがれずに枝についたままの梅の実がたくさんぶら下がっていた。
 
「たくさん、もいでいきなさい。私は、もう梅酒も何も作らないから」。そう言って、彼女は、梅の実をもがせようとした。 
 
「私は梅酒なんて作ったことありませんし、祖母が毎年作っていた梅酒がまだたくさん残っていますから」。
 
私は、このまま彼女の言う通りにしていたら、梅の実をたくさん持たされそうだと思った。 
 

この家では時間が止まっている。
 
私はそう思った。
 
すべてが一つの平面にあった。
台所から便所、玄関、廊下、居間、寝室、縁側、庭に至るまでそのすべてが同じ平面上にあり、そこを仕切るものは何もないかのようだった。
同じ一つの風が家の中を巡っていた。
 
この空気の中にいるのは、私と彼女の二人だけ。 
 
しかし、孫と祖母ほども年の離れた二人の間に共有されている時間は何もなかった。
そこにあるのは、ただ一人の男性でつながる縁、それだけだった。
彼女にとって、私は一体どういう存在なのだろうか。
本当に息子だと思っているのだろうか。
 
三十年以上も前にこの世を去ってしまった自分の夫とその不倫相手を許し、その二人の間にできた私という存在を無理矢理息子だと思おうとしているのだろうか。
 
いっそ単刀直入に聞いてみようか。

「私は、あなたの息子ですか?」 
 
私がこの家に足を踏み入れてからどれだけの時がたったのか私には皆目見当がつかなかった。
私は腕時計をしていないし、この家の中にも時計らしきものはどこにも見当たらなかった。 
 
彼女は、一体どうやって時間を計っているのだろうか。
あるいは、彼女の生活に時間などまったく必要のないものなのだろうか。 
私は、座蒲団の上であぐらをかいていた足をなげだした。
両方の手を後ろでにつくと私は、上半身の体重を自分の腕にかけた。
思いっきり伸びをしてみたくなったのだ。
その時、彼女が急に朝顔のことを言い出した。  
 
「さっきの鉢、縁側の下に置いてちょうだい」。
そうだ、鉢は、まだ玄関に置いたままだった。
私は、ゆっくりと起き上がると、鉢を取りに玄関に行った。 
 
玄関には、縦横五十センチ、高さ三十センチほどの大きな敷石があった。
鉢は、その敷石の脇の地べたに置かれたままになっていた。 
 
私は、二つの鉢を手に取ると、それを縁側まで運んだ。
地面に降り立った私は
「ここら辺でいいのかな?」そう聞いた。
 
「そうそう、そこでいいよ。やっぱり、こっちの方がいいじゃないか。ウチには蔓のあるものは何もないんだよ。何にも取られたくないからね」。

そう言いながらシゲさんが私の前にやってきた。
 
「蔓があると、木もくいも枝も、屋根もひさしも全部取られてしまうからね」。
 
次ぎの瞬間、頭を前にかしげ過ぎたのか彼女の身体が前につんのめりそうになった。
私は、咄嗟にぐらつく彼女の体を下から支えた。
なんて軽いんだ。

 
私は、「あの日」と同じように、シゲさんの家の格子戸を開け、庭の敷石に足を踏み入れた。
告別式から十日はたっていたはずだ。
私が引き戸を開けた気配を感じたのだろうか、家の中から五十代ぐらいの一人の男性が出てきた。
私の顔を見ると、その男性は、私に軽く会釈をした。
 
「トシロウさんですか?」その男性が尋ねた。 
 
ええ、そうですと答えると、その男性は、わざわざ遠くまですみませんねと言った。
そして、自分がシゲさんの弟の子供であることを告げた。
 
シゲさんには、姉と弟がいたはずだが、どちらもはるか昔に亡くなっているはずだった。
しかし、そのどちらの親戚ともシゲさんはかなり頻繁に交流があったのだろう。
男性の口ぶりから、そうした過去を私にわざとひけらかすようなそぶりが感じられた。 
 
私と弟。それは、この男性にとってもまったく無視することのできない存在。
しかし、同時にあまり関わりたくはない相手。
そんな彼の心の中がすぐに透けて見えた。

 
その数日前、私は、しばらく会っていなかったシゲさんの様子が気になり、電話をした。
 
聞き慣れない声が電話越しに聞こえてきた。
女性の声だった。
いつもの明るいシゲさんの声ではなかった。
暗く沈んだ声だった。 
 
私が自分の名前を告げると、相手は、シゲが一週間前に死んだこと、そして、今家の中の後片付けをしている所だと私に教えてくれた。
そして、さらにその女性は少し苛々した様子でこう付け加えた。 
 
「叔母は、九十二で亡くなりましたが、あなたの事は叔母から時々聞かされていました。叔母がこの家を譲るとか言っていたそうですが、そんなたわごとはもうお忘れください。叔母は、ちゃんと遺言を残していて、財産は全部こちらの親戚で分けることになっていますし、この家も処分してしまいます。もう二度とこちらにはかけてこないでください」。
そう言って、女性は無造作に電話を切った。

 
シゲさんが亡くなった。
九十を越えている彼女にいつ死が訪れても何の不思議はなかった。
随分前に大往生した私の祖母も享年は八十八だった。
それに比べて、なんて長生きな人なのだろうとずっと思っていた。 
 
もちろん、年寄りの一人暮らしを役所がほうっておくわけはなかった。
時折ヘルパーさんが訪れていたようだったが、健康そのものだった彼女に対して役所もとりたてた危機感は持っていなかったのかもしれない。 
 
亡くなったシゲさんの亡骸を発見したのは用事で訪れた隣家の住人で、死後二日たっていたそうだ。
よくある話、と言ってしまえばそれまでのことだが、その間、シゲさんは、誰に看取られることもなく家の中に一人放置されていたのだ。 
 
私は、その男性の後を追って家の中に入った。
もう一人女性の姿があった。
この男性の奥さんだろうか。
それとも、私が一昨日電話で話した相手なのだろうか。
私は、すっかり物の無くなってしまった家の中を見回した。
元々そんなに家具がたくさんあった家ではなかった。
平屋の一戸建て。すべて畳みの部屋である。
年寄りの一人暮らしにそれほどの荷物は必要ない。
大きな家具で目立ったものと言えば、箪笥と旧式の白黒テレビぐらいだったろうか。
大きな足の四本ついたテレビは、おそらく昭和三十年代ぐらいに購入したものだろう。
もちろんリモコンなどという気のきいたものはなく、カチャカチャと手でチャンネルを回していかなければならない代物だった。 
 
時々、そのテレビをシゲさんと二人で見た。
彼女は新聞のすべての面を毎日くまなく読むといっていたが、テレビはほんのたまにしか見ないとも言っていた。
ちょうど歌謡番組をやっていた。
往年の大物女性歌手がブラウン管の中で歌っていた。 
  
私は、彼女のごきげんをとるつもりでこう聞いた。 
 
「お母さん。この人の歌、好きでしょう?」。
 
私は勝手に思い込んでいたのだ。
お年寄りならすべてこの人のファンだろうと。  
 
しかし、彼女はちょっと怒ったような口調でこう言った。
 
「私はこの人嫌いだよ。何で、あんな気持ちの悪い濃い化粧をして整形おばけのような顔で歌っているんだろうね。それに、この人の歌、ちっとも上手かないよ」。 
 
彼女の言う通りだった。
確かに、この歌手は若い時は数々の名声をうちたてた人だったのかもしれないが、既に音程はかなりあやしくなっていた。

私は、シゲさんがいつも座っていたちゃぶ台の場所、そしてテレビの置かれた場所を見た。
しかし、そこには何もない。
 
今どきあんなテレビを欲しがる人がいるとも思えない。
きっと、粗大ごみにでも出してしまったのだろう。 
 
私は、急に不快な感情に襲われた。  
私は、一体ここで何をしているのだろう。
  
遺品でも探しに来たのか。
 
いや、そんなことではないだろう。
第一、此の家に遺品などというものが存在するとも思えなかった。 
 
できるならば、こんな形でこの家を訪れたくはなかったのに。
 
できれば、たった一人でシゲさんの住んでいた時そのままの家の中に入り、自分が最初にこの家を訪れた時と同じように、縁側に向って庭を静かに眺めたかった。
そうやって、たった二年半の短いつきあいだった「鎌倉の母」との日々をゆっくりと振り返りたかった。 
 
しかし、私は、既にその家の招かれざる客になっていた。 
ひと通り家の中を見たら早々に引き上げよう。
 
その方が、私にとっても彼らにとっても平和なはずだから…。
 

私は、縁側に立った。 
 
庭に面したガラス戸は閉め切られていた
。冷房のまったくない家であったが、夏でもこの家で暑さを感じたことはほとんどなかった。
私はガラス戸に手をかけた。
ちょっと手に力をいれ、そのガラス戸を右に押し開けようとした。
相変わらず立て付けの悪い引き戸だった。
 
私が、戸の上の方にだけ力をかけたせいだろうか、ガラス戸は、下の方でひっかかり一瞬止まった。 
 
しかし、私は、そのまま強引に力をいれ、ガラス戸を右に押しやった。
 
ひっかかりながらも、その戸はガラガラと音をたてて開いていった。
すうっと風が家の中に流れこんできた。
私は、背後に二人の視線を感じた。 
 
せっかく閉めている戸を(この人は)なぜわざわざ開けてしまうのだろうか。
 
そんな非難の視線を感じながら、私は庭を見た。 
 
「この綺麗な庭を見るのも今日が最後だな」。
そして、私はゆっくりと視線を下に落とした。 
 
「あ、朝顔!」
 
朝顔と昼顔の二つの鉢は、私が初めてこの家を訪れた時に置いたそのままの位置に置かれていた。
 
シゲさんと再会した最初の年の夏の終わり、私は、彼女にこう言った。 
 
「お母さん。朝顔を毎年咲かせましょうよ。何なら、ここに大きなひさしというか藤棚みたいなのを作って朝顔を一面に咲かせましょうか?」。
しかし、彼女はこうことばを返した。 
 
「鉢だけにしときなさい。朝顔に縁側を全部占領されてしまいたくないからね」。
 
私は、秋になると、咲き終わった朝顔から種子をとってシゲさんに渡した。
彼女も、律儀にその種を蒔き、鉢の中で朝顔と昼顔を育てていたのだ。 
 


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2 コメント

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ご無沙汰 (松丸 浩)
2014-09-29 21:44:11
ご無沙汰してます。
ずいぶん前に、まだ義理のお母さんがご存命の頃
鎌倉の話をしていたみつとみさんを思い出しました。
またメールします。 
Unknown (みつとみ俊郎)
2014-10-01 19:01:31
松丸さん、
久しぶりです。鎌倉の母を背負って墓参りしたことなんか話したような話さないような...。人生ってホント何があるかわからないし、自分が何をするかもわからない。でも、鎌倉の母のこと、よく覚えてましたネ。

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